iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

うーん、とにかく気持ちがイイ。最近25M潜水は簡単になり、さらに力を抜いて千メートルほど。その後、露天のジャグジーで。繰り返すが、とにかく気持ちがイイ。いつも思うのだ、なぜ泳げない人はおぼれるのだろう? ぼくには溺れる方が不思議。自然と浮いてしまうのだ。
フェイスも同じ。十字架は死と復活のサブスタンス。罪と死の法則からいのちの御霊の法則への転換(Rom 8:2-4)。重力の法則を浮力の法則が打ち破るのと同じ。それはサイエンスの世界だ。強迫神経症的に「自我を砕きぃ~」とか、「聖化、聖化っ」と叫ぶクルシチャンたちは力が入っており、もがく、すると逆に沈む。叫べば叫ぶほどドツボにはまる。
水と同じで、力を抜けば浮かぶ。その法則に乗るコツを得た人には、逆に沈むのが難しい。あえて沈めば25Mくらいは潜水できるが、それは不自然で苦しい。 死は究極の脱力。脱力すればあとは自動でいのちの御霊の法則が働く。死が働くとき脱力、それは安息。それはフワッと天へと引き上げてくれる。
十字架って、重荷でもないし、もがきでもないし、苦しさを我慢することでもないし、「自我を砕きぃ~」とかヒステリックに叫ぶことでもないし、ましてや病気や 貧困を耐え忍ぶことでもない。十字架はすべての病を癒し、われわれを豊かにしてくれる。しかもそれは軽い。なぜ? 究極の脱力だから。
ニッポンキリスト教のマトリックスから解かれよ。宗教の十字架を負わされるな! フェイスの法則は霊的サイエインス。脱力すること、こんな安楽な道はないのだ! 老子の言う無為自然の道、道元の心身脱落だ。問題は脱力して後、誰に、あるいは何の法に委ねるか、だ。もちろん・・・。

聖書は生命現象の書であり、また数学の書である。153という数字の不思議さや(☞153匹の魚(IΧΘΥΣ)の奥義)、創世記1章1節には円周率<π>が、ヨハネ福音書1章1節にはネイピア数<e>がコードされていることはすでに指摘した(☞Amazing!!! πとeが聖書に隠されていた!)。この二つの数値は宇宙を記述する基本定数である。そしてキリストについてはこう証言する:
それはあなたがたが十全な強靭さを得て、キリストの奥義の幅、長さ、高さ、深さがどれほどであるかをすべての聖なる者たちと共に把捉し、人知を超えたキリストの愛を知って、神の全き充満へと満たされるためにである-Eph 3:18-19(岩波訳)
今回のメッセでキリストは領域(sphere)であると語った。それがどれほどのものであるかを知れとパウロは言う。キリストの奥義のディメンジョンは4次元だ。私たちエクレシアが完成された新エルサレムは立方体。そのサイズは12,000スタディオン。旧約の至聖所も立方体。幕屋では10キュビット、ソロモン神殿では30キュビットだ。神の臨在の場は拡大するのだ。
それは完全立体である立方体で象徴される。新エルサレムには神殿はない。太陽も不要。それ自体が神の臨在であり、光を放つのだ(Rev 21:22-23)。もはや奥深くに隠されてはいない。新エルサレムは小羊と結婚する。つまりわれわれエクレシアの完成した姿であり、それ自身が神の臨在であり、神の光を放つ。イエスが山で変貌された姿はそのことの予告編。
この教会(エクレシア)はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。-Eph 1:23(岩波訳)
何度も指摘するが、何か教会という場所があって、そこに聖霊様の油注ぎや充満があるという聖霊派の理解ではない。充満そのものがエクレシアなのだ! つまりエクレシアとはキリストの臨在そのもの。至聖所は私たちの霊を象徴する。その霊は神の息(霊)を分け与えられたもの。つまり神であり、神の臨在そのもの[1] … Continue reading。
旧約では幕屋や神殿の奥に隠されていた。今はわれわれの肉の中に隠されている。だからそれはGodliness(Eusebeia)の奥義[2]これを邦訳では信心の奥義とか敬虔の奥義と訳すが、訳語として適切ではない。ゆえに原語どおりエウセベイアの奥義と言っておく。、つまり肉において現される神だ(1Tim 3:16)。現経綸ではわれわれの肉を通して神は現れる。しかし新エルサレムはもはやまったく隠されていない。神の霊と私たちの霊とが融合した神の臨在そのものとされる。
わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。-Col 3:4
三なる神と人が共に住まい一体とされた存在(Eph 2:22)。つまりそれは 3+1=4 次元立方体なのだ! その3次元空間における展開図は、なんと十字架そのもの! つまりキリストの奥義の3次元空間ヘの投影が十字架なのだ! あなたには上のアニメを見て、4次元立方体が見えるだろうか?
参考:聖書が究極的に語ること

聖書には一見すると種々の矛盾点が散見する。すでにメッセでも語っているが、たとえば香壇の位置。出エジプトでは聖所にある(至聖所の幕の手前;Exo 30:6)が、ヘブル書では幕の後ろつまり至聖所だ(Heb 9:4)。ここに旧約と新約のドラスティックな相転換を見ることができる(☞幕屋の秘密)。
さて、きわめて初歩的な質問であるが、ジーザスが十字架につけられた日と時刻はいつでしょう? なんだ、金曜日の朝9時から午後3時まででしょう・・・がいわゆるキリスト教徒の答えであろう。しかし、事はそう単純ではない。
共観福音書では、その日は過ぎ越し[1]Pesach。このヘブル語の意味とピクトグラムがまた深いのだ。と除酵祭の第一日にして、安息日の準備の日であると記録されている(Matt 26:17;Mark 14:12;Luke 22:7)。安息日は金の夕から土の夕までだから、それは木の夕から金の夕であり、ユダヤの日付でニサンの14日。そしてニサン14日の夜(木の夜)、いわゆる最後の晩餐(=過ぎ越しの食事)をとられ、15日の深夜(金の零時ころ)捕縛され、夜が明けてから裁判にかけられ、その午後十字架につけられた(金の9時から15時)。そして葬られニサン17日の早朝(日の朝)に復活された。
ところがヨハネを見ると、ジーザスを総督官邸に連行した者たちは過ぎ越しの食事を汚れないで摂るために官邸に入らなかったとある(John18:28)。つまり過ぎ越しの食事の前だ。さらに十字架の日は特別の安息日(ニサン15日)の準備の日であり、遺体をそのままにすることのないように足を折ろうとしたが、すでにジーザスはこと切れていたとある(John 19:31)。すると、これはニサンの14日になる。
うん? ジーザスも弟子たちも最後の晩餐をしたことは共通しているが、それっていったい何だったのか? 過ぎ越しの食事とすれば共観福音書とヨハネ福音書で矛盾が生じるのだ。はたしてジーザスの十字架刑はニサン14日それとも15日?
さて、ここでこれらの証言をどのように突き合わせていくべきか。それとも聖書の記事は適当だから、おおまかなレベルで理解すべきなのだろうか? さらに主の復活は初穂であるから、初穂の祭り(ニサン16日)との関係は? はたまた出エジプトでマナは6日目には二日分が降ったのだが、それとの関係は?
・・・というわけで、今週はこの謎解きにかなり楽しい時間を費やしました。かなり面白いことが発見できたと思いますが、次回のメッセでご披露するつもり。聖書は先入観や今の時代感覚で読むとまったく理解不能。一枚の平面上で見るから矛盾が出るのだが、次元を上げるとキレイに解ける[2]これもマトリックスの違いによるのだ(☞マトリックス・シフテド)。。イスラエルとエクレシアの関係もなども同じ平面上で見ると置換神学などが生まれてくるわけ(☞教会とイスラエルの関係について)。

次元を上げよ! 例えば、平行でない二本の直線は同一平面上だと必ず交わるが、空間においては交わらないように配置できる(ねじれの位置関係)。聖書の一見矛盾する事も、これと同様に次元を上げることによってきれいに理解することができるのだ[3] … Continue reading。
パウロは言う、キリストの愛の幅・長さ・高さ・深さを知れと(Eph 3:18)。つまり4次元だ。至聖所(神の臨在の場)は3次元立方体(完全立体)だったが、キリスト(神の臨在そのもの)は四次元の立方体[4] … Continue reading。数学的には超立方体というが、これを3次元で展開するとどの四方から見ても十字架となる。十字架は神の愛と義という一見矛盾するものを矛盾なくに証しする場である[5] … Continue reading。
一般に、矛盾とかジレンマとは二つの要素を同じ平面上に乗せることによるのだ。聖書を理解するには3次元空間ではなく、神の次元から見る必要がある。神の視線をもって見れば、すべての事は、たとえば人生の葛藤や問題もきれいに配置され、むしろ美しくすら見えるようになるだろう。
天が地を高く超えているようにわたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。-Isa 55:9
References[+]
↑1 | Pesach。このヘブル語の意味とピクトグラムがまた深いのだ。 |
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↑2 | これもマトリックスの違いによるのだ(☞マトリックス・シフテド)。 |
↑3 | 聖書は実に数学である。たとえば153匹の魚とか、創世記1章1節にはπが、ヨハネ福音書1章1節にはeが暗号化されている。これらふたつは宇宙を記述するための基本定数である。さらに\(-e^{i\pi}=1\)などは父・子・聖霊なるYHWHを表していると言える(☞iPAIの覚醒)。 |
↑4 | 新エルサレムは一辺12,000スタジオンの立方体。それは小羊の花嫁であり、神の臨在そのものだから神殿もなく、それ自体が神の栄光で輝く。それはエクレシアの完成した姿だ。文字通りの都市なのどではない。都市が小羊と結婚はできないでしょう。 |
↑5 | 神は愛であるゆえに人を裁けないが、裁かなければ神の義に抵触する。愛と義は両立し得ない? あるいは神がすべてを定めているのであれば(決定論)、人が何をしようが(自由意志)無意味となる。神の予知と人の自由意志は両立し得ない? ・・・といった神学論争のテーマは次元が低い議論なのだ。 |

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。-Rev 21:8
この聖句は実に厳粛。信じない者や人殺し、姦淫する者にまさっておくびょうな者がリストされている。おくびょう者は恐れの霊にやられている人。たとえば、メッセでも語ったが、癒しをすっと受ける人は自分を手放している人だ。福音のために自分を注ぎ出す人。対して次々に病に襲われる人は自分を大事にしている人。主のことよりも自分を優先する。セレブよりも病院通いを先にと。
自分を大事大事にしている人はどうも逆に敵に弄ばれてしまう。見かけは信心深いようでも、実は主よりも自分を選んでいるのだ。これは究極の自己欺瞞。聖書はよく知っているし、あれこれの霊的書物もよく読んでいる。が、自分を手放せない。不思議なものだが、おくびょうな人は敵の格好のターゲットになってしまうようだ。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょう(恐れ)の霊ではなく、力と愛と健全な思いの霊です[1]邦語訳では慎みの霊となっているが、どうも宗教的あるいは倫理的な価値観を入れる傾向がある。。-2Tim 1:7
恐れはサタンのパワーを、フェイスは神のパワーを誘発する。自分を愛するほどに恐れの霊は力を得る。自分を救おうとするれば失い、自分を失えば得る。勝利への第一歩は自分を手放すこと、自己放擲(ほうてき)にある!
対して、終わりの時代の特徴は-
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心[2] … Continue readingを装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。-2Tim 3:1-5
何よりも自分自身を愛すること、これが諸悪の根源なのだ。自分の生存を担保するためにカネが必要、カネを得るためにはほらを吹き、いざ得ると高慢になり、神に頼ることがなくなる・・・と、これから諸悪が生み出される。まさに現代はこのような事態が展開していることは誰も否定できない。
よく言われるが、神は自ら助ける者を助ける・・・これを聖書の教えと思っている向きがかなり多いが、真理は真逆である。神は自ら助けない人を助けるのだ。
自分の命(Gk.魂)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命(Gk.魂)を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。-Luke 9:23-24
究極的には、フェイスはキリストかセルフかの選択。フェイスはセルフを手放したところに働く。これが十字架の働きだ。この点、禅では次のように説く-
仏道をならふというふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。-道元『正法眼蔵-現状公案』
もちろん、禅者の生きるいのちはアダム系のいのち。対してキリスト者はZoeのいのち。いのちの次元の違いはあるが、自己(セルフ)の扱い方は同じ。まことに人類は善と悪を知る知識の木の実を食したところからあらゆる苦悩が始まった。その二元的世界を超えることは禅の目指すところでもある。
この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち 仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛のい のちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、佛のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなか れ。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死 をはなれ佛となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。-道元『正法眼蔵-生死』
要するに生と死といった二元的世界に心をとどめると仏の心(本来の自由な心)を失うが、あれこれ心に諮ることなく、言葉を弄することなく、自分を放ち忘れ、仏(万法)に投げ込むとき、その法が自然と物事を成し遂げ、何の力も不要となり、仏(本来のあり方)となることができる。そのとき、心には何も留め置かれることがないのだ・・・[3] … Continue reading。
この自分を手放すことを「百尺竿頭に一歩を進む」という。百尺の竿の先にあって一歩を踏み出すこと。聖書的には激流のヨルダン川に一歩を踏み出すことだ。すると激流が止まる! まことに善と悪、生と死を離れて、自己放下した者は幸いである。
References[+]
↑1 | 邦語訳では慎みの霊となっているが、どうも宗教的あるいは倫理的な価値観を入れる傾向がある。 |
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↑2 | あるいは敬虔。原語はeusebeia、これも日本語マトリックスで理解してはならない。聖書は聖書で定義すること。すなわち1テモテ3:16の定義によれば、神が肉において現れること(1Tim 3:16)。極私的には「フェイスとはI-AMの実体化だ」と言っているが、I-AMなる方がわれわれを通して生き出て下さることである。われわれはI-AMのエミュレーターなのだ(☞神をエミュレートする-God-OS)。 |
↑3 | 仏とは礼拝対象でもなければ、創造主でもない。釈迦は解脱した人であり、彼自身自分を拝するなと命じている。仏教の本質は徹底した認識論である。いわゆる創造主の概念は元々ない。クリスチャンの場合、この仏=法とはいのちの御霊の法則である。 |

パウロは第三の天に引き上げられた(2Cor 12:5-7)。そこで見た幻を誇らないために、肉体にトゲが与えられた[1]原文の”sarx”はローマ書などで”flesh”と訳される単語、必ずしも肉体を指すだけではない。。彼は三度も祈ったが、あなたの弱さにわたしの恵みは十分であるとの声を聞いた。
そこでよくこの箇所をして、パウロですら祈ってもその病が癒されなかったのだから、神は病気をあえて癒されないことがあるのだ、とするむきがある。そこで私は質問したい:このトゲを罪に置き換えたらいかがであろうか? 高ぶらないように私の肉体に罪が与えられた。三度も祈ったが、あなたの弱さにわたしの恵みは十分であるとして、神はその罪を赦されなかった。罪によって彼の肉を誇らせないためである・・・。
だれもが、「はあ?」であろう。そもそも肉体のトゲって病気? 私たちのマインドは何気に聖書に書いていないことを刷り込まれている。たとえば、イエスの誕生の際、3人の博士が捧げ物をしたと。
- 質問。聖書のどこに3人の博士たちと書いてあるだろうか?
さらに、イエスは貧困の中で育ったと大抵のキリスト教徒は思っている。
- 質問。この博士たちが捧げた品物を考えてみよ。ゴールドに没薬に乳香。いずれも高級品。彼らは手でもって歩いてきたのだろうか? 違うであろう。彼らはらくだに宝箱を乗せてきたのだ。ゴールドはどれほどの量であったろうか? 100グラム? またイエスは一枚織りの下着を着用していた。なぜ、ローマ兵はそれを得るために破らなかったのか[2] … Continue reading。上着は破って分けたのだが・・・。
われわれのマインドに何気に伝統的キリスト教が刷り込んだものはフェイクであると、ちょっと自分の立派なオツムを使えば分かること。
聖書は聖書で解くこと。トゲはしばしば敵の意味である(Num 33:55)。
もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう。
パウロはそれは私を打つサタンの使い(aggelos)であると明言している。病気が使者? アビュソリュートリー・ノー! このように何気に刷り込まれた価値観やイメージなどがマインドを専有していると大胆な癒しの祈りが成し得ない。わずかな不信仰のパン種が膨らんでしまうのだ。マインドがアンロックされ、これらのフェイクから解かれること。フェイスの覚醒のための第一関門である。
私たちは彼の打たれた傷によりゆるされ、かついやされた!-Isa 53:1-12


下のヨブの記事に関連してご質問をいただいた。エゼキエルの場合はどうか?
また主の言葉がわたしに臨んだ、
「人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。
朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じられたようにした。 –Eze 24:15-17
彼の妻は一瞬で取り去られた。イスラエルの人々へのしるしとして。なんと過酷なことを神はなさるのか。ご自分を知らしめるために、人々がご自分を主と認めるために、エゼキエルの妻は、おそらくなんの落ち度もなかったにも関わらず、取り去られたのだ。
この例をもって、自分の家族が死に瀕しているのは、主がご自分を現すために、あるいはご自分を主とするためのしるしなのか・・・・。とても自分は耐えきれない・・・。神に従うにはこのような代価が必要なのだ・・・。こうしてアレコレ、思いをこねくり回して蟻地獄に落ちる。フェイスを使うなどはどこかに飛んでしまう・・・。
はっきり言おう。これはトリックだ。忘れてはならないのは、旧約はすべて型であり、影であること。本体は、もちろんキリストだ(Col 2:17)。エゼキエルの妻の例も、本体であるキリストを指している。それは父なる神のタイプである。事実、父なる神はご自分の目に喜びである御子を捧げられた(Mark 1:11;John 3:16)。エゼキエルに対する過酷な要求、声をたてずに嘆け・・・云々は、父なる神ご自身の嘆きである。父なる神はご自分を知らしめるためのしるしとして、最愛の、唯一の御子を取り去られたのだ!
このエゼキエルの例を新約にある私たちの状況に適応するのは誤っている。もし、家族が病気であるならば、すでに御子が捧げられ、すべての代価が払われている故に、大胆に時期を得た助けを受けるために恵みの御座に近づくのだ(Heb 4:16)。そこにはすでにイエスの血が注がれているのだ。信仰によってご自分の元に来られる者をすべて癒して下さる!間違えてはならない。宗教の霊は御言葉を利用してわれわれを偽りに閉じ込める。神が犠牲としてあなたの家族を要求しているのだと。これは御子の犠牲を無にすることである!
これらのエゼキエル・トラウマによるトリックはすべてフェイスの欠如による自己憐憫のなせるわざだ。神がキリストにあって何をなされ、自分が何者であり、自分はどこにおり、自分は何を成し得、自分は何を得ているのか。それに基づいて何を要求することができるのか。このことを十分に確認する必要があるのだ。
このような場合に必要なのは、まず自分に信仰がないことを認めること;それを悔い改めて聖霊に息吹いていただくことを求めること。自分のマインドに去来する思いではなく、御言葉を取り、御言葉に固く立つこと。つまりヨブと同じように、自分を退けることが本質なのだ[1] … Continue reading。これが十字架だ!自分を退けて御言葉を選ぶならば、しるしとしてのイエスが払われた代価に基づいて、正当に癒しや必要の満たしを求めることが出来る。それは私たちの法的権利なのだから。
ある者はいうであろう、Dr.Lukeよ、高慢だ。神に対して正当な権利を主張する?これも宗教の偽りの謙遜。まことの遜りとは御言葉を御言葉通りに信じること。欺かれない者は幸いだ。負債はすでに完済しているのだ!大胆に信仰によって主張せよ!すべての病は癒された、と。


霊的真理は日本語で理解してはならないと何度も指摘している。日本語のマトリックスにハマると元々の豊かな意味が削られてしまうのだ。かくしてニッポンキリスト教でよく言われる;「イエス様は私の身代わりとして死んでくださったから、私は罪を赦された哀れな罪人として地上の人生を神さまに聞きしたがって、きよく・ただしく・まずしく生きたら、死んでも天国に行ける」という「福音」に落ち込む。
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 -1ペテロ3:18
この邦語訳、とんでもなく訳者の解釈が入ってしまっている。原語には「身代わり」などの単語はない。ここは新共同訳の方がまだ正確だ。
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
ここの「ために」という単語を「身代わり」と解釈したのだ。ギリシャ語は”huper”(英語の”hyper”)、その意味はStrongによると-
A primary preposition; “over”, that is, (with the genitive case) of place, above, beyond, across, or causal, for the sake of, instead, regarding; with the accusative case superior to, more than. In compounds it retains many of the listed applications: – (+ exceeding abundantly) above, in (on) behalf of, beyond, by, + very chiefest, concerning, exceeding (above, -ly), for, + very highly, more (than), of, over, on the part of, for sake of, in stead, than, to (-ward), very. In compounds it retains many of the above applications.
つまり、「超えて、上書きして、余りある」の意味だ。アダム系に生まれた私はキリストと完全に結ばれて(Rom 6:5)、死んだ;そして復活し、新しい創造として新しい私が生み出された。これは新生命体、ニュークリーチャー、ネオ・ホモ・サピエンス、すなわちエクレシアだ。
この「結ばれて」の意味も深い。原語は”sumphutos”。Strongによると-
grown along with (connate), that is, (figuratively) closely united to: – planted together.
Thayerによると-
hayer Definition:
1) born together with, of joint origin
1a) connate, congenital, innate, implanted by birth or nature
2) grown together, united with
3) kindred
KJVでは”planted together”と訳されている。つまり、インプラントされ、共に生み出され、源が結合されているの意味だ(☞包括の原理について)。
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。-コロサイ1:18
御子は死者の中から最初に生まれたお方。つまり最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活し、新創造を生み出されたのだ(1Cor 15:45)。その一連の過程においてわれわれも共にあずかり、共に生み出されたのである。もっと言えば、キリストの運命が私の運命であり、キリストは古い私をオーバーライトされた。見よ、すべてが新しくなったのだ(2Cor 5:17)。
繰り返すが、ジーザスの死とは、単なる身代わりではない。確かに身代わりの側面もあるが、それだけでは冤罪である。そこに私も包括され、共に処刑されたのだ。だから二度と裁かれることはない(一事不再理の原理 cf. Rom 8:1)!キリストは旧創造にあった私のすべて(良いものも悪いものも)を包括され、それを終わらせたのだ。
さらにキリストは罪を知らない方であったが、罪(Sin)とさえされた(Rom 8:3)。罪と言う時、日本語では単複の区別がないが、明確にSinとsinsは分けて使われている(☞罪とは)。Sinはいわゆる原罪と言えるが、私たちの体に宿っており(Rom 7:17)、罪と死の法則によって罪の体を支配している(Rom 7:21-23)。しかし、キリストはそのSinそものとされ、十字架につかれたとき、実はご自分の体にあってそのSinを処断されたのだ。それはSinを主人の座から引き下ろしたことを意味する(Vincent)。
さらにさらに、キリストは呪いとされた(Gal 3:13)。それは私たちをアブラハムの祝福へともたらすためであった(Gal 3:14)。つまりキリストはアダム系を支配した罪(Sin)とされ、呪いとされることにより、それらを十字架で完全に終わらせ、それを余りあるほどに義と祝福によってオーバーライトされたのだ!
しかも、その十字架は創造の時にすでに存在していた(Rev 13:8)。神のわざは天地創造の時以来すでに完成されている(Heb 4:3)。神のわざは時空間を超える。その永遠の領域は常にNOWであり、そのサブスタンスを時系列に生きる私の経験として現出させるパワーがフェイスである。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質)、観察されていないことのエヴェデンス(現出・暴露)である。-ヘブル11:1(私訳)
フェイスは安息である。このすでに完成された神のわざを見るならば、自分の力であれこれ何とか努力しようとするもがきから解かれるであろう。ニッポンキリスト教徒よ、クルシチャン症候群から解放されよ!
信じた私たちは自分のわざをやめ、安息に入る(Heb 4:1-13)。

先に創世記1章1節に、すでにイエスがコードとして埋め込まれていることを紹介した。この創世記1章1節の「初めには」は時間と空間と物質の始まりである[1] … Continue reading。つまり神が物理的時空間を創造されたときであり、2節との間にはギャップがあることも紹介している。ちなみにヨハネ1章1節の「はじめに」は永遠のはじめであり、時間を超えている。永遠の現在としての「はじめ」である。
さて、イエスが十字架にかけられたのは紀元30年とか33年とか言われているが、要するにこの物理的時空間における時系列の中での出来事である。が、これは歴史的事実であり、真理ではない。真理とは天のサブスタンスであり、事実、黙示録にはこうあるのだ。
地上に住む者で、天地創造の時から屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-Rev 13:8
この「天地創造の時から」が何にかかるのか。KJVではこうある:
And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world.
つまり、「ほふられた小羊」にかかっている。邦語訳では曖昧であるが、小羊は地の基が置かれる時からほふられていたのだ!もっと正確に言えば、「天地の創造のときの前には」の意味である(“apo”,Strong)。同様に私たちも天地の基が置かれる前から愛にあってきリストのうちに選ばれていた(Eph 1:4)。
神はこの地、すなわち物理的時空間に拘束されていない。彼は天、すなわち永遠の現在である霊的領域のお方。イエスの十字架は天地創造のときにはすでにあったのだ。われわれもそこにいた。これが真理だ。そのサブスタンスが時系列的に現出したのがAD30あるいは33年の十字架である。
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3
神の目にはすべてが終わっている。神の国は、すでに、今、ここにある。よくルークさんは理想論を言っているのであって、現実はそんな単純なものではないと抗議される向きがある。彼らは欺かれているのだ。聖書を物理的時空間における五感によって読んではならない。自分の経験をものさしにしてはならない。ましてや自分のオツムを判断基準にしてはならない。神を自分の心の慰みものとしてはならない。御言葉を弄んではならない。
あなたもわたしもその神のフェイス(Mark 11:22)のサブスタンスにすでに含まれているのだ。だからキリストと共なる死と復活が、今、ここにある。キリストがうちに住まわれる。これ自体がスーパーナチュラルな真理である。十字架は時空間を超える永遠の現在に存在する神の金字塔である!
References[+]
↑1 | ここはニクダの付け方により、定冠詞Theがつく解釈とつかない解釈が可能。付かない場合は「神が天と地を造られたとき」となり、2節はその説明的記述となる。イスラエル・バイブルなどはこの訳になっている。 |
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私たちのマインドは、フロイトが指摘したように、意識される領域と意識されない領域からなる。無意識の領域にはこれまでの人生で経験したすべての事柄が感情と絡んで沈み込んでいる。これを感情観念複合体、いわゆるコンプレックスと呼ぶ。
実は聖書的にはさらに霊が絡むのだ。私はこれを霊感情観念複合体と称している。例えば、恨みの霊、妬みの霊、競合心の霊、自己憐憫の霊、プライドの霊、病の霊など。聖書ではこれを「要塞」と言う。
私たちは霊が再生された新しい創造であるが、魂は旧い体の一部である大脳とシンクロしているため、この要塞の影響を受けている。ゆえにマインドのトランスフォーメーションが不可欠となる(Rom 12:1-2)。これは『真理はあなたを自由にする』でも述べているが、単に霊的精神的葛藤からの解放だけでなく、神の国をこの地上に現出させるためにも本質的である。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。-Rom 8:6-7
要するに不安とか恐れや緊張感や鬱などの感情は肉のものであり、よって偽りであると知る必要がある。思い煩いからは何も生まれないことはメッセでも語った。私たちはこのような敵の放つ火の矢を霊的ミサイル防衛網によって察知し、マインドに突き刺さる前に迎撃する必要があるのだ。
またサタンは私たちの肉の弱さを熟知している故に、個人個人に対して実に的確に火の矢の種類を選んで打ち込んでくる。よって私たちは肉に埋没している要塞を発見し、これを崩壊させる必要もある。ハエを追い払っても、ハエの好きな残飯を残しておいたら無意味だ。ちなみにサタンの別名はベルゼブル、それはハエの親玉の意味だ。
その要塞、つまり霊感情観念複合体は偽りの体系(マトリックス)であることをまず知る必要がある。御言葉に反するもの、神に敵対するものだから、ネガティブな感情を生み出すのだ。自分がいつの間にか信じ込まされている偽り、それを偽りとは感じない点が致命的なのだが、御言葉の鏡に照らす必要がある。要塞を落とすのは御言葉と祈りによる(2Cor 10:4-5)。
内側にいつの間にか巣食っている偽りの体系から解放されるほどに、私たちはキリストがくださったいのちを楽しむことができる。イエスはアバダントなライフをくださるために来られた(John 10:10)。そして魂が繁栄すれば、あらゆる領域で繁栄し、健やかになることができるのだ(3John 1:2)。
自分の魂を守ろうとすれば、それを失い、失えば豊かに得ることができる(Luke 9:22-23)。十字架はすでに新創造とされた存在をつける場ではない。旧創造に属するもの、つまり私たちのブレインと魂に構成されている古いアダム系の自己像や経験の痕跡、さらに知識や価値観の体系(マトリックス)をつける場である。それは復活のいのち(Zoe)とそのDNAの発現を阻害する要因を処理するためである。ニッポンキリスト教でよく聞かれる「自我を十字架につけてぇ~!」といったエキセントリックな教えそのものが偽りであると知る必要があろう。クルシチャンから解かれるために!

十字架は惨めな敗北。最近、ローマ教皇もそう宣言した。まことに終末の兆候である。十字架こそ勝利なのだ。ジーザスは捕縛される直前にこう証しした。
わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。-John 14:30
邦語訳はしばしば真理を棄損していることは何度も指摘している。ここもそのひとつだ。大抵の邦語訳は「なんの力もない」とか「何もできない」とか訳している。が、これは違う。KJVでは”he hath nothing in Me.”だ。つまりイエスのうちにはサタンにつけ込まれる要素が何もなかったのだ。
私たちもサタンに足場(”topos”;Eph 4:27)を与えてしまうと、キリストが十字架で勝利されたにも関わらず、その効果を奪い取られることがある。この足場はもろもろの肉的な罪や、プライドや、怨みや、嫉妬・妬み、競合心などだ。私たちは罪、肉、そして世に対してガードする必要がある。
イエスの内にはそれらの要素が何もなかった。ゆえに彼は精神的に辱めを受け、肉体的には苦痛を受けたが、彼はいわゆる傷つくことがなかった。私たちが人から中傷されたり、裏切られたりして、傷つくのは、実は自分の中にすでに足場があるからなのだ。
自分に害を加える相手と同じ要素をすでに自分が持っているから、そこを突かれると傷つく。つまり同じ物差し(=価値基準・自己のプライドの置き処)を持っているからなのだ。学歴にコンプレックスを持っている人も、学歴を誇る人も、実は同じ物差しを持っている。だからどちらも学歴に関する何らかのマイナス評価を受けると傷ついてしまう[1]この現象をある人々は”Soul Tie”と呼ぶ。魂が霊的領域で粘着しているのだ。ダビデとヨナタンはポジティブなSoul Tieを得ていた。。自己の価値を「学歴」という価値観の上に立て上げているからだ。かくして劣等感も優越感も実は同じことの裏表であると分かる。
ジーザスに対しては、あらゆる誹謗中傷を加えようとも、彼は決して傷つくことはなかった。彼の物差しはこの世のものではなく、彼のアイデンティティーも地のものに置かれていなかったのだ。まことに彼の価値に対しては、世のものも、サタンもつけ込むことができなかったのだ。だからサタンがなしえることは彼の肉体を滅ぼすことだけだった。しかしそれが逆に新創造を生み出してしまった!
私たちが魂を否む必要があるのは、このことのためである。魂が何を自己存立あるいは自己価値の根拠としているか。それが問われるのだ。魂を救おうとすれば、それを失う。失えば、魂の救いを得るのだ(Luke 9:22-23)。主はあの富んでいる者に言われた。
そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。-Luke 12:16-21
これは決して「富を蓄えるな」と言っているのではない。魂の存立の場をどこに置くかを問うている(Luke 12:34)。魂を世の価値観によって担保しようとすれば、それを失う。が、魂を天の価値観によって担保すれば、それは救いを得るのだ。だからヤコブは言う:
心に植えつけられている御言(ロゴス)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。-James 1:21
こちら側にサタンの足場があるままに、いくら「悪霊追い出し」をしたところで、効果はない。同じ土俵にいるのだから。HE HAS NOTHING IN ME! -私たちが真にそう言い切れたとき、勝利は自ずと私たちのものとなる。

先に創世記1章1節に、すでにイエスがコードとして埋め込まれていることを紹介した。この創世記1章1節の「初めには」は時間と空間と物質の始まりである。つまり神が物理的時空間を創造されたときであり、2節との間にはギャップがあることも紹介している[1]これに関してはヘブル語の母音の付け方により、定冠詞がつく/つかないの差が生じ、意味が変わることを一応断っておく。たとえばIsrael … Continue reading。ちなみにヨハネ1章1節の「はじめに」は永遠のはじめであり、時間を超えている。永遠の現在としての「はじめ」である。
さて、イエスが十字架にかけられたのは紀元30年とか33年とか言われているが、要するにこの物理的時空間における時系列の中での出来事である。が、これは歴史的事実であり、真理ではない。真理とは天のサブスタンスであり、事実、黙示録にはこうあるのだ。
地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-Rev 13:8
この「天地創造の時から」が何にかかるのか。KJVではこうある:
And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world.
つまり、「ほふられた小羊」にかかっている。邦語訳では曖昧であるが、小羊は地の基が置かれる時からほふられていたのだ!もっと正確に言えば、「天地の創造のときの前には」の意味である(“apo”,Strong)。同様に私たちも天地の基が置かれる前から愛にあってきリストのうちに選ばれていた(Eph 1:4)。
神はこの地、すなわち物理的時空間に拘束されていない。最も高きエロヒムなるYHWHはI AM, わたしはある、と言うお方。これが彼の固有名詞。彼は天、すなわち永遠の現在である霊的領域のお方。
そのお方の視点では、イエスの十字架は天地創造のときにはすでにあったのだ。われわれもそこにつけられた[2] … Continue reading。これが真理だ。そのサブスタンスが時系列的に現出したのがAD30あるいは33年の十字架である。
神の目にはすべてが終わっている。すべては完成されている。われわれの御勤めにより何かを達成するのではない。神の国は、すでに、今、ここにある。
が、よくルークさんは理想論を言っているのであって、現実はそんな単純なものではないと抗議される向きがある。彼らは欺かれているのだ。聖書を物理的時空間における五感によって読んではならない。自分の経験をものさしにしてはならない。ましてや自分のオツムを判断基準にしてはならない。神を自分の心の慰みものとしてはならない。御言葉を弄んではならない。事実、ヘブル書にはこうあるのだ:
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-ヘブル4:3
あなたもわたしもその神の信仰のサブスタンスにすでに含まれているのだ。だからキリストと共なる死と復活が、今、ここにある。キリストがうちに住まわれる[3] … Continue reading。これ自体がスーパーナチュラルな真理である。十字架は永年の現在に存在する神の金字塔である!
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―-2コリント13:5
References[+]
↑1 | これに関してはヘブル語の母音の付け方により、定冠詞がつく/つかないの差が生じ、意味が変わることを一応断っておく。たとえばIsrael Bibleでは” when Hashem began to create heaven and earth…となっており、2節は1節の説明とされる。この場合、1節と2節の間のギャップは生じない。ちなみにDr.Heiserはこの立場。 |
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↑2 | ある姉妹いわく、ジーザスは私の身代わりとして十字架についたが、自分はいぜんとして罪ゆるされたあわれな罪人であるという意識で苦しんだ。しかし、自分もすでに処刑されて、古い自分は終わり、新しい自分、ニュークリーチャーが生み出されたと知り、罪定めの感覚から解放されたと証しした。 |
↑3 | ある兄弟いわく、私から聞くまではキリストがうちにおられることを知らなかったし、誰も教えてくれなかった。自分はキリストを探して世界を回ったが、うちにいます真理であるキリストを知ることにより、平安と喜びを得たと。まさにチリチル・ミチルの「青い鳥」ではある。 |

いつもの再建主義の富井氏のこの論、まことに同意だ。「あなたは愛されるために生まれた」とかいう気持ちの悪いキャッチコピーが蔓延するニッポンキ業界。私は以前よりこれを「砂糖まぶしの福音」と称している。ヒューマニズムの象徴だ。
主の再臨される時はノアの日のようであるが、ノアの日とは倒錯の時代。欺きから守られるためには徹底的に神視点に立つ必要があるのだ。
–「ありのまま神学」は負け犬の言い訳
–絶聖棄智-老子
–ハードコアへの回帰
tomi 2017/09/15(金) 03:00 聖書的キリスト教は徹底的な神中心主義である
「あなたは愛されています」とか「あなたは最高の自分を実現してください」などの文句を講壇から聞く。 牧師も信徒も完全に聖書を誤解している。 われわれは、愛されるために救われたのではない。 最高の人生を送るために救われたのでもない。 われわれは、神が幸せになるために救われた。 神が栄光を受け、御心が実現し、世界が御国に変わるために救われた。 自分の栄光や資産、人生など、正直、どうでもいいのである。 そんなことに聖書は焦点を当てていない。 創世記から黙示録まで徹底して「神の幸せ」が説かれている。 世界は神によって創造された。 なぜ? 神の栄光のため。 歴史は神によって終わる。 なぜ? 神の栄光のため。 人間は、道具である。 人間は、神の栄光を実現するために自分を犠牲にして働くように作られている。 われわれは、クリスチャンになるときに「私はどうなってもかまいませんので、御心がなるために、後の人生をお使いください」と宣誓する。 もしこれと異なることを宣誓したならば、それは、偽りのバプテスマである。 この宣誓ができないのであれば、あなたは、本当は救われていない。 聖霊が内側にいらっしゃるならば、これを告白できるはずである。 教会で「主イエス・キリスト」と叫ばれているが、「主」とは何か。
主とはしもべに対して「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」と言われる存在である。 私のために自分の命を投げ出せ、と命令する存在が主である。 「イエスはあなたのために十字架につかれた」という文句だけが一人歩きし、キリスト教があたかも人間の幸福を実現するための教えであるかのように扱われているが、実際は、逆である。 聖書的キリスト教とは、徹底的に神中心であり、人間は神のために命をかけるしもべである。 |

ニッポンキ業界の「ありのままのあなたが高価で尊い」などはこの呪縛をさらに強固なものとするだけ。いつまでやってるわけ?まあ、極私的にはすでに、ご勝手になのだが・・・。

十字架って何でしょう―Dr.Luke from Luke Osamu Karasawa on Vimeo.
四次元超立方体の3次元展開図は4つの方向どこから見ても十字架である。そして至聖所は3次元立方体、私たち霊の祭司は天の至聖所、つまり超立方体で主に仕えるのだ。十字架を通して・・・。

人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。-ピリピ2:21
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。
・・・彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。-2テモテ3:1-7
諸悪の根源、Self-Love。ここでも終わりの時代の諸問題の先頭にリストされている。ギリシャ語は"philautos"、これは"philos(愛する・執着する)"と"autos(自己)"の合成語。自己(Self)は、実は、マトリックスなのだ。自分が好みの異性や嗜好って、なぜそうなのか考えたことがあるでしょうか?なぜ、自分はこのようなことを願い、また求めるのか、考えたことがあるでしょうか?多分、それらを考えることもなく、それを得るために躍起になっているのです。
またカネがあればハッピーになれると、多分大多数の人が考えているでしょう。本当でしょうか?あのSoftbankの孫さんが、1兆円の利益を上げながら、達成感もなく、ただ通過点に過ぎないと語っていました。AppleのJobsも自分はすべてを得たが虚しいとベッドの上で漏らしました。これもまたマトリックス。いにしえのソロモンは言っている―
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
・・・わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
・・・しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
・・・かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く/牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え/国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ/人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって/わたしは大いなるものとなり、栄えたが・・・目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ/どのような快楽をも余さず試みた。
・・・見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。-伝道の書1:16-2:11
これらすべては所詮、五感の領域のもの、そこから得られるものは単なる神経系の興奮に過ぎない。得るまでは期待が高まるが、得てしまうと興奮は消失し、感動も喜びも失せる。まことに幻の如しだ。かくしてしばしばより強い刺激を求めてエスカレートする。これでドラッグやギャンブルなどにハマるのだ。ソロモンもある面で女性に関してはアディクション状態であったも言える。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。ールカ9:23-24
セルフというマトリックスから生じる欲求は果てしない。セルフ[1] … Continue readingに欺かれるならばまことに蟻地獄に陥る。セルフは他人によってではなく、むしろセルフによって欺れるのだ。そのセルフからの解放はただ十字架おけるキリストと共なる死と復活にある。
–自己における死について
–自己を否むことについて
–死と復活の原則について

昨今のニッポンキリスト教、一方に「現代では聖霊は働かない」とするグループがあり、他方にヒステリックな「聖霊様、聖霊様」なる叫び声。これには少々辟易だが、何か空疎に空回りしている感がある。ワーシップもセルフ中心で、盛り上げんかなの雰囲気。あれは疲れる。要するに彼らの霊的アトモスフィアがあまりにも軽いのだ。
聖霊は必ず十字架と共に働かれる。十字架をスルーした「聖霊現象」は偽りであると知るべきだ。十字架による聖霊の臨在はある種の重さがある。栄光とはカボド、その意味は重さ。ヘヴィーなのだ。そもそも臨在は単に気持ち良くなったりすることではない。それはパニーム、神の顔。神の七つの目、七つの霊で見つめられることなのだ。その視線を感じるならばセルフは消失する。
今日、あまりにも軽く聖霊を扱い過ぎている。あたかも自分の願望を実現するためのツールであるかのように。
追記:ほんとはね、聖霊を扱うのではなく、聖霊に扱われるが正解。主客逆転しているのだ。

Whatever we think about the most grows. If your thoughts are constantly about you, your selfish desires and your issues, you will be trapped in a self-absorbed, toxic spiral that will make you sick: this is hell, not heaven, on earth. We are made in the image of a loving, self-sacrificing, humble and compassionate God. When we follow the Messiah, instead of our own idols or "gods", we truly become like him: our minds change and are "renewed" in His beautiful likeness and glory. This is HEAVEN ON EARTH. -FB Dr. Caroline Leaf
よくニッポンキリスト業界で言われる「私は愛されるために生まれた」とかって、実はセルフを増長していることに気がついていない。「私は神のVIP」とかもね。それは十字架と真っ向対立しているのに・・・。これがニッポンキリスト教の現状。見えない事は致命的なのだ。Soul LifeからSpirit Lifeへのシフトこそが十字架のパワーである。それはエナジーソースの切り替えの問題。

先にコメントしたが再掲:当時の日本基督教団統理富田センセはこう宣言しました:われら天皇の臣民はやうやく悲願である合同の教会の実現を見て(政府がまとめた公認教会のこと)、各自、自らの十字架を負ひて、自己を否みつつ、八紘一宇、大東亜共栄圏の建立に邁進すべし!・・・とね。で、柏手を叩いて、日基のゼロ戦を献上したわけ。反吐が出るね。
十字架はスーパーナチュラルな新創造の手段であり、場なのです!