iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: 十字架

いわゆるキリスト教の「福音」は、「人が高価で尊いから、罪のために滅びゆくことを惜しんだ神様が自ら人となって人類の罪を背負って十字架で死んでくださったことを信じれば、地獄から救われて天国に行ける」とするものだ。まあ、間違ってはいないが幼稚園レベルではある。
YHWHエロヒムの当初の意図は創世記に記されている:人をわれわれの型(phantom)と様(likeness)に創造しよう(Gen 1:26)。ところが続く節は「神は御自分にかたどって人を創造された」(Gen 1:27)。つまり「様」が抜けている。「型」は外形、ちょうど手袋のようなもの。「様」はいわば実質たる手である。それはYHWHの被受造のいのちである「いのちの木の実」を摂ることで成就したはずである。が、サタンは先回りして「善と悪を知る知識の木の実」を人のうちに内在化させた。そしていのちの木への道は閉鎖された(Gen 3:24)。

Dr.Heiserは、人は地上におけるYHWHエロヒムの”imager”であると言う。つまり霊なるYHWHエロヒムを地上において表現する存在である。しかし現在、人類はサタンの何かを表現する傾向が強いことは否定できないであろう。なぜか? 内実たるYHWHエロヒムのいのち(Zoe)を欠いているからである。このいのちを欠いたまま、アイオーンやストケイアなどの霊的エンティティの影響を受けつつ(Gal 4:3;Col 2:20)、いわば手袋が勝手に振る舞っている人類がアダム系人類である(1Cor 15:22)。
YHWHエロヒムは内実を欠いたままの人類にご自身のいのちを分与するために、その第二位のロゴスたるお方が肉体を取られ、罪という障害を十字架で処理され、ご自身が道となられていのちの木へのアクセスを可能とし、死と復活を経て肉体に制限されないいのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、聖霊により信じる者たちのうちに生きて下さる(2Cor 13:5)。そのために私たちの霊を新たに生まれさせ(John 3:6;1John 5:1)、ご自分の霊を分けてくださった(1John 4:13)。
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。-Tit 3:5
Not by works of righteousness which we have done, but according to his mercy he saved us, by the washing of regeneration, and renewing of the Holy Ghost; –ibid
“washing”とは”loutron”、その意味は”bath”であり、バプテスマを象徴する;”regeneration”は”paliggenesia”、その意味は”spiritual rebirth”,”spiritual renovation”;”renewing”は”anakainōsis”、その意味は”renovation”である(Strong)。つまりここでスピリチュアルないのちの転換が起きたのだ。種族(genos)の転換である。このうちなる霊がリノベーションされ、YHWHエロヒムが内住する存在こそが、新創造(2Cor 5:17;Gal 6:15)、新人類(Eph 2:15)、ニュークリーチャーであるキリスト系人類、エロヒム属である。これによりYHWHエロヒムの当初の意図であった「型」と「様」を得ることができたのだ。
YHWHエロヒムのご計画とは、ご自身のいのちの増殖である。麦が撒かれたら麦が増殖するように、キリストが撒かれたらキリストが増殖するのだ。対してキリスト教なる宗教では罪赦された罪人が増殖する。事実、コロサイ2章19節の原文は「神(=エロヒム)の成長(増殖)を成長(増殖)する」であることは前にも指摘している(われわれがYHWH(父・子・聖霊)になることではない)。田川訳や岩波訳は正確であるが、他の邦誤訳のように意訳してはならない。それはアダム系からキリスト系へのいのちの転換であり、キリストのいのちの増殖、拡大、そして支配である。
キリストがあなたがたの内に形づくられる-Gal 4:19
アダムの違反により世に罪が入り、全人類には死が入り、アダムの違反と同じ罪を犯さなかった人も死には支配され、死に支配された全人類は主の目には罪を犯したものとされる(Rom 5:12-21)。
つまり罪に抗するためには死を支配すればよい。それが可能となるのは死に打ち勝ったキリストのいのちを得ることである。その時、私はアダムにあって罪人とされたように、キリストのうちに植えられる(sumphutos,Rom 6:5)ことにより義人とされる。これは自動的である。ここでのポイントは<善か悪か>ではなく、<いのちか死か>である。創世記の初めから啓示録に至るまで、死の道(=善と悪を知る木)といのちの道(=いのちの木)の選択が人類の前には置かれている。新天新地に至り、ついにいのちの木のみの世界が展開する(Rev 21:1-5)。
十字架とは端的に言えば、いのちの交換の手段であり、場であり、根拠である。いわゆる宗教の十字架を負わされることないようにと前にも指摘している。宗教はすべからく<善か悪か>を迫るが、真理は<いのちか死か>を提示する。この十字架を通して私たちには次の聖句が成就する-
自らに備わった栄光と卓越した力(dunamis)によって私たちを召された方を、私たちが知ることにより(epignosis)、イエスの神的な力が私たちに生命と敬虔についてのすべてのことを与えている。この栄光と卓越した力によって、私たちには貴い偉大な約束が与えられている。それは、これらにより、あなたがたが、この世界がもたらす、そして欲望がもたらす滅びから逃れて、〔イエスの〕神的な本性に参与するようになるためである。-2Pet 1:3-4(岩波訳)
この神的な本性と約された原語は”phusis”であり、その意味は”growth (by germination or expansion),extension a genus or sort”、つまり「発芽や拡張、種族や種類の拡大」である(Strong)。その語源をたどると”phuo”、すなわち”to “puff” or blow, that is, to swell up; but only used in the implied sense, to germinate or grow (sprout, produce)”。要するに「拡大し、発芽し、成長すること」であり、上のロマ書6:5における”sumphutos”、つまり”planted together”、「共に植え込まれる」ことである。われわれはキリストのうちにインプラントされたことにより、神性の充満たるキリストの属性をすべて得て、享受する。エクレシアとはキリストの充満(Eph 1:23)。よって、われわれのうちには神性が充満しているのだ。
かくして十字架は新しいSeed(種;DNA)を植え込まれ、Genos(種族)を転換される場、閉ざされたいのちの木への道、自由と解放と喜びと平安と繁栄への道である。宗教の十字架を負わされることなきように。欺かれない者は幸いである。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ見ていないことのエヴィデンス(証拠・現出)である。-ヘブ11:1(私訳)
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) October 20, 2022
※「こと」はpragma、その意味は「成し遂げられた事」である。

あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであれ、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
メタノイアはメタ+ノウス、メタは「超越的」あるいは「ある方向へ」の意味、ノウスはマインド、思いである。すなわち主の方向にマインドの方向を変えることだ。この意味で「悔い改め」は不適であると何度も指摘している。「悔い」の意味などはない。
神のみこころに添った悲しみは、【悔いのない】、救いに至る【悔い】改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。-2Cor 7:10
って、自己矛盾でしょう。正確には「悔いのない思い改め」だから。新改訳は田川さんの言う通りなのだよ。
自分の生き方や信条や個性や感じ方などをあくまでも主張する人々がいる。オレはオレ、私は私であることが大切だと・・・。彼らを見ているとひたすら種々の活動や主張に次から次へと没頭し、それはある種強迫的ですらある。それに没頭していないと自分のアイデンティティーが保たれないかのように・・・。一言で言えば、霊的に空疎なのだ。
私たちは絶えず自分の十字架を負う必要がある。それはまずマインドを絶えず変えること。電子マネーの意味が理解できないおじいちゃんのように、現ナマのマトリックスに絡め取られていると電子マネーが使えない[1]薬剤師の奥さんいわく、あるおじいちゃんが電子マネーで支払うと言うので、3千円チャージしてもらったら、お釣りをくれと求められたと。。理解もできない。これが自分を自分のマトリックスに幽閉する人々のあり方だ。自ら捨てない者は決して霊的富を得ることはない。そしてその空疎さは周りにはわかってしまう。霊のあり方は決してごまかせないのだ。彼らは活動することによってその空疎を補償しようとするのだが、かえってそれが空疎さを証明していまう。
神のバイブレーションと共振すること(Ps 19:1-3)。これは神の声を聞くことであるが、魂(Soul)―特にナチュラルなマインドが邪魔をする。いわんや、自分を主張すればするほど、神との距離が離れる。まことにジーザスの声を聞く者は生きるのだ(John 5:25)。私たちの霊的有用性は、活動ではない、聞くことだ。聞けばフェイスが息吹かれる。それは霊を受けることである。そして語り出すのだ。その語り出された言葉は無意味に返ることはなく、必ず言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)。それは神の業である。ジーザス自身がそのように生きたのだ。
神に属する者は神の言葉(レーマ)を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。-John 8:47
マルタはジーザスの足元に座るマリアに憤りを覚え、ジーザスに訴えた。が、彼は、マリアは大切なことをしているのだと言われた(Luke 10:40-42)。それは―ジーザスの声を聞くこと。聖霊は自分勝手に語るのではなくジーザスの言葉を語り、ジーザスを栄光化する(John 16:13-14)。かくして、私たちの有用性はどれほど聞くことができるかにかかっている。

信仰とか、忍耐とか、牧会とか、教会とか、恩寵とか、奉仕とか、さらには礼拝とか、自我を砕き~とか・・・。こういった日本語の用語によっていつのまにかニッポンキ業界のマトリックスにハマる。われわれは自分が使う言語によって生きる世界を規定するのだ。言語マトリックスの罠に陥らないように! コンセプト(概念)の世界を離脱してスピリチュアル・サブスタンス(実質)の世界へ跳躍すること。


空理空論な神学などはやめておけ。時間と労力の無駄になるだけ。一言、腹の底からイエシュアの御名を呼ぶのだ。するとスピリチュアル・リアリティにタッチする経験を知るだろう。
主の御名を呼び求めるものはすべて救われる。-Rom 10:13

この編はダビデがバテシバと過ちを犯した後、預言者ナタンによって諫められた時、YHWHに対する悔い改めのことばである。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(新改訳旧版)
新改訳には常に訳者の神学によるバイアスがあることは何度も指摘しているが、ここはその最たるものである。まさに、生まれつき罪(原罪)を得ていたと。
ここでまず邦訳を比較しよう:
見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。(口語訳)
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。(新共同訳旧版)
これらの訳では、わたしが罪を持っていたのではなく、罪あるいは不義の中に生み出されたと解することができる。岩波訳では-
じじつ、咎のうちにわたしは産み落とされ、罪過のうちにわが母はわたしを孕んだのです。
英訳をいくつかリストしてみよう-
Behold, I was shapen in iniquity; and in sin did my mother conceive me. (KJV)
Behold, I was brought forth in iniquity, and in sin my mother conceived me. (LITV)
Lo, in iniquity I have been brought forth, And in sin doth my mother conceive me.(YLT)
Behold, I was brought forth in iniquity, and in sin my mother conceived me.(HRB)
Behold, in iniquity was I brought forth, and in sin did my mother conceive me. (Darby)
いずれも”in iniquity”であり、「罪を有して」の意味はない。さて、ここで復習をすると-
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。-Rom 5:12
後半部については前置詞”epi”の解釈で分かれることはすでに指摘したので、そちらを参照されたい。この節のポイントは-
- 一人の人(アダム)により罪が世に入ったこと
- 罪により死が入り込み、すべての人に沁み込んだこと(永井訳)
である。罪はどこに入ったか。世(kosmos)である![1]“kosmos”にはもちろんその世界に住む者たちも含むが、あえて後半では”anthropos”として区別していることに注意してほしい。 結果として、全人類(anthropos)に死が浸透した。今の身体はその死の支配下にあるゆえに、人は生きる限り必ず罪を犯すことになる(私は「人類が罪を犯さない」と言っているのではないから注意してほしい)。
律法のなかった時代(=罪が認知されない時代)にもアダムの違反と同じ罪を犯すことがなかった人がいたが、彼らも死の支配は免れなかったのである(Rom 5:14)。ゆえにパウロはロマ7章において、この死の体から誰が救い出してくれるのかと叫ぶのだ(Rom 7:24)。ここでアダムの違反とパウロの罪の違いはすでに述べている。
かくしてダビデは罪が入り込んだこの世の中に産み出されたのである。またダビデの母は”in sin”においてダビデを受胎したとあるが、性交自体は罪ではない。この部分については岩波訳の注を引いておく-
「孕んだ」は、(家畜が)発情して受胎したの意(創30:41;31:10)で、人について言われているのはここだけ。題詞で本詩の作者とされるダビデについてかかる事実は報じられていない。
と言うわけで、ダビデの母がなんらかの罪的な行為においてダビデを受胎した事実を指摘しているわけではないと言える。
新改訳は明らかに意図的に、罪を内在化されて生み出された、とするが、これはいつもながらではあるが、すでに新改訳の訳者たちの神学的な解釈が入り込んでいると言わざるを得ない。素直に読めば、罪が満ちている環境の中においてダビデの母は受胎し、ダビデもその環境の中に産み出された、と読めるであろう。
繰り返すが、アダムにあっては人類は死の浸透を受けて、その結果として罪(罪と死の法則)の支配を受ける(Rom 7:23)。対してキリストにある新人類はいのち(Zoe)のインプラントを受け、その結果としていのちの御霊の法則により罪と死の法則から解かれる(Rom 8:2)。
カギは何か? 罪を犯すか、否かでない。死か、いのちか、である。かくして十字架とはいのちの交換の場であると言えるのだ。

というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。-Rom 5:13-14
この聖句が明らかにしていることは、罪はアダムの違反により世に入ったが(Rom 5:12)、律法がなければ認知されないこと。つまり律法が「むさぼるな」と言ったので、パウロはむさぼりの罪を意識したのだ。
しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 –Rom 7:8-10
ポイントは律法は罪を活性化し、パウロを死へと導いたことだ。なぜなら、律法はいのち(Zoe)を与えないからだ(Gal 3:21)。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。-1Cor 15:56
さて、従来の「人類はアダムの罪を自動的に継承した」論によれば、彼の違反により全人類の体に入ったはずである(Rom 7:17)。この意味で人は生まれながらの罪人であると説教されている。つまり胎児であれ、自由意思を行使できない幼児であれ、遺伝的に罪を得ており、すでに有罪である。私もかつてはこのように考えていたのであるが、ここで次のような問題が生じる。
ロマ書5:13-14においては、「アダムの違反と同じような罪」とある。「同じような」とある原語は”homoiōma”、意味は-
a form; abstractly resemblance: – made like to, likeness, shape, similitude.(Strong)
つまり「アダムの違反」と似た形を持つ(同類の)罪である。では、「アダムの違反」とは何か? 彼は蛇に騙されたエバの誘いに乗ってあの木の実を食べた。エバはYHWHの言葉をあいまいに理解していたが、アダムは正確に聞いていたのである。ここで彼はエバの誘いを取るか、YHWHの言葉を取るかの選択の自由があったのだ。
ここで重要な点は、彼のうちにはパウロの言う内住の罪(単数形)を、その選択の時点では、得ていなかったのだ! エバは蛇に騙されて食べた(cf. 1Tim 2:14)。その時点では、エバも内住の罪を得ていなかった!
対してロマ書7章におけるパウロの葛藤は、思いの法則によればYHWHの律法を行いたいが、体にある罪の法則が彼を虜にして、行えない。それを行っているのは自分ではなく、うちに住んでいる罪であると結論付ける(Rom 7:17)。そして誰がこの死のからだから救ってくださるだろうか、と叫ぶのだ。注意してほしいが、「罪から救ってくださるだろうか」とは言っていない。
つまり彼の犯している罪は「アダムの違反」とは同類のものではないことが分かる。パウロの葛藤は「アダムの違反」の後のものである。当初の聖句に帰るならば、律法がないアダムからモーセの間には「アダムの違反」と同類の違反を犯さなかった者がいたのだ。それは誰か? いろいろな説がある。胎児とか幼児とか・・・。人は無垢の状態で生まれてくるが、ある時に意志をもって罪を犯す。たとえ、律法が与えられていない異邦人であっても、良心がその働きをする(Rom 2:14-15)。良心に咎めのない大人がいないことは明らかである。
この時点で、罪をうちに得るのだ。良心は霊のなごりとも言われている(Mal 2:15)。律法がなければ世にある罪は死んでいる。律法を意識したときに罪は活性化されて、違反を行うとき、私たちのうちに働き出す。律法の与えられていない異邦人であるわれわれにとっては良心がその機能を果たす。かくして、人は人生のある時点で罪をうちに得てしまうのだ。これがパウロの、また私たちの葛藤の開始である。
そしてこの葛藤から解放されるのは、つまり死の体から解かれるのは、新しいいのち(Zoe)を得ることにより、新しいいのちの御霊の法則が働くことによる(Rom 8:2)。このキリストのうちにインプラント・トゥゲザー(sumphutos)されて、その死と復活に組み込まれる(一体化)ことにより、新しいいのちの領域に生きることが可能となる(Rom 6:5)。
すべてはいのちの種類の問題である。アダム系のいのちではなく、キリスト系のいのちへの転機。最も高きエロヒムであるYHWHの子として、エロヒムのいのちの共有。これがニュークリーチャーとされること。すべてはいのちとしての御霊の働きである。かくして善と悪を知る道(=良心の咎めの道)からいのちの道(=清められた良心による道)へと復活するのだ。
いまや、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。-Rom 8:1

前回のメッセで「努力が必要」と言われたが、努力は不要とも言っているけど、これはどう理解すべきかとのお問い合わせがあった。明日のメッセで語る内容とちょうどかぶったので、その内容を少しだけ―
小池百合子の動機はすべて自己粉飾にあり、その根底には満たされていない基本的欲求が潜んでいる。マズローの五段階欲求は有名だが、もちろんこれに霊的欲求は含まれていない。まあ、あえて言えば、自己超越が相当するかもしれないが。

このチャートは借り物だが、下位の欲求が満たれていない場合、上位の社会的あるいは承認欲求をもって埋め合わせをしようとする。が、これはあくまでも外形のものであるゆえに、つねに取り繕いをせざるを得ない。
この根本的な欲求が満たされていない場合、それがコンプレックス(感情観念複合体)となり、その人の生きる動機あるいは動力となることがある。フラストレーションや憎しみをバネにする生き方である。それは常に取り繕いであるために、小池氏のように関係する人々とことごとくトラブルを起こし、真実な人間関係は築けない。
クリスチャンはアダム系のいのち(体-魂複合体)において死んだものであり、キリストと共なる復活により新しい霊のいのち(Zoe)をインヒュージョンされ、新しい霊的パワーの源泉が設置された存在である。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
「今日のわたしがある」とは”I am what I am”であり、テトス2:14(Titus 2:14)にある”peculiar”に対応する言葉である(☞われわれのアイデンティティーはI-AMの領域で定義される(テトス2章14節))。詳細はメッセにて。
さて、ここでパウロは「働いたのはわたしではなく、共にある神の恵みである」と証しする。「共にある」は”sun”であり、恵みは”charis”、ヘブル語では”chen”である。ピクトグラムはヘトはテント・壁の意味、ヌンは種・子孫・継続の意味である。すなわち恵みとは、テント(壁)の中で種が永続することである。
ポイントは何か。ガラテヤ2:20にあるとおり、生きているのはもはやわたしではなく、キリストである。今、肉にあって生きているわたしは御子のフェイスにあって生きるのである。この新しいエロヒム属の霊の中に聖霊によりYHWHが住まわれる(John 14:23)[1] … Continue reading。
主は言われた、
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。-John 14:18-19
お分かりだろうか。ジーザスが生きるので私たちも生きる、つまり、私の古いアダム系のいのちのエネルギーによるのではなく、キリスト系の新しいいのちのエネルギーによって生きるのだ。ここにいのちの交換が行われる。その場が十字架である。
この時、聖霊の伝達されるYHWHエロヒムのいのちのエネルギーが私の生きる力の源泉となる。
それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。-Jer 2:13
YHWHの力あるいはフォースには四種類があることは前にも語っている(☞Yahawehのフォースは4種類ある)。このフォースが私の生きる原動力となる。このフォースが私の霊の内から流れ出て、私の魂と体を通してアウトプットされる。これがクリスチャンのいわゆる働きとなるのだ。決してアダム系のいのちのパワーによるのではない。それはむしろYHWHの業を阻害する。
事実、ジーザス自身もそのようにして生きた。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。-John 14:12
彼は父を生きる原動力としてその業を行った。ゆえに-
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38
彼はあくまでも人として振舞った。神として振舞ったのであれば、どうしてその業の理由を「神がご一緒だったから」と言えるのか。つまり彼の業は内なる聖霊による御父の働きの現出であったのだ。
御子は神のサブスタンスの現れであり(Heb 1:3)、神性が余すところなく形をとってそのうちに住んでいる(Col 2:9)。その方は今やいのちを与えれる霊として聖霊にあって私の内におられる(1Cor 15:45)。よって私たちエクレシアはキリストの充満である(Eph 1:23)[2] … Continue reading。
かくして私たちの生きる原動力はいのちなるキリストそのものであり(Col 3:4)、キリストは御父の完全なる表現である(John 14:7)。私たちが「かみっさまのために何かをするとかしない」とかではない。私たちが「かみっさまの御心に従って生きるとか生きない」とかの問題でもない。生きる原動力が何かである(☞信仰と精神分析について)。
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。-Phil 1:21
かくして私たちというテント(壁の中)において、撒かれた種であるキリストが増殖するのである。まことにエロヒムの増殖を増殖するとあるとおりである(Col 2:19)。
Exchange the Power Source!

いつもながらAD70がピボットであると。第三神殿が再建されて、動物犠牲が再開されるとキリストの十字架が無効になることはない! それは次元が違うからだ。
要するに富井氏のマトリックスは直線的なのだ。何度も紹介しているこのシェーマで、私と彼との聖書理解がどう違うかはっきりすると思う。

現在の経綸ではいのちの路線と善悪の路線が並行しているのだ。いずれいのちの世界のみになる。これは聖書が語っていること。解釈とか神学理論ではないから、ご自分で確認されたい。


存在しない人物をでっち上げて論文書くセンセイも出現する昨今のニッポンキ業界。クルところまでキタ感じがあるが・・・・。
「いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの現出である。」-Heb 11:1(私訳)
新しい新共同訳では「実体」とかにしたそうだが、信仰なる単語も改めてほしいところだ。
業界用語による形式会話がタコツボ化の兆候の度合いを表すわけ。ほんと言語明瞭意味不明。

これからのテレビは4K。つまり横約4,000ドット、縦約2,000ドット、800万画素の超細密映像の時代だ。原理は縦糸と横糸のマトリックスのクロスポイントの液晶が色を発する仕組みだ。霊的真理もこれと同じ。
人はオツムで考えたがるもの。例えば、有名なカルバンVS.アルミニウスの論争。カルバンは神の予定(二重予定説)によりある人は救われ、ある人は滅びへと至るとし、人の自由意志の介在を一切認めない。アルミニウスは人の自由意志がその人を救いへともたらすとする。単純に言えば、確定論VS.偶然論の対立。これについては、すでに人の認知能力として、確定と偶然を識別することはできないことを指摘している。
あるいは行いと信仰(あえてこう言っておく)の対立。パウロは人が救われるのはただ信仰によるとし、ヤコブは信仰のみではなく行いによるとする。これについてもシナジー効果として、まことのフェイスは自ずと行い(エルゴン)を内包するものであると指摘した。
関連して、フェイスの由来も、「神を信じる」ではなく、「神のフェイス」(Mark 11:22)、「御子に対する信仰」ではなく、「御子のフェイス」(Gal 2:20)であることも指摘した(⇒記事群)。この対格による理解がルターの過ちであり、プロテスタントの根本的誤謬の原因であるも指摘した(⇒記事群)。カギは、「私ではなくキリスト」である(Gal 2:20)。キリストご自身が義と聖と贖い、さらに知恵、すなわちフェイスとなってくださったのだ(1Cor 1:30)。
かくして人間のオツムにおいては矛盾対立する要因が、実は縦糸と横糸のクロスポイント=十字架=においては何ら葛藤することなく成立、証しされている。だから、<今・ここ>において私は救われ、ニュークリーチャーとされているのだ(2Cor 5:17)。オツムによる納得ではなく(=弁証)、霊的法則に乗ることによりこの霊的ファクト(=実証)が重要なのだ(Gal 6:15)。この霊的ファクトを私の身体と魂(知・情・意)を通して表出すること。これが神をエミュレートすることだ(Eph 5:1⇒神をエミュレートする-God-OS)。
この縦糸と横糸の霊的マトリックスの密になればなるほど、霊的理解力、ビジョン、啓示の解像度がアップする。神の声や幻は、聖霊派がよくやるような「主はこう言われます~」といったものではない。よく「霊を見る」とか、「声を聴く」とか、自慢気に吹聴するむきがあるが、これは単なる霊能力、恐山のイタコか沖縄のユタのようなものだ。TVが液晶の縦横のマトリックス上において映像や音声が実体化されるように、啓示も御言葉の縦横のマトリックス上において幻や声として実体化されるのだ。御言葉をバイパスした霊的現象は危険であると指摘しておく。クリスチャンは神のロゴスであるジーザスというポータルを通して霊的領域とコンタクトするのだ。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9
かくして私たちのマインドの中に組み込まれる御言葉のマトリックスが細密になればなるほど、正確に神の意志を把握し、あらゆる問題に対してキリストのマインドが応答するようになる。御言葉の粗雑な理解はむしろ有害、御言葉を勝手に解釈して自滅する者がいるのだ(2Pet 3:16)。内側に御言葉を密に組織構成されること。これこそが神の豊かさを享受するカギである。
キリストの言葉(ロゴス)があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。-Col 3:16-17

クリスチャンがよく陥る罠が十字架における自己の死だ。これを宗教的に自分勝手に理解して、自我を否んで~、自我を十字架につけて~、自分は何もしない・・・、と。これでいわゆるクルシチャン化したり、受動性の罠に陥る。
十字架は生まれついてのアダムにある古い人由来の魂(soul)由来のエネルギーから御霊による復活のキリストのいのちの(霊的)エネルギーに切り替える場なのだ(☞信仰と精神分析について)。十字架における自己の死とは、魂の機能である思い・感情・意志の機能を停止することでは決してない。むしろ復活のエネルギーで作動する魂は栄えるのだ(3John 1:2)。十字架が働けば、復活のいのちが流れる。このいのちのエネルギーで、いのちの御霊の法則に乗って生きること、これがクリスチャンの生だ。
砕かれるべきは、アダム系にあって構築されたセルフの偽りのマトリックスであり(☞「わたし」って何でしょう@YouTube)、それはマインドセットのトランスフォームによるのだ[1] … Continue reading。自我、すなわち私の意識の中核が砕かれることではない。自我は正常に活動するのである。この偽りのマトリックスは新しいいのちの現出にとって妨げとなる。だから取り扱いを受ける必要がある。この時に行われるのが御霊による御言葉を用いた霊と魂の分離オペである(☞霊と魂の分離について)。
死だけでは何もなされないし、神の御心はなされない。復活があって初めてそれは成就する。むしろ、復活の領域では死者が生き返り、病人は癒され、悪霊も追い出されという人間にはとうてい不可能な事象も起こる。いや、それをなせと主イエスは命じられているのだ(やばいでしょ?)。この復活の段階までが起きてこそ神の国の現出と神の栄光が現れる。
神の国はロゴスの中にではなく、力(デュナミス)のうちにある(1Cor 4:20)。その力とはイエスを死から甦らせた神の力(Eph 4:19-20)。だから死者がよみがえって当然なのだ。この復活のキリストのいのちを吹き込まれた存在がエクレシア。エペソ1:23に「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(新共同訳)となるが、これは不正確。岩波訳が正しい。すなわち「・・・方の充満である」。場があって、そこに満ちるのイメージではない。その方の充満そのものがエクレシアだ。その方とはキリスト。ゆえにエクレシアはキリストである[2] … Continue reading。
エクレシアにはハデスの門も打ち勝てない。よってますますアクティブに、大胆に生きるのがクリスチャン。私たちのこれまでも既成概念を打ち壊してもらう必要がある。古い着物(キリスト教なる宗教)にいくら新しい布でパッチワークしてもかえってボロボロになるだけ(Luke 5:36)。新しいワインは新しい革袋に入れるのだ(Matt 9:17)。終わりの時代、われらの主は、この新しい着物と新しい革袋のパワーを知れ、と迫って来られるのだ。

FBの会話から:

と教える人々がいるとのこと。ある集会の証の本に、「病気の癒しを祈ってはならない、悪霊が働くから」と書いてあるのを見て目が点になったことがある。この人たちは異言も悪霊によるとしているらしい・・・・。要するに病気の中で自分の十字架を負って主の清めの御業を受けることが大切ということのようだ。彼ら的にはこれがいわゆる聖化の過程なのだ[1]それでは、神がその目的を成就するために送られた病を医学によって治療することは、見事に神の意志に反することになるではないか?!。うーっむ。
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38
イエスは御父を完全に現わされた。すなわちイエスを見れば御父の心が分かる。悪魔に苦しめられて人たちをすべていやされた! これは悪霊に憑かれた人のこと? ここの「いやされた」は”iaomai”、Strongによれば”heal, make whole”とある。健やかにされることだ。では、御父の心とは? それともイエスはあるときに方針を変えられたのだろうか? ヘブル書には、昨日も、今日も、永遠に変わらない、とある。
わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならばその言葉は決して取り消されない。-Isa 45:23
いじめっ子にいじめられて人格が錬られることを恵みとすることはあり得ないように[2]われわれは栄光の中において主と同じ姿に変えられていくのだ(2Cor 3:18)。、私たちは不当ないじめっ子には立ち向かうべきなのだ。
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。-James 4:7
いじめられっ子メンタリティーからマインドのトランスフォーメーションにより解放される必要があるのだ。これは病気だけではない。人間関係の束縛、貧困、逆に富の誇り、世のプライドなども同じ。あらゆる妨げから自由にされて神の国の豊かさを享受するためだ。
さて、ここで問題となるのは、罪と病の関係だ。罪の結果である死はひとりの人から全人類に入り込んだ(Rom 5:12)[3]罪は世に入り、死が全人類に入った。神の目にとっては死に支配される人類は自ずと罪を犯すのだ。。その結果として病も蔓延した。あなたは次の質問にどう答えるであろう:主はわれわれが罪のうちにとどまることを望まれるであろうか? アブソリュートリー・ノーだ。では、主はわれわれが罪の実である病にとどまることを望まれるであろうか? ここでそれぞれのフェイスが問われるのだ。
罪と病の問題はきわめてセンシティブな部分がある。イエスは、ある盲人に対しては、本人の罪でも親の罪のためでもなく、神の栄光が現れるためと言われた。ベテスダの池の病人に対しては、これ以上罪を犯さないように、悪いことが起きないように、と言われた。しばしば人は罪を楽しみつつその中にとどまることを願う。同様に病にあることがある種のコンフォートゾーンになることがあるのだ[4] … Continue reading。
原則として言えることは、死はひとりの人の罪によってもたらされた(Rom 5:12)。すなわち病気もアダムの罪の結果だ。イエスは十字架で人類の罪と病を負われ、否、罪とされ(2Cor 5:21)、病を知られた(Isa 53:3)。そしてその打ち傷により、私たちの罪は赦され、病は癒された(Isa 53:5)。私たちはアダムにあって生まれ、生きてきたが、ある時、イエスと共に十字架でアダムにある自分が死に、キリストにある自分が復活したと知った。さらに私たちは新しい創造とされた。
問題は、この身体がまだ旧創造に属していること。その中には罪(Sin)が住んでいること(Rom 7:17)。ゆえにこの身体は病気を抱えるし、罪も犯す。私たちにとっては、あなたの罪はすべて赦されていると宣言することは容易だが、あなたの病気はすべて癒されていると宣言することは困難なのだ。何故? 後者は目に明確に見えることだから。
癒しのミニストリーに携わる人々、例えばBill Johnsonが受けている非難に[5]彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ(笑)、彼自身メガネを必要としているし、息子も補聴器を必要とする難聴ではないか、とするものがある。彼もそれは真実に認めている。なぜ、他人は癒せるのに、自分と息子は癒せないのか? 回答は、不明、だ。私たちには分からない。英国のKingdom Faithでも、わが師であるJohn Mckayはガンで死亡した。Colin Urquhartは胃ガンになったが、15年経た今も健在だ。なぜ?・・・分からない[6]ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen … Continue reading。
目に見える現象としては、癒されない人もいるし、綺麗に癒される人もいる。しかし、極私的には、病気の人に対しては手をおいて祈ることを淡々と続けたいと願っている。それは機会がよくても悪くても御言葉を語り続けることと同じ。御言葉を聴いた人がすべて救われるわけでもないが、聖書には淡々と種まきをせよ、とあるからだ。私たちには誰が癒される/癒されないは不明であるし、誰が救われるか/救われないかも不明だ。主は多分言われていると思う:主権者はわたしであるから、あなたが知るべきことではないと[7] … Continue reading。ただ御心はすべての人が救われ、すべての人が癒されることであることは否定できない[8] … Continue reading。
References[+]
↑1 | それでは、神がその目的を成就するために送られた病を医学によって治療することは、見事に神の意志に反することになるではないか?! |
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↑2 | われわれは栄光の中において主と同じ姿に変えられていくのだ(2Cor 3:18)。 |
↑3 | 罪は世に入り、死が全人類に入った。神の目にとっては死に支配される人類は自ずと罪を犯すのだ。 |
↑4 | これを疾病利得と言う。誤解や反論を恐れずに言うが、癒されない人はしばしば深層心理において癒されたくないのだ。罪にとどまる人も同様に、それを指摘されることを避ける。なぜならその罪の享楽を失いたくないから。人はかように自己矛盾した存在である。 |
↑5 | 彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ(笑) |
↑6 | ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen 28:16)でヤコブは、神の家ベテル、天の門に神がいるとは気がつかなかったとある。神は常に共におられるのに、私たちは気がつかない、当然神の声(レーマ)を聴くことができない。あらゆる場面におられる神(I-AM)に気が付くかどうか、これは大きな差を生み出す。フェイスは自力で絞り出すものではない。神の声レーマを聞くなのだ。 |
↑7 | 私は医学の介入を否定するものではないので、注意されたい。人間の裁量権に任されている部分は相当にあると考えている。神学用語を弄すれば、「一般恩恵」として。 |
↑8 | ここでカルバン神学に言う、選びの問題がクローズアップする。救われた人は選ばれていた人。では選ばれていない人はどうなるの? と人は質問する。が、それは神の主権に属することである。神はある器を尊い目的に、別の器を卑しい目的にのために作られるのだから。 |

十字架は全宇宙の歴史の転換点だ[1]もっと言えば、切断面と言える。。旧創造を担われたイエスは、十字架でその不条理をすべて引き受け、苦しみの中で死なれた。その苦しみはわれわれが知る由もない。神の独り子だけが与り得る苦しみである[2]よく言われる「キリストのお苦しみにあずかる」というもっともらしいセリフは偽りである。。
しかし、イエスは聖霊により復活した(Rom 8:11)。このとき私たちも復活した。この復活の領域は新創造の領域であり、あらゆる旧創造の不条理から解かれている領域である。イエスが地上におられたとき、あの地において限定的に現された神の国が全地球規模において現出する。神の国は私たちのうちに聖霊によって生きている。
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。-Rom 14:17
そこで病の癒しについても言えるが、自分をどなたと同一視するのかがポイント。自分の葛藤や苦しみや病や罪からの解放を求めて、苦しんでいる十字架の主と同一視するのか(=最初のアダムとの同一視)、勝利にあって復活され、天に座しているお方と同一視するのか(=第二の人との同一視)。真理は、私たちはすでにその方と共に天に座しているのだ!(Eph 2:7)
よく言われるキリスト教のセリフに「十字架に戻れ!」がある。これがけっこう曲者なのだ。しばしば、そこで苦しまれているキリスト、すなわち最初のアダムと同一視してしまう。実際は十字架は旧創造がすでに終わったことの保証であり、その後に復活があることを思いこさせる場なのだ。私たちは「自我に死のう」と務める必要はない。すでに死んでいる! ポイントは復活したキリスト、その方と同一視するとき、まことに神の国のいのちと力を味わうことができるのだ。サタンも手の出せない領域。罪の赦し、病の癒し、貧困からの解放、豊かな人生を堪能できる。
愛する者よ。あなたが、たましいが繁栄しているようにすべての点でも繁栄し、また健康であるように祈ります。-3John 1:2
もっともらしいキリスト教なる宗教のマトリックスに絡めとられないように! われわれはすでに死んで復活したニュー・クリーチャー。この世にはいるが、この世のものではなく、ジャスト・セイムにキリストと同じエイリアンである。☞十字架とは何でしょう?

うちの薬剤師の奥さんの薬局では最近は電子マネーで支払うらしい。あるおじいちゃんに、残高が足りませんので、三千円チャージしてく ださい、と言ったらしい。で、そのおじいちゃん、三千円を”支払う”と、なんと「ツリをくれ」とクレーム・・・。何度説明してもついに分かってもらえなったとか
率直に言えば、私たちより上の世代と関わるのはけっこううっとおしい。さすがに最近はメッセのテープを分けてくれという人はいなくなったが、DVDとCDの区別がつかなかったり、自分のケイタイの設定を教えてくれとか、セレブの”三番目”の賛美は何と質問するも自分が来てからの三番目だったり、セッティングしたカメラスタンドを動かしてしまったりと。話しでもこちらのジョークが通じない、逆に相手が何を言いたいのか不明。微妙に感覚がズレるのだ。
これがけっこうイラっとクルわけ[1] … Continue reading。いろいろ問題を訴えるが、たいていの場合、自分で作り出しているだけ。本人はそのカプセルに幽閉されて、自分が見えないまま、無限ループに落ちている。ここにプライドが絡むとほぼ脱出は不可能になる。それを否むことができないのだ。というわけで、まあ、最近はさっとスルーしているが・・・。
要するに共有している時代や価値観のマトリックスが全く異なるわけ。生きている領域がかなり違っていることは否めない。どこに境目があるかと思ったが、どうもネットとの関わり方で決まるかもだ。もちろんこれはアダム系にある私が構成したマトリックスであるが。
これは霊的にも全く同じ。未信者は神なんていないが当たり前のマトリックスに生きている。彼らにとっては物質の世界がすべて。せいぜい心を大切にとかのレベルだ。今のニッポンの状況はアベちゃん現象でわかるとおり、その行きつくところまで到達した感がある。一言、卑しい。
あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであれ、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
自分の生き方や信条や個性や感じ方などをあくまでも主張する人々がいる。オレはオレ、私は私であることが大切だと・・・。彼らを見ているとひたすら種々の活動や主張に次から次へと没頭し、それはある種強迫的ですらある。それに没頭していないと自分のアイデンティティーが保たれないかのように・・・。一言で言えば、霊的に空疎なのだ。
私たちは絶えず自分の十字架を負う必要がある。それはまずマインドを絶えず変えること。上のおじいちゃんのように、現ナマのマトリックスに絡め取られていると電子マネーが使えない。理解もできない。これが自分を自分のマトリックスに幽閉する人々のあり方だ。自ら捨てない者は決して新しい創造としての生き方やその霊的資産を得ることはない。そしてその空疎さは周りにはわかってしまう。霊のあり方は決してごまかせないのだ。彼らは活動することによってその空疎を補償しようとするのだが、かえってそれが空疎さを証明していまう。
神のバイブレーションと共振すること(Ps 19:1-3)。これは神の声を聞くことであるが、魂(Soul)―特にナチュラルなマインド-が邪魔をする。いわんや、自分を主張すればするほど、神との距離が離れる。まことにジーザスの声を聞く者は生きるのだ(John 5:25)。私たちの霊的有用性は、活動ではない、聞くことにある。聞けばフェイスが息吹かれる。それは霊を受けることである。フェイスは霊である。そして語り出すのだ。その語り出された言葉は無意味に返ることはなく、必ず言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)。それは神の業である。ジーザス自身がそのように生きたのだ。
神に属する者は神の言葉(レーマ)を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。-John 8:47
マルタはジーザスの足元に座るマリアに憤りを覚え、ジーザスに訴えた。が、彼はマリアは大切なことをしているのだと言われた(Luke 10:40-42)。それは―ジーザスの声を聞くこと。聖霊は自分勝手に語るのではなくジーザスの言葉を語るのだ(John 16:13-14)。かくして、私たちの有用性はどれほど聞くことができるかにかかっているのだ。
持っている者で聞く者はますます豊かになる。-Matt 13:12[2]写本により「聞く者」が落ちている。