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トップ > 2010年06月14日

転載:法則であって祈りではない

Candyさんのブログに紹介されていました。こちらでも。自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとしてクルシチャンしているニッポンキリスト教徒のみなさん、法則を知ることは何ができて、何ができないか、その仕分けを明確にすることなのです。そしてそれが魂と霊の切り分けでもあるのです。聖書は宗教の書ではなく、まさしく霊的サイエンスの書なのです。

神が私たちを対処し、わたしたちそのものを砕き、霊を解放して、わたしたちが自分の霊を使用することができるようにされるのは、神の法則によるのであって、私たちの祈りによるのではありません。これはどういう意味でしょうか。

それは、わたしたちの内なる人は、私たちの、砕かれた外なる人を経過して出てくると言うことです。

これは一つの法則であって、私たちの祈りはこの法則を左右することは出来ないのです。法則は祈りによって変えられることはありません。

あなたが祈りながら手を火の中に入れたとしても、あなたの手はやはり火傷をまぬがれないでしょう。(奇蹟のことではなく自然のことを言っています)

あなたの祈りはその法則を変えることは出来ません。ですから、私たちは神の法則に服従する人になるように学ばなければならないのです。

 祈りさえすればそれでよいと考えてはなりません。

もし、手を火傷したくなかったら、火の中に入れないことです。

祈りながら、手を火の中に入れるものではありません。神が私たちを対処されるのは法則によってです。

内なる人は必ず外なる人を経過して出てこなければならないからです。これは一つの法則です。

もしあなたの外なる人が砕かれ、ひかれて粉になっていないなら、あなたの内なる人は出てくることができません。

とにかくこれは主の道であって、主は必ずあなたそのものを打ち破らなければならないのです。

そのとき始めて主が出てこられる道が出来るのです。私たちがこの法則に服従しないで、多くの祈りをもってあれもこれもと祝福を求め続けてはなりません。

このような祈りは無駄であり、神の法則を変えることは出来ないのです。

 霊的働きの道では、神が私たちから出てこられるのでなければなりません。

ただ、この道だけが神の用いられる道であります。

砕かれていない人からは、福音も、神も解き放たれる方法もないのです。またその人自身にとっても歩むすべがないのです。

私たちは神のみ前にひれ伏さなければなりません。どんなに多く祈るよりも、神の法則に服従する方がさらにまさっています。

無知のために神の祝福を求め

 「神よ、私たちのためにこのようにしてください。あのように働いてください」 と求めることは、神の道はこのように歩むものだということを知った一分間の祈りにも遠く及ばないのです。

このような祈りは無益ですから、それをやめて、神に向かって

 「神よ、わたしはあなたのみ前にひれ伏します」と言う方が、さらにまさっています。

多くの場合、わたしたちの祝福を求める祈りはみな妨げとなっています。

多くのとき、私たちは祝福を切望しますが、かえって神のあわれみを見ることができないようです。

神が光で照らしてくださるように求め、み手の下に服従すること、この法則に服従することを学ばなければなりません。この服従の結果が、私たちの切望する祝福そのものであります。

ウォッチマン・ニー:『霊の解放』より

日本振興銀行問題-逃げ切れるか木村剛氏-

ファイル 1375-2.jpg

このところ官房機密費の実態、沖縄返還の際の裏資金提供、核持込密約など、これまで封印されていた真実が次々に表に出てきている。この銀行も中小企業の味方として、竹中氏の懐刀の木村剛氏が設立したが、今般、SFCGとの偽装取引や、法定外金利の搾取などで金融庁から3ヶ月の業務停止処分を受け、メールの大量削除などで刑事告発された。木村氏は会長をすでに辞任。しかし彼も刑事告発の可能性も指摘される中、任意の聴取を受けている。

雲隠れ木村剛・日本振興銀行前会長を直撃「刑事告発危機と経営者責任」
<日本振興銀>木村氏、違法性認識か 債権買い取り承認

この件について、竹中氏の宿敵植草一秀氏がいつ何を書くのか、ずっと待っていたが、ついに記事を書かれた。

日本振興銀行をめぐる黒い霧

ファイル 1375-1.jpg同氏は『知られざる真実-勾留地にて-』において、小泉・竹中によるりそな銀行の取り扱いに関わる数々の疑問点を指摘されているが、あらためてその実態が証明される事件と言える。りそな銀行の件では、植草氏がその実態を暴露する直前に痴漢事件で嵌められ、会計士の自殺、新聞記者の不審死が相次いだ。

それにしても木村剛氏は何と48歳。この年齢で、この貫禄にして、政府のブレーンとして、また銀行の会長として一世を風靡した。彼の竹中氏に対する心酔ぶりはかなりのものがある。木村氏のブログはちょくちょく見ていたが、現在は休止状態だ。

週間!木村剛

木村氏はコンプライアンス(法令遵守)を強調していたマーケット原理主義者だが、自らコンプライアンスを破棄したのだろうか。警視庁の事情聴取に対しては、自らの関与は否定しているのだが・・・。しかし振り返ると、2000年代を闊歩したホリエモン、村上氏、そして木村氏と、時代の寵児が次々に落ちてしまったなあ。

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