老子第五十一章
- 2014/05/24 22:04
- Category: 漢詩
- Tag: 老子
徳之を畜(やしな)い
物之を形し
勢之を成す
是を以って万物は
道を尊び徳を貴ばざるはなし
道是を尊び 徳之を貴ぶ
夫れ之を命ぜずして常に自ずから然り
故に道之を生じ
徳之を畜(やしな)い
之を長じ
之を育て
之を亭し
之を毒し
之を蓋(おお)い
これを覆う
生じて有せず
為して恃(たの)まず
長じて宰せず
之を玄徳と謂う
Dr.Luke的日々のココロ
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風に臨んで落花の頻なるを興嘆し
芳意又一春潜に消ゆ
應に價高きが為に 人 問はざるなるべし
却て香甚だしきに練って 蝶 親しみ難し
紅英只稱ふ 宮裏に生まるるに
翠葉那んぞ堪えん 路塵に染まるに
根を上林苑に移すに至るに及んで
王孫方に恨まん 買ふに困なきを
これが彼女の魅力だ・・・。詳細はこちらをどうぞ。
ちょっと漢詩づいていて恐縮だが、前にも紹介した二篇を再掲。魚玄機の人生を思うとき、運命に翻弄される一人の女の健気さと共に、ある種の狂気、そう、阿部定的情念を感知する。そこに熟男(うれだん)である私的には、限りない魅力を覚えるのだ。その彼女を思いつつ詠んだ詩を二篇ほど。
春恨の紅粧 一石
寒威(たけ)く 鶯は默し 疾風吹く
枝は凍るも 櫻花 撩亂(りょうらん)して披(ひら)く
春恨の紅粧 香 寂寂たり
雙飛の黄鳥 佳期少(まれ)なり
春というのに、まだ寒く、鶯も黙し、冷たい風が吹くすさぶ。枝は凍り、桜の花が狂ったかのように開いている。こんな春を恨む紅化粧をしても、香がうら寂しい。番いの鶯もその幸せな佳き日々はなんと短いのだろう。
憂悒たる蘭房 一石
荷風 樹樹 枝枝 碧たり
花は謝し 流鶯 別離を惜しむ
憂悒(ゆうゆう)たる蘭房 雲 忽ち暗し
露華の玉箸(ぎょくちょ) 暁粧遅し
蓮の葉に吹く風、樹木の枝々も緑が濃くなっている。(桜の)花は散り、春の終わりの鶯も別れを惜しんで鳴いている。そんな春の憂いに満たされた女の部屋には雲が深く垂れ篭めるかのように、美しい女の露の華のような涙で、朝化粧をするのも遅れている。
現代ヴァージョン・・・・。
昨日の杜牧の詩の「細腰」はスリム美人であった趙飛燕を意味する。彼女は手の平で舞うことができるほどと言う意味で飛燕(号)と呼ばれたのだ。生まれは卑賤の身分、妹と共に楚の成帝の目にとまり後宮に迎えられた。
後宮では成帝の寵愛を受け、更に妹の趙合徳を昭儀として入宮されることも実現している。成帝は趙飛燕を皇后とすることを計画する。太后の強い反対を受けるが前18年12月に許皇后を廃立し、前16年に遂に立皇后が実現した。
前7年、成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死したことよりその死因に疑問の声が上がり、妹の趙合徳が自殺に追い込まれている。こうした危機を迎えた趙飛燕であるが、自ら子がなかったため哀帝の即位を支持、これにより哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。しかし前1年に哀帝が崩御し平帝が即位すると支持基盤を失った趙飛燕は、王莽により宗室を乱したと断罪され皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、更に庶人に落とされ間もなく自殺した*1。(以上Wikiより)
彼女がスリム美人であるとすれば、後の唐の楊貴妃はグラマラス美人と言える。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために「安史の乱」を引き起こしたとされ、「傾国の美女」と呼ばれる。白居易が『長恨歌』において「春寒賜浴華淸池、 温泉水滑洗凝脂」と形容しているほどに豊満かつすべすべの肌であったようだ。一説には体重が100キロとも言われているようだが、これでは夢を壊す*2。で、李白はこの楊貴妃に対して次のように詠ったのだ。
清平調詞其の二 李白
一枝の濃艶露香(つゆこう)を凝らす
雲雨(うんう)巫山(ふざん)枉(ま)げて斷腸
借問(しゃくもん)す漢宮誰か似るを得ん
可憐の飛燕 新粧(しんしょう)に倚(よ)る
楊貴妃を称えるために、趙飛燕に比べてしまったわけ。しかし飛燕は下賤の生まれで、晩年には庶民に落とされて自殺している。これが楊貴妃の運命に対する当てこすりとされて失脚する口実のひとつとされたのだ。まあ、彼は玄宗に呼ばれても、「俺は天下の李白だ!」と飲んだくれていたほどの無頼人。晩年は水面に写った月を取ろうとして船から落ちて死んだと言われている。が、後に美人を形容するのに「環肥燕瘦」と言うようになったとのこと(環は楊貴妃の幼名玉環による)。女性の姿を形容するときには十分なる注意が必要なのだ、紳士諸君
さて、この李白の詩にある「雲雨巫山」もなかなか深い表現なのだ。先に魚玄機の詩をいくつも紹介したが、彼女の艶っぽい人生に惹かれることは何度も書いた。私は「唐人お吉」などの儚い運命に翻弄された美しい女性に限りなく惹かれるのだ。魚玄機の人生については何度か書いたし、森鴎外の小説『魚玄機』にもなっている。その玄機の歌に自分を妾としてくれた官僚の李億との悲しい別離を詠った詩がある。
秦楼幾夜か 心にかないて期(ちぎ)りし
料らざりき 仙郎別離有らんとは
睡り覚めて 言う莫れ雲去るの処
残燈一盞 野蛾飛ぶ
ここにある「雲去るの処」が実は「雲雨巫山」なのだ。
戦国時代、楚の国の襄王(BC299~BC263)が、大夫の宋玉を伴って雲夢(うんぽう)というところで遊ぶことがあった。
そのとき朝雲(高唐)の館を眺めるとその上に雲がかかっていたのだが、その雲が高く立ち上るかとおもうとたちまち形を変えるなど、またまくまにさまざまに変化する。
不審に思った王は、宋玉に問うた。
「いったいあれはなんという雲だ。なんの意味があるのだ?」
すると宋玉が答えていうには
「あれは朝雲というものでございます。
昔、先王の懐王がこの高唐の館にお出でになって遊ばれたとき、お疲れになってしばらく昼寝をなさいました。すると懐王の夢の中に一人の女性が現れてこういったのです。
『私は天帝の末娘で瑤姫と申します。嫁ぐこともなく命を落としてしまい、巫山というところに祭られております。魂は草となり、身は霊芝となりました。(だから私、“男”を知りませんの) 今、王が高唐に遊びに来ていらっしゃると聞いて訪ねて参りました。どうぞ枕をともにさせてくださいませ』
王はそこでその女と情を交わされたのです。
やがて帰るとき、女はこういって別れを告げました。
『私は巫山の南の険しい崖のところに住んでおります。朝は雲になり、夕暮れには雨になって朝な夕な陽台(=巫山の南)であなたをお慕いしておりますわ』
王が翌朝、巫山の南の方を眺められますと、果たして女の言ったとおり、そこには雲が立ち込めていました。それで王は女を偲んで廟を立て、その廟を朝雲と名づけられたのです」(出展)。
なんとも艶っぽいロマンチックな逸話ではないか。李白も魚玄機もこのような逸話を元に、自らの詩を構成しているのだ。極私的には、渡辺淳一の小説などは、とてもではないが、その情愛の深みと表現の洗練さにおいて、このような彼らの詩の世界に太刀打ちできるものではないと思う。ひとつの詩が、その背景も含めて理解できると、そこには人間の生と性が描かれており、そこからパーッと新しい漢詩の世界が広がるのだ。これはある意味、御言葉がひとつ開けると次々に新しい霊的世界が開かれるのと似ているかもしれない*3。
*1:一説には成帝に強精剤を飲ませすぎて死亡させたとの説もある。
*2:最近の「デブ専」あるいは「マショマロ女子」系の人々には魅力的であろうが・・・。
*3:御言葉とこのような情愛の詩を比べるとはなんぞや!などと、野暮なことはこのブログの読者であれば言わないと思っている次第。聖書は人間の生と性の本質を十分に描いているではないか!
若い頃はみなスリムだったが、浮世を生きるうちに、非情にも髪も白くなった。
どうしてこのような人の世に耐えることができるだろう、すべては胡蝶の夢なのだから。
今、この歳になると分かるのだ、世の物事はすべて偽り事(ヤラセ)であると。
ちょっと若かりし頃を振り返りつつ、今の自分を客観視しているツモリなのだが、これとよく似ている境遇を杜牧も詠っている。
江南地方で遊び暮らしていた時にはどこに行くにも酒樽を持参したもの、
楚の女たちのようなたおやかな腰の感触、彼女たちは手の平に軽く載るようだった。
ハッと揚州で過ごした十年間の夢から覚めてみると、残ったのは青楼での浮気男の評判ばかりだ。
昔、楚の国ではその王が腰の細い女性を寵愛したことを以て、細い腰は美女の条件とされた。漢の成王の愛妾趙飛燕は体が軽く、手の平で舞うことができたという逸話を受けている。太和七(833)年、31歳の杜牧は楊州に赴く。この地は物資輸送の拠点、商業都市として繁栄し、無数の妓楼があった。若い杜牧はそこに入り浸り酒色にふけった。その若い頃の懐かしさが前半に込められ、後半には夢から覚め、分別をわきまえる年齢に達した彼の追憶と悔恨の甘酸っぱい感情が込められている。誰しもこのような気持ちを抱きつつ、年を重ねているのだ・・・。
※機心=やりくりしたり、煩ったりする心
まことにわれわれは地上では寄留者なのだ・・・。が、その地上の生をも楽しむようにと、日々、神はあらゆる良きもので満たして下さる。さて、本日は湘南へ・・・・。
花が咲き乱れ、緑の柳の葉も茂り、春風に自由気ままに揺れ動いている。蓮の葉も一枚一枚の趣はみな異なりつつ、生き生きと開いている。あちらこちらを飛び回る鶯は伴侶を求めてしきりに鳴き響き合う。そんな春の華やかな雰囲気の中で、一羽の鳥が池の中に、何かもの思いに沈むように佇んでいるが、その気持ちをどうして理解してあげることできるだろうか。
実はこの独鳥に詩人は自分を投影しているのだ。その自分の物憂い心を誰が理解してくれるだろうか。春はしばしばそれが明るく華やかであればあるほど、人の心の寂しさとか憂い、あるいは人生の儚さを、逆に際立たせるのだ。
これと似ている詩も紹介しておこう。蘇軾の『東欄梨花』。
嗚呼、人生は儚きもの・・・・。柳絮(やなぎのわた)のようにどこからきて、どこへいくものかもしれない。人生、何回清明を見ることができるのだろうか・・・。まことに曹操が歌うが如し、人生幾ばくぞ、と。
雨上がりの山小屋の朝、いつもより少し遅く目覚め、ふと見上げると天窓から差し込む朝の光は何となくぼんやり薄暗い。
老境の私は枕を傾けて鶯のさえずる声に耳をそばだて、子供の召使は入口の戸を開け放して燕を外に解放してあげるのだ。
時間がものすごくゆったり流れる中で、まだまどろんでいる私が味わっている晩春の朝の気だるさ感がたまらない。まさにアイドリングの快楽の極地。山小屋は静まり返り、鶯の鳴き声が遠くから聞こえる。その声を床に横たわったまま聴くことの贅沢さ。召使の子供は屋内に巣をかまえた燕を外に解き放つ。私も、身は山小屋に伏してはいるが、心は燕といっしょに空に解き放たれるのだ。晩春の朝のなんとも言えない実にリッチな時間だ。
其の鋭を挫き、其の粉を解き
其の光を和し、其の塵に同じくす
湛として存するあるに似る
われ誰の子なるかを知らず
帝の先に似たり
[訳]
「道」はからっぽで何の役にもたたないようであるが、そのはたらきは無尽であって、そのからっぽが何かで満たされたりすることは決してない。満たされているとそれを使い果たせば終わりであって有限だが、からっぽであるからこそ、無限のはたらきが出てくるのだ。それは底知らずの淵のように深々としていて、どうやら万物の根源であるらしい。
それは、すべての鋭さをくじいて鈍くし、すべてのもつれを解きほぐし、すべての輝きをおさえやわらげ、すべての塵とひとつになる。
それは、たたえた水のように奥深くて、どうやら何かが存在しているらしい。
わたしはそれが何ものの子であるかを知らないが、万物を生み出した天帝のさらに祖先であるようだ。-金谷治、『老子-無知無欲のすすめ-』、講談社学術文庫
空っぽであることは幸いだ;霊の貧しい者は幸いだ(Matt 5:1)。自分自身にあって満ち足りている者はたちまちに消費する。自分自身にあって富んでいる者はわざわいなのだ。万物の根源たる方をその空っぽの霊の中に招くこと。そこから生ける水が川々となり流れ出る(John 7:38)。まことの知恵は自らの鋭さを隠すもの。また自分自身のギラギラした輝きをおさえ、むしろ塵と等しくなるもの。それはたたえられた水のような深みを生む(Ps 42:7;Eccl 18:4)。それは万物を生み出した天帝の祖先なのだ。
注:雪香亭=金の都の宮殿にあった亭
春は暖かく、晴れた空に雲が悠々と浮かび、新しい花や葉をつけた木々も美しい。が、表向きの美しさ、輝きとは裏腹に何か憂いを覚えさせる時期。美しい雪香亭も風雨を受けて塵になるように、人の生もいずれ尽き果て塵に帰る。自由に春を謳歌して飛び回る鶯とて、亡き人を思いつつ、暮春に慟哭しているのだ。