というわけできわめて多彩な内的経験を味わった。そして断食を終えてみると、まず驚くことは、主が近い。文字通り、The Lord is at hands(Phil 4:5)。前にも書いたが12月の経験以来、神が手で触れられる感じなのだが、それがさらに近い。両手を挙げるだけで手の平に触れる。何なんだ、この感覚は?と自分で思いつつ、両手に触れた神の霊が深くに流れ込み、主の愛と臨在に伴う栄光の重さがズシッとくる。やっぱり、やばい・・・。
このところずっと12月の3日間に起きことを整理しているのだが、あれは結局何だったのだろうか。あの時に見せられたことや聞いたことは何なのだろうか。単なる妄想・幻覚?これらの疑問はまだ消えない。ただ私のうちに何かが刻印されてしまった感覚だ。かくして"NEVER BE THE SAME"。神の道を歩むたには、ラザロの復活におけるイエスのように、敢えてリスクを取ること。それは自分を真に手放すことなのだ。
*1:Note also that the word another is αλλον, and not ετερον, which means different. The advocate who is to be sent is not different from Christ, but another similar to Himself.(Vincent) *2:しかし、よくここまで見捨てることをされず、悟りの遅いものを忍耐強く導いてくださった。 *3:御霊と人の関わりは旧約と新約では決定的に異なる。"on"と"in"の相違と言えるが、私はこれまで"on"についてはやや薄かったと感じている。→「御霊と人の関わりについて―油注ぎ(on)と油塗り(in)―」
この神の言葉は"rhema(レーマ)"だ、神が語り出された言葉。私たちの五感で知覚し得る物は見えないものから造られている。この「造られた」は"katartizo"、英訳では"framed"。Vincentは"Put together; adjusted; the parts fitted to each other."としている。あたかもテレビカメラのフレームにある場面を現出させるような感じ。目に見えない領域の存在をこの地にフレームするのだ。これが御心が天になるごとく、地にもなるようにの意味。そして神の栄光だ。