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2015年、Jubile(ヨベル)の年を味わう

本日で2014年度は終講。あとは試験のみだ・・・。外のサンシャインビルが眩しい。

2015年、tangibleな神の臨在に包まれつつ、極私的には解放感と深い平安に満たされている・・・。なんなのだ、この歓びは ヨベルの年*1を心の深みから満喫させていただこう

その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。
その五十年目はあなたがたにはヨベルの年である。種をまいてはならない。また自然に生えたものは刈り取ってはならない。手入れをしないで結んだぶどうの実は摘んではならない。
この年はヨベルの年であって、あなたがたに聖であるからである。あなたがたは畑に自然にできた物を食べなければならない。
このヨベルの年には、おのおのその所有の地に帰らなければならない。
あなたの隣人に物を売り、また隣人から物を買うときは、互に欺いてはならない。
ヨベルの後の年の数にしたがって、あなたは隣人から買い、彼もまた畑の産物の年数にしたがって、あなたに売らなければならない。
年の数の多い時は、その値を増し、年の数の少ない時は、値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは産物の数だからである。
あなたがたは互に欺いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
あなたがたはわたしの定めを行い、またわたしのおきてを守って、これを行わなければならない。そうすれば、あなたがたは安らかにその地に住むことができるであろう。
地はその実を結び、あなたがたは飽きるまでそれを食べ、安らかにそこに住むことができるであろう。-Lev 25:10-19

*1:正確には2015年9月14日から。ただし49年周期で計算することもあるようだ。

「何でも見てやろう」から

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」-Jer 6:16

ファイル 4667-1.jpg

かつて浪人時代に代ゼミの「小田実の英語で考える講座」なる単科ゼミを取っていた。べ平連の闘士、ちょっと猫背でかなり癖のあるしゃべり方、いろいろなゲストを連れてきて、ユニークな講義だった。彼の処女作が『何でも見てやろう』だ。・・・そう、私も一通り見たかも、だ・・・。

その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。-Jer 30:8

2015年、ジュビリーの年・・・。

十字架の意味

ファイル 4666-1.jpg

クリスチャンがよく陥る罠が十字架における自己の死だ。これを宗教的に自分勝手に理解して、自我を否んで、自我を十字架につけて、自分は何もしない・・・、と。これでいわゆる受動性の罠に陥る。

十字架は生まれついてのアダムにある古い人由来の魂(soul)由来のエネルギーから御霊による復活のキリストのいのちの(霊的)エネルギーに切り替える場なのだ。十字架における自己の死とは、魂の機能である思い・感情・意志の機能を停止することでは決してない*1。十字架が働けば、復活のいのちが流れる。このいのちのエネルギーで、いのちの御霊の法則に乗って生きること、これがクリスチャンの生だ。死だけでは何もなされないし、神の御心はなされない。復活があって初めてそれは成就する。むしろ、復活の領域では死者が生き返り、病人は癒され、悪霊も追い出されという人間にはとうてい不可能な事象も起こる。いや、それをなせと主イエスは命じられているのだ(やばいでしょ?)。この復活の段階までが起きてこそ神の国の現出と神の栄光が現れる。

神の国はロゴスの中にではなく、力のうちにある。その力とはイエスを死から甦らせた神の力。だから死者がよみがえって当然なのだ。この復活のキリストのいのちを吹き込まれた存在がエクレシア。ハデスの門も打ち勝てない。よってますますアクティブに、大胆に生きるのがクリスチャン。私たちのこれまでも既成概念を打ち壊してもらう必要がある。古い着物にいくら新しい布でパッチワークしてもかえってボロボロになるだけ(Luke 5:36)。新しいワインは新しい革袋に入れるのだ(Matt 9:17)。どうもこの御言葉の意味も取り違えていたようだ。今回主は、この新しい着物と新しい革袋のパワーを知れ、と迫って来られるのだ。

で、この祈りはすごい。57分間ノンストップ!

*1:むしろ復活のエネルギーで作動する魂は栄えるのだ(3John 1:2)。

再・神の国はいのちと統治

クリスチャンの道程をシンプルにまとめると-

  • まず神の国に御霊によって生まれる(John 3:5)。
  • 内なる神の国を得て、いのち(Zoe)の成長に与るが、それは人手によらない(Mark 4:26-29)。
  • いのちにあってキリストと共に支配する(Rom 5:17;21)。
  • これらの経験はすべてただ信仰による(Heb 11:6)。このとき思いが新たにされる必要がある(マインドのトランスフォーメーション、Rom 12:2)。

鍵はいのちと統治のバランス。私は今、このバランスをグッとアジャストされたようだ。究極的にはいのちと統治によって、地上に神の国を現出させること。そう祈れ、と主は言われた(Matt 6:10)。死すらも支配する。こうしてすべての膝はかがみ、すべての舌が神を褒めたたえる。まことに

神の国はことば(logos)ではなく、力(dunamis)にある。-1Cor 4:20

SO BE IT !!!

taking a breath...


i_exal_you

Kingdom Faith Worship...

「派」の起源―認知のフレームと内的世界モデル

ニッポンキリスト教(に限らないが)にはメインライン(日本基督教団系)、福音派、聖霊派・カリスマ派*1・・・と種々の「派」がある(カトリックはとりあえず別扱い)。メインラインから見ると現代における聖霊の働きすら拒絶され、福音派にはかつてカリスマ条項なるものがあって、聖霊派・カリスマ派と一線を画していたようだ。

かつて主イエスが「わたしの血を飲み、肉を食べる」と言われると、「誰がこんな言葉を聞いておれようか!」と人々は叫んだ。主ご自身も弟子たちに対してすら、「あなたがたは今は聞くに耐えられない」と言われた。復活の後ですら、弟子たちは心の鈍さのゆえに、主を認められなかった。これらはすべて主の御業が私たちの認知のフレームと内的世界モデルに収まり切れない故である*2

私たちは自分の世界観(モデル)や認知のフレームから外れる事には必ず拒否感を覚える。なぜならそれは自分自身の在り方、つまりアイデンティティーを脅かすからだ。そこで情報を取り込むとき、無意識的に認知の選択的透過(取り込み)を行う。自分にとって脅威とならない部分だけを選び取るのだ。聖書に対しても同じ。御言葉をも自然と取捨選択したり、あるいは認知のフィルターをかけて自分にとって脅威ではなくなるように"解釈"した上で取り込むのだ。同じ傾向の人々が集まり、いわゆる「派」が誕生する。要するに「派」は単なる認知行動科学的現象に過ぎない*3

今回、私自身がそれを行ってきたこと、ゆえに聖書も神の力も知らないことに気が付かされた。で、聖書の御言葉に生のままで向き合ってみると、これがこのところ繰り返している、やばい、となるのだ*4。天を地に下ろすように祈れ、と主は言われている。究極的には新エルサレムは小羊との結婚のために地上に降りてくるのだ(Rev 21:2)。現在はその前味わい、あるいは前哨戦と言える。自分が聖書をどのように読み、どのように取り込み、どのように自分の血肉にしているか、私はこのところずっと問われ続けている。それはあたかも積木崩し。賽の河原の石積みだ。かくして思い(nous)のトランスフォーメーション(メタモルフォーゼ)に与っているわけだ(Rom 12:2)が、このところ妻にもインパーテーションされたようで、彼女もしきりに聖書はやばい、やばい、と言い出している。

果たして私たちはどこへ向かっているのだろうか?主は私たちをどこまで連れて行こうとされるのだろうか?すでに賽は投げられ、ルビコン川ではなく、ヨルダン川に足を踏み入れてしまったのだ。要するにもはや神の御手から逃げられない。

*1:聖霊のバプテスマに異言が伴うか否かで、この二つも微妙に異なるらしい。
*2:あの3日間に私が経験した事象、見たり・聞いたりした内容も相当に外れている。私自身が消化し切れていないのだから。このような場合、人はそれを異常心理現象あるは変性意識現象として自分の認知のフレームを通過させ、内的世界モデルに組み込もうとするのだ。
*3:しかし、アイデンティティーに関わるゆえに極めて強固になり、その自己防衛機制も強力なものとなる。
*4:誤解を恐れずに言うが、幸福の科学や創価学会の書籍の方がよほどまともなことを語っている。

Katie Souza-懲役12年から解かれて

このヴィジュアル系女性の経歴、かなり驚いた。高校時代から危ない道に入り、ハリウッドでモデルをしたり、バンドを組んでいたが、ドラッグにはまり、バイヤーとなり、ついにはドラッグを自ら合成。1999年逮捕、懲役12年で刑務所へ。が、そこで神と出会う。刑務所の中でGod Podなるチームを結成し、伝道開始。神は早期に彼女を解放し、その後プリズン・ミニストリーに。

彼女の教えのポイントは、霊・魂・体からなる人間は、再生(ボーン・アゲイン)されたとき霊は完全とされたが、魂(思い・感情・意志)が罪により傷んでいる(Isa 30:26)。これを癒すのにいわゆるカウンセリングなどは時間と労力が必要だが、まことのカウンセラー・イエスの光を受けるとただちに癒されると(Mal 4:2)。そして魂が健やかであればあらゆる領域で神の豊かさを享受できる、と説く(3John 1:2)。

・・・うーん、これは英国のKingdom FaithのColin Urquhartが提唱したダイレクト・カウンセリングそのものではないか!?

また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。-John 8:32

神の名

最近、神に手で触れる感覚を味わっている。まことに

The Lord is at hand.-Php 4:5(KJV)

私たちが対峙する方は全能にして全知、遍在され、天と地を創造されたお方。私たちの頭脳(思い)や経験に収めてはならないのだ。

Dr.Lukeは最近やばいことを言い出していると感じる向きもあるかと推察している。実は、自分自身が一番、やばい、と思っているからだ が、私が主から語られていることはすべて聖書の御言葉どおり*1。たとえば

そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触て、おいやしになった。-Luke22:50-51

イエスはここで、切り落とされた耳を癒された。物理的に切断されたものを修復したのだ。あなたはこれを信じるでしょうか?「ノー」ならば、それまで。「イエス」ならば、では主が「信じる者はわたしのしている業をなし、さらに大いなる業をする」と言われたことをどうしましょうか?いや、それは大げさに言っているだけとか、福音が世界規模で拡大することの比喩として言われたのだとか・・・、まあ、いろいろ"解き明かし"はできる。鍵はそれぞれの信仰に応じて、だ。だからあえて追求も議論もするつもりは毛頭ない。私はただ、"Amen, So be it!!!"と祈るのみだ。

*1:聖書はすべて神の霊感による書と認めない人にとっては無意味な話となるが・・・。

アノインテド・パワー・プレイヤー

how do you feel? sense the spiritual heaviness on you? if so, that's the Glory of the Lord. Glory is heaviness, as I mentioned before...or some kind of mass hysteria phenomenon?

イエスの御業も使徒の業も継続している!

私自身がそうだったが、福音書や使徒行伝の世界はもう完結していると考えていた。理由は聖書が完成しているから。あの3日間の現象を経験して、私のうちの何かが根本的に変化した。結果、無意識のうちに、そう考えていたことに気がついた。だから、イエスや使徒達がなした業は現在では見られない、と。根拠は

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。-1Cor 13:10

<完全なもの=聖書>と何気に思い込んでいたのだ。その前には異言も預言も止む、とある。はて、現在それらは止んでいるだろうか?NO!・・・ということは、完全なものはまだ来ていない!それはおそらく次の経綸、千年期だろう。イエスが死と復活を経て昇天し、聖霊を注がれた現在の経綸は、イエスの御業よりもはるかに大いなる業が信じる者によってなされるのだ。イエスご自身がそう言われた:

よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。-John 14:12-14

理由は、イエスが御父の身元に行かれるから、だ。私たちに超能力があるとか、賜物がある・ないとかの問題ではない。この約束をマジで受け取るか、と主は事あるごとに迫って来られる。使徒の時代と現在にも切断はないのだ、と。もはや、どうにも逃げようがない主よ、あなたのお言葉は真実であり、そのとおりこの身になりますように!

それぞれの信仰に従って

主イエスと私たちの関係の原則は信仰。長血を患う女も、バルテマイも、らい病人も、百人隊長も、ツロ・フェニキアの女も、みな自身の信仰によって願うものを得た。あの富んだ若者のように、あるいは律法学者のように、どんなに自分の資質や善行や功績をアピールしても無意味。エターナルライフ(EL訳と略す)によるTRからの訳にはこうある:

さて、信仰は、望んでいることの実体、目に見えないことをあばくことです。-Heb 11:1

岩波訳では

信仰とは〔私たちが〕希求している事のであり、見えないものの証明である。

そしてこの「基」について注があり、1章3節で実体と訳した語とある。それは

彼は神の栄光の反映、〔神の〕実体の刻印であり-Heb 1:3

WOW! 信仰は実体、キリストが神の実体の刻印であるように、信仰は私たちの希求していることの実体なのだ!つまり信仰を持つことはその実体を持つことそのもの。今、目には見えないが、いずれあばかれる、すなわち時空間の中に出現する(証明)。またマルコ11:22では主はこう言われる:

するとイエス様は答えて彼らに言われた。「神信仰を持っていなさい。なぜなら、まことにあなたがたに言いますが、この山に、『取り上げられて、海に投げ込まれよ』と言い、自分の心で疑わず、自分が言っていることが起こっていると信じる人は、その人が言ったことがその人に成るからです。それゆえ、あなたがたに言います。あなたがたが祈って求めているどんなものでも、受け取っていると信じていなさい。そうすれば、それはあなたがたに成ります」。-Mark 11:22(EL訳)

信じるのではない、神信仰を持っていること。これはガラテヤ2:20でも言える。

今、肉にあって生きているのは、御子信仰によって生きるのである。-Gal 2:20(私訳)

永井訳ではこうある:

されどわれ今肉にて生くるは、我を愛し給い、且つ我がために己自らを付し給いし神の子信仰に在りて生くるなり。

これをある人はアセンディングとディセンディングと表現している。私たちはキリストと共に天の座についている。体は地上にあるが、霊はそこにいる。その臨在に入ることがアセンディング。そしてその霊的領域で祈りに対する神の回答を得る。それは幻を見たり、御言葉を聞いたりして、内側で分かる、「得た」と。それを地上に現出するように、イエスの名により語る、あるいは、命じる、のだ。イエスが癒しをなさる時にはすべて命じた。嵐に対しても。これがディセンディング。この過程はちょうどベテル(=神の家)で天使が梯子を上り下りしていたように。

このことをラザロの復活で主イエスは見事にデモンストレーションされた。彼はすでに父が願いを聞いて下さったことを把握し、ラザロに命じた。彼はラザロが出てくる前にそれ(=実体)を得ていたのだ!彼にとってはその実体をすでに得ていたから、後は命じるだけだったのだ。そこに切断はない!人の目(地的)にはラザロが物理的に死んでいた時点でも(事実)、主の(天的)信仰においてはラザロは生きていたのだ(真理)。父に願った時点から!なぜなら父は常に自分の願いを聞き入れて下さると知っていたから。その信仰を持つのがクリスチャンだと言うわけ。だから信じる者はご自分と同じことができる、と主は言われるのだ。WOW!

やっぱり、やばい・・・

あえて意味不明なことを

イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。-John 9:6-7

かつてはこの箇所の霊的意味は?・・・とかよくやっていたものだ。私もこの箇所を"解き明かし"ていた。いわく、イエスの口から出るものを土(人間の組成)と混ぜ合わせると霊的な目が開かれるのだ、とか・・・*1

今は、はっきり言う、別に霊的な意味などない!ただこの場合にイエスはこのような意味不明な、人間的にはまったく愚かな方法で盲人の目を開いたのだ。ただ、それだけ。大切な点は、彼の目が見えるようになったという事実だ。イエスはそのように聖霊によって促されて、御父の命に従っただけ。こうして神の国が現出された。THAT'S ALL!

1900年初頭にアズサ・ストリートで御霊の傾注が起きたとき、シーモアは集会中に箱を被っていたそうだ。聖霊の促しがあるまで、彼はその箱を被って祈っていたのだ。それに何の霊的意味があるのか?別にない。"説き明かし"も不要だ。ただその時、御霊が、そのように彼を導いただけ。だからかっこうだけ真似しても無意味だ。

ああ、私は聖書も神の力も知らず、欺かれていた(Matt 22:29)。今、はっきりとそう言える。神の国(God's Kingdom)はリアルかつタンジブルに触れることができるのだ。それが地上にそのままに現出するように祈れと主は言われた*2。だから祈る。ただそれだけ。IT'S VERY SIMPLE!

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。-Matt 6:9-10

SO BE IT!

*1:もちろんこう"解き明かす"のは個人の自由。が、イエス本人は驚くかも。大学入試の現代文に出題された文章の著者が問題を解こうとしたら、いわゆる大学の正解とまったく異なっていたケースがある。本人はそんなつもりはないとね・・・。
*2:これは再建主義でいう現在が千年期ということではない。先に書いた通り、現在は前味わい。しかし、その味わい方はそれぞれの信仰次第なのだ。

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