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モデルなき時代に

人間は狼に育てられると"狼"になってしまう。狼は人間が育てても狼のままなのだ。かくして人間が人になるためには、モデルが必要なのだ。昨今、教師も、政治屋も、経済人も、官僚も(※)、医師や学者も、言わずもがな牧師なども、若い連中が憧れる対象となり得ていない。つまりモデルなき時代。かろうじてスポーツ界が彼らの願望を投影し、その中にモデルを持ち得る世界と言える。

(※)厚労省の薬販売の省令の意図って何なのだ?薬剤師の家内も困惑しております。動機がどこにあるのか・・・。

かくして多くの若者はさ迷いの中にある。と言うより、すでにさ迷うことも、もがくことすらできないエネルギーの枯渇状態にある。飼い慣らされていると言うべきか。否、枯渇ではなく、あきらめによって一見表に現れないだけで、屈折した形で抑圧されていると言った方が正確か。だから事あれば、いじめや、有名人叩きやネットの煽りなどの屈折した形で発散される。そして何と今般教師を養成する京都教育大の学生が集団準強姦事件を起こした。いやはや。

ファイル 880-1.jpg

最近息子はチェ・ゲバラの映画を観たようだ。あまり思想とか政治などに関心もない彼だが、一言。「ゲバラはかっこいい、俺も革命に参加したい」と。おいおい、と思いつつ話を聞くと、元々デルトロのファンだったようだが、「ゲバラは単なるバカじゃないんだよな、歩きながら本を読んだり、医者で超インテリで、マスクも抜群にかっこいい。なのに大臣を辞めてコンゴやボリビヤに赴き、非業の死を選んだ。なんでだ」と言うわけだ。そしてうれしいことに「俺ももっと勉強するぞ」と。どうも彼もこう言った生き方と死に方に惹かれるものがあるようだ。

地上の人生で生死のモデルを持つことは実に幸いなのだ。私にも、道元、親鸞、沢庵、柳生但馬守、宮本武蔵、大石内蔵助、諸葛孔明、そして鈴木大拙・・・とその時々にモデルがいた。彼らにはあるひとつの共通項があり、もちろん彼らはある方の生と死の影に過ぎないのだ。実に信仰とは究極の生死のTHE・モデルを見出すことに他ならない。

自己の病理の極み

秋田の幼児殺人事件については、このブログでも畠山鈴香の犯人の可能性を指摘し、果たしてそのとおりであったわけだが、前にも指摘したが、ファイル 801-1.jpg彼女は人格障害の典型的症状を見せている。彼女はカウンセラーに対して、「どうして人を殺していけないのか分からないで苦しんでいる」と手紙を書いている。今回無期懲役の判決が出たが、「無期だけは嫌だ。いつまでがまんすればいいのか分からないから」と主張して、上告した(→記事)。

この言葉に彼女の病理の本質が浮き彫りになっている。つまり彼女の世界観は自己がすべてなのだ。これが人格障害者や病者の住む世界。座標軸はすべて自己にある。かくして彼らの内的世界モデルはすべて自己を中核とし、価値観や判断・行動基準はすべて自己にある。しかもその自己像もかなり歪んでおり、したがって世界モデルも歪む。この歪みが彼らの言動の理解不可解性を理由である。

どうもこういった人物が増加傾向にあることを感じているが、特にニッポンキリスト教界には多いことは前から指摘しているとおり。こういった人物が跋扈するこの業界は、実質的にすでに崩壊しているが、その事実から目をそむけ、表向きだけ懸命に飾り立てようとするわけ。今後の混乱と狂気にあってクリスチャンの篩い分けはさらに進む。牧師たちの悪事を告発する風潮もますます強まっているが、実は告発する側も同じ要素を持つ。馬○と阿○の・・・とっとっと、やめておきます。とにかく関わり合いになる事自体を避けるべく、ニッポンキリスト教という箱からのエクソダスをひたすらお勧めする次第。

※彼女のような状態を「自然の自明性の喪失」と呼ぶが、キリスト教によってMCされると同じことが起きる。当たり前が当たり前でなくなるのだ。かくしてすべて演技と虚勢になるわけ。

受験は一回性の美学だ!

ファイル 775-1.jpg今年の東大合格者に異変が。開成がなんと-53名。対して地方の公立高校が伸びているようだ。いわゆる学区制化で都立高校が地盤沈下し、「ゆとり教育」でMCされた地方の有力公立校も落ちぶれ、一部の私立中高一貫に集中していた様は、あたかも大駐車上完備の郊外のショッピングセンターに客が集中し、旧市街はシャッター通りと化している現状と同じ。かくして教育費のため、これまで東大に入るには親の年収が1,000万以上が条件だったが、これからは東大自身も年収400万未満家庭には学費免除もするそうだから、可能性が広がることになる。

私は受験地獄をくぐることは人間の成長にとって必須と考えている。今のニッポン、徴兵制もなく、自由や人権の美名の下、若者が放縦に陥っているのだ。彼らがチャレンジできるものが何もない国の将来は知れている。入試さえクリアすれば、どんな貧乏人も東大や医学部に入れる。仮にそれまでの内申書が悪くとも、前科があったとしても、東大など上位校はあまり関係ない。受験で勝負。私はこれを「受験は一回性の美学だ」と言っている。あたかも十字架でこれまでのすべてを書き換えることができるのと同じ。

ニッポンが立ち直るためには、私も前々から指摘している通り、また先の大前健一氏の指摘のとおり、ニートだのフリーターだのに働いていただくために300億も税金を使うのではなく、優位の20%のエリートを厚く遇することだ。2対8のパレートの法則はここでも生きている。そしてそのチャンスを広く開いておくことだ。負け犬社会にしてはならない。若者に、アメリカンドリームならぬ、ジャパン・ドリームを与えねば、ニッポンは確実に衰退する。そのひとつのルートが受験である。熱力学的にもエネルギーの出入りがなくなって平衡状態に達した系は「死」を迎える。社会経済的には共産主義はまさに平衡状態。ニッポンも悪平等と言う不平等を打破しないと、確実に「死」ぬ。

仕事と遊び

午前中はプールとサウナ。明日はゆっくりしたいため。昨日の筋トレで筋肉がかなり張っているため、サウナで十分温めてストレッチを入念に。思うに汗を流すことは実に体にイイ。老廃物が汗と共に流れ出て、皮膚の老化が防止できるし(若く見られる秘訣は顔の皮膚が張っていること)、代謝が活発になる。加齢臭も防止できる。メニュをイロイロ考えているのだが、250㍍をウォーキング、500㍍を泳ぎ、そして250㍍をウォーキングと。ちょうど腕と足がバランスよく使うことができ、またエアロビ的効果もある。ウォーキングもなるべく水の抵抗を作るように、両腕を帆のように広げ、背を反らし、腰を落として抵抗を作るわけ。これがかなり足に効く。かくして実に気持ちのイイ疲労感を味わうことができる。

午後は4月からの講義のシラバスの作成。最近はネットで入稿できるので、締め切り(今晩10時まで)ギリギリまでサボる習慣がついてしまった。前後期それぞれ14回分。果たしてどんな学生諸君と出会うことができるか。昨年も一昨年もかなり楽しくやれたが、今年もけっこう楽しみなのだ。まあ、私は講義もあまり仕事とは感じておらず、かなり楽しくやっている。こちらが楽しいと学生諸君も楽しいわけで、お互いにハッピーになれるわけだ。こうやって好きなことをしゃべって、そこそこの給料をいただいているわけで、感謝なことではある。

ファイル 723-1.jpg仕事と遊びの区別がない生き方をしている主にある友人Salt氏もかなり人生を楽しんでいるようだ(→彼の日記)。彼のアクティヴィティは私のそれをはるかに凌駕しており、小学校教員と共に、絵画、音楽、オブジェクト制作、ライブ、障害児教育、教育委員会、そしてクラス担任と・・・(→彼のBlog)。いやはやすごい。加えて教会でのメッセージ(→メッセージ集)。この15日にもライブの企画があるようだ。どこでもドアが欲しいのだが、ネットでストリーム・ライブ映像を流すとかできるとうれしいのだが・・・。ご紹介しておきます。

Live:風のメロジア Salt&Uribossa@magatama

追記:最近の密かな楽しみ。前に口の中でミルクチョコレートを熱いコーヒーで溶かしつつ飲むことは書いたが、最近見つけたのは、ブランデーとミルクチョコレートのハーモニーが絶妙なこと。何だかすごいリッチな味わいとなる次第。試してみて下さい^^

国の荒廃

昨日の映画を観ても分かることは、現代ニッポンはすでに制度改革などの次元ではなく、すべからく人心の荒廃によって、現状を呈していることが分かる。アメリカにより去勢され、その獣的価値観を刷り込まれ、「自由と人権」と言った錦の旗の下、結局人心は自分を中心とし、まさに

そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。

とあるとおり。すべての病理の出発点は「自分を愛すること」による。ニッポンキリスト教も例外ではなく、むしろ社会の病理がコンデンスされた形となっている。
続きを読む

男の色気

年内の講義が終了。ややほっとモード。で、今、Kojiさんのところでややナルちゃんモードの会話が進行中。私も林住期を迎えて、何故かモテるようになった。学食でも女子学生たちが私の方をちらちらしているので、ニコっと手を振ってあげると、「きゃー、手ぇ、ふってくれたぁ~」といったノリ。廊下を歩いていてもアチコチから声がかかる。一緒に写メやプリクラを撮って欲しい、とかのリクエストもあって、前にもここで秘蔵のプリクラ写真を公開したが、からかわれているのかしらん、とも思っている次第。まあ、最近は私も寒いオヤジ・ギャグを飛ばして、学生諸君が「ここで笑っていいのか?」みたいな表情をして、すべっても自分でフォローするといったわけで、そのせいかもしれない。彼らが哀れんでくれているのかも。

前にもジョージ・クルーニーについてはここでも触れたが、最近のHONDAのCMで彼が車から降りてガソリンを入れるシーンがあるが、何気なその振る舞いが何ともセクシー。男の私から見てもグッと来る。若い頃はなんとなくヤサ男であまりだったが、50近くになった彼には感じる。ファイル 663-1.jpgシャツの胸元を何気に開けて、ふりふりの様がビミョーに決まる。そして黒がカッコイイ。私もちょっとこれでやってみようかと・・・。このオーラはどこから生まれ出るのだろうか?

一方で日本のジュリーこと沢田研二は、この前新聞で見たのだが、完全なオッサン。顔の肌の張りも失せ、やつれている。私もジュリーには勝ったな、と思っているわけで、郷ひろみには負けたくないし、ジョージ・クルーニーにはかなわないと。よって、Dr.Lukeは<ジュリー以上・クルーニー未満・約郷ひろみ>と言う線で行こうかと勝手に思っておるところであります。

ファイル 663-3.jpgそしてまた私の理想のバディであるところのJCVD(ジャン=クロード・ヴァン・ダム)は、何と2000年代に入ってアクションもきつくなって、作品にも恵まれず、ギャラも急降下。その落ち目の"自分"を自分が演じる映画が公開される。題して"JCVD"。おいおい、私のイメージを壊さないで欲しいと思いつつ、この自虐的映画、ぜひ観てみたい。ファイル 663-4.jpgしかし彼も渋みが増して、顔はかなり魅力的になった感じだが。ややクリント・イーストウッド系になりつつあるかなとも。彼とメルリ・ストリープの『マジソン群の橋』も大人の恋愛を実に渋く描いていた。

どうも日本人の場合、若い頃二枚目は歳を取ると崩れる傾向がある。私の中学の同級生のK君も長身で、バレーの選手で、実に二枚目で、女子に人気があった。対する私は卓球部の補欠で、体育館の隅でカツンカツンやってさっぱりだったのだが、最近では私の方が勝っている次第。若い頃パッとしない三枚目、例えば、武田鉄也も『幸せの黄色いハンカチ』では単なる軽薄なチンピラだったのが、金八先生以降、顔も声も実に渋くなり、魅力が増した。ファイル 663-5.jpg実はあの石破氏も若い頃はけっこう美少年系だったのだ(写真は再々登場)。

ファイル 663-2.jpgこうして見ると顔は実に面白い。リンカーンは男は40になったら顔に責任を持てと言ったそうだが、顔にはその人の生き様が刻まれてしまうのだ。ちなみに英国のコリン・アーカートもかなりイイ顔と声をしている。

で、ちょっとパワーポイントの実習用として作ったファイルを上映してみましょう。題して「花の同級生」(画面をクリックしてください)。

閉塞社会の病理

秋葉アキバ事件の犯人は、おとなしくて、進学校出身、派遣社員として働いていたとか。職場の評価は、キレやすい性格と。頭がよいというか、知性はそれなりに備え、普段はおとなしくて、しかし何を考えているか分からず、ある面不気味でもあり、些細なことでキレル人々。私もニッポンキリスト教と関わってしばしば遭遇し、私自身も脅威を覚えた場面もあった。とにかく一度キレルと、まさに豹変と言う単語が相応しい。誰でも良かった、人生無意味なので、人を殺したかった・・・。ちなみにこの人物はかの太宰治の出身の青森高校卒業。太宰は自殺という形で、生のナンセンスを終えたが、この犯人は他殺に向かった。何が岐路になったのだろう?

派遣社員と言う先が見えないシゴトで人生の狭い迷路(ある意味"蛸壺")にはまり、ついに堪忍袋の尾がキレたのだろうか。昨年は私の予言どおり、佐世保で閉鎖社会ニッポンキリスト教の病理を象徴する銃乱射事件があった。今回はその世の中版と言えるだろう。共に閉鎖社会で家畜化されているニッポンの病理の象徴的事件ではある。今後、類似事件が連鎖する可能性が高い、皆さまも十分なる注意を。

・参考:ストーカーの知識

追記:秋葉原はアキバと表記した方がよいらしい。要するに私の知っている世界ではなくなってしまった(→記事)。犯人は携帯BBSにリアルタイムの書き込みをしていたようだ(→記事)。ここで分かるのは彼の屈折した自己顕示欲。日ごろよほどの自己疎外感を抱いていたのだろう。事件当日も「道路が渋滞で、ここでも俺の邪魔をする」などと書いている。

こういった人物の鬱屈したネガティブなエネルギーがネットを介して増長され、ある閾値を越えると実行行為に入る。ネット規制については国が関与すべきではないとかの声もあるが、私は現状の無法地帯化した状況には国の関与も止むなしと考えている。「2ちゃんねる」をはじめとするこの種の世界で、病者たちが妄想を共有し、フェイクの世界が構築されていく過程は、山谷さんvsCTのケースを見てもよく分かる。彼らの屈折し病んだ自我の表現媒体と化している。まさに「律法は罪の力である」が、ネットは病者の力である。現状の放置によって被害者は確実に増えることであろう。

男たちよ、ダイエットなんかやめて、腕立て伏せをしろ!

ファイル 336-1.jpgファイル 336-2.jpgと題する対談記事が『サンデー毎日5月4・11号』にあった。あの作家椎名誠氏(←)と気鋭の脳科学者茂木健一郎氏(→)。このふたり写真を見ると典型的なおじさんで、よく似ている。椎名さんはけっこう締まっているが、茂木さんはかなりメタボタイプであろうかと。で、こう言っている:

椎名:良くないのは、ジムのトレーニングマシンだとか、通販で売ってるわけのわかなんない機械で筋トレするヤツですね。機械の上で身体を動かしていると、人間が遊ばされているような感じがぬぐえない。対等じゃないというかね。・・・ひとつはマシンを使うことの異物感かな。・・・肉体を使う競技はすべて原点は命がけのものだったはず。そこへいくとマシンを使って安全な環境で筋肉を鍛えるのなんて、なんか情けないようねぇ。ジムに通って、猫一匹も捕まえられないでしょ。

茂木:実は僕も、だいぶ前にジムに通ってたことがあるんですけど。・・・すぐやめましたけどね(笑)。そこで筋肉を鍛えている人たちの顔が、よろしくないんですよ。木こりの人が大木を切るために腕や腰に筋肉をつけてゆく姿は美しいんだけど、ふだん何の命の危険にもさらされていないサラリーマンが、近代的マシンでぶよぶよ筋肉太りしている姿は、少しもカッコ良くなかった。・・・筋トレがある種、ファッション化していますよね。

椎名:嘆かわしいよね。マサイ族の肉体を見なさい。彼らは野生の象に石を投げてが逃げるっていう、都会人に考えられないリッチな遊びをして暮らしている。そういう豊かな環境で歴史を築いた人たちと接したら、マシンで作った筋肉なんて、見られたもんじゃないですよ。

う~ん、まさに私に当てはまるが、私は茂木さんよりはカッコいいと思うし、そもそも筋トレは猫を捕まえるためでも、象に石を投げるためでもないのだが・・・。

ビョウキ(Sicko)の定義

下で山谷さんがウィットネス・リー神学の問題点を指摘して下さっています。個々の実に愚かな問いかけに誠実に回答される少佐の実直さが分かりますね。

さて、私たちサイエンティストの視点からすると、

神性と人性を混ぜ合わせて、人が神になる
ここに「混ぜ合わせ(ミングリング)」とは、水とお茶をそれぞれの性質を保ったまま、混ぜ合わせることで、神性と人性も性質を変えずそのままに混ぜ合わせること。
応答:メタ(記述)言語と被定義語のランクが区別されていません。例えれば、辞書で「A」を引いたら、「Bを見よ」とあり、「B」を引いたら、「Aを見よ」とあるようなもの。分かりますか?

カルヴァンとアルミニウスの論争:決定論か偶然論か?
応答:あのね、解像度1㍍のレンズでどうやって1㌢メートルの物体を観察・記述できるわけ?

みどりごは父神であり、キリストは御霊になった
なぜなら、相互に内住しているから。
応答:相互に内住できるのは、父が子でなく、子が御霊でないから可能なのでしょう?A=BかつB=Cときて、C=Dとするようなもの。

と言うわけで、これらの命題自身に内在するナンセンスさが分かった時点で、私たちはそれ以上関わりません。皆さんは、例えば、

・「-1=1⇒(-1)^2=1」
とか
・「2=1⇒2^2=1」
(^は二乗のこと)

と言う命題をどう判断しますか?これらを「間違っている」と言う人とは私たちはそもそも論じ合う意義を感じないわけです。何を信じるのも、まあ、ご勝手にとなるでしょうか(笑)。

ここで「メタ」の視点が必要になります。今、

・「x=1⇒x^2=1」・・・※

と言う命題があったとします。これは正しいですね?そこでこれを個物xの"関数"と見て

・f(x):=

 x→f(x)|x=1→x^2=1
 }

と定義します。そしてこの値域は、{0,1}とするわけですね。

さて、ここでxに-1を代入してみましょう。関数f(x)はどんな値を返すでしょうか?※が正しいのですから、f(-1)=1です!同様にf(2)=1なのです。かくして上の二つの命題は真なのですね。

こういう視点を「メタの視点」と言います。個々の命題の中に飲み込まれるのではなく、それをより高度の次元から見るわけです。こうしてみると、「ミングリング」も「カルヴァンvsアルミウス」も「父=子、子=御霊」も論じるに値しない事が容易に分かるわけです。

私が定義する「ビョウキ」とは、「メタの視点をもてない精神状態」と言えます。自分の感情に飲み込まれた人が鬱病患者、自分の妄想や幻覚に飲み込まれた人が分裂病(統合失調症)。そして再建主義に飲み込まれた人、人の神化に飲み込まれた人、ウィットネス・リーに飲み込まれた人、ベニー・ヒンだのチョウ・ヨンギに飲み込まれた人・・・。このニッポンキリスト教にはこういった病理標本に事欠きません。

サイエンティストは常に自分のスタンスに飲み込まれないように、自己確認を行います。そこから、例えば観測の限界を定式化したハイゼンベルグの不確定性原理、偶然と必然の分離限界を定式化したカオスの理論、論理構造そもものに矛盾があり得ることを指摘したゲーデルの不完全性定理などが分かってきたわけです。

ウイットネス・リーに飲み込まれた人々とダビデ・張に飲み込まれた人々にはどうも親和性があるようですが、共にメタ視点を失っているビョウキ(Sicko)であることは間違いありません。そして彼らにとって最も居心地の良い場が「2ちゃんねる」あたりなのでしょう。そこの"世論"が一般世論であると自己内的世界に飲み込まれているわけです。ほくそえんでいるのは西村博之氏でしょう。かくして彼らがそこで主張する程に、LCもCTもおかしいことが分かるわけです。倒錯とはメタ視点の欠如です。

改めて、山谷少佐の実直さには敬意を表したいと思います。

参考:科学と信仰(→http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/sciandfaith.html

付録週刊東洋経済誌にあの「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏の論考があった。「専門家にはなぜ偏屈な人が多いのか」と言うタイトルだが、彼は同志社大の神学修士を持っているが、専門家の視野狭窄、つまり「飲み込まれ現象」について、こう言っている:「認識論哲学の入り口を勉強すべし」と。要するにメタの視点を持てと言うことだ。彼の著作はできるだけ追いかけているが、「神学」をきちんと相対化する視点を持っており、かなり興味深い言説が多い。

亀田家の病理

彼らの特徴として、父親と息子たちの結びつきの強さが異常であることは容易に見て取れる。普通この年の息子は父親と対立するか、敬して遠ざかるもので、ひたすら父親を乗り越えるために、社会的に自分を確立する努力をするものだ。この父と息子の対立をエディプス葛藤と称する。ギリシャ神話において、エディプスは父親を殺して母親と結ばれたのだが、その神話の根底にある精神病理にフロイトはその名をつけた。

男児は幼児期に人生で最初に出会う異性である母親と擬似恋愛に陥る。が、そこには父親と言う強力なライバルが控えている。ここで男児は深刻な三角関係に陥るわけ。この際、父親に対する敵意とか嫉妬を強く覚えるほどに、投影の機制によって、父親から報復されることを恐れる。しかも彼らは世には"ない人"がいることを知っている。つまり"去勢された人"だ。こうして自分も父親に取られてしまうのではないかと恐れるわけ。これを去勢不安と言い、男性は基本的にこの恐れを持ち続ける。逆にこれが在るほどに、自分を律し、社会的な存在であり続けることができる。男はリストラされたり、メンツを失うとボロボロになるが、これは去勢されまいとする頑張りのツッカエ棒がはずされることにより、かくして時には自殺もする。

さて、この去勢不安を回避するために、男児は父親と妥協策を取る。これが父親との同一視であり、自分はついている者として、父の仲間だぞと言う意識によって、自分のジェンダー(社会的性同一性)を確立していく。この時に父の価値観を取り込むことにより、いわゆる社会規範を確立し、社会化していく。こうして家庭の中でのポジション、さらには社会での地位を見出していく。

しかしこの葛藤は無意識化されて、ずっと続く。これが思春期ごろになると、体力も知力も父親を凌駕するようになるにつれ、第二次反抗期として、父親との対立を生む。普通はこの葛藤が社会化されたポジティヴな形で発揮され、父親を乗り越える原動力となる。こうして男は自立していく。

さて、亀田家の場合、この去勢不安が社会化された形ではなく、かなり原初的な形で残存し、しかも父子癒着によって、息子たちは父との葛藤は抑圧され、社会あるいは世間に向かっているのだ。彼らの挑発的言動はすべてこの去勢不安の裏返しであり、その外なる表現から去勢不安の強さが読み取れる。

父自身が複雑な家庭環境で育ったらしいが、彼も自分の父との葛藤を社会化しておらず、その去勢不安を社会との闘いに変形して表現している。「俺たちは負けたら後がないんじゃっ!」はまさに彼の生の去勢不安の現れである。今回のその言葉どおりになったわけだが(去勢されてしまったのだ)、普通ならば、負けても社会的立場は失うことはない。なぜなら社会化されているからだ。しかし亀田父は違った。

かくして絶えず社会あるいは世間を擬似的な父として、それと対立し、エディプス葛藤を大人になるまで持ち越してしまっているわけ。これが彼らの幼稚な言動のある種の真剣さと滑稽さの原因である。この親子はまさにエディプス的カプセルの中で生きているわけで、これがために世間も勝てば良し、負ければ世間の大衆サディズムが発動されて、居場所すらも奪ってしまう。

今後、彼らが再起するためには、この生の去勢不安を社会化することが重要であり、ある意味去勢されてしまった分、第三者が冷静にこの成長過程を指導してあげる必要があろう。根は純情なのだから、まだ十分に可能性はある。そのためには、世間に変わって、彼らの父親役を引き受け、しかもその関係の中で社会規範を彼らに植え付けることができる人物が望まれる。人生の酸いも甘いも知っているガッツ石松とか渡嘉敷とかがぜひ面倒見てあげてほしいと思うのだが。

人間、その成長過程のそれぞれの時期に、それぞれの内的作業を適切に行っていないと、トンでもないことになることが今回の騒動でよく分かるのだ。で、ニッポンキリスト教界にもこの種のカプセルの住人がけっこう多いと思われるが、どうだろうか?

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