鏡像原理の罠
まずはこちらのクリップを見て欲しい。神による奇跡が医学的証拠に基づいて証されている。中にはオペで切除した3フィートの大腸が1年後に再生していたことを、奇跡だと外科医が証言している。外科医自身がオペ室でタンジブルな(手で触れる)臨在を感じたとも。
Pr. Donは言う、神の全能性は誰も信じているだろうが、神のWillingnessに対する信仰が欠如しているのだ、と。先の息子が悪霊に憑かれていた父親とも共通する。あるいは「お心でしたらきよめていただけるのですが・・・」と主に求めたらい病人のケースと同じだ(Matt 8:2)。この時、主は明確に言われた、"I Will"と。これが神の心なのだ。
しかし、しばしばわれわれはそのことに確信を持てないことがある。果たして主は自分の場合は、あるいはこの人の場合はどうだろうか・・・と。聖書には「イエスは昨日も、今日も、永遠に変わらない」と書いてあるにもかかわらずだ(Heb 13:8)。これはすなわち、自分の鏡像を見ているからにほかならない。自分の裁く秤で自分も裁かれることは霊的な初歩的原則。同じように、主の心を疑うときには、実は自分の心を見てしまっている。そう、自分にWillingnessが欠如しているのだ。
あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。-Ps 18:25-26
もちろん神ご自身が「ひがんだ方(あるいは曲がった方)」になるのではない。人は自分の鏡像を神の内に見ているのだ。よく、今日、神は癒しはなさらないとか、癒しとかしるし・不思議などは浅薄なものとかする向きがある。それを投影して見ているのだ。だから信仰を使うことができない。世の人がよく言うセリフ、「信じたくらいで楽になれれば苦労はない!」も同じ。だから彼らは救われないのだ。もっと言えば、彼らは自分を神としている!彼らに尋ねたい、あなたは何をもっとも重要視し、何を求めているのか?と。
神は病んだ人にはあわれみ(同情ではない!)を覚えるお方。あわれみはその人をその状態から引き出す。イエスのあわれみは常にわれわれを神の国にふさわしくないモノや状態から解放するのだ。もし、それが信じられないのであれば、神に問題があるのではなく、あなたそして私の心にあることを知るべきなのだ。神は常に"I AM"にして"I WILL"なる方なのだから。