サブスタンスを操作する醍醐味
- 2015/05/06 09:45
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:サブスタンス, 神の国
2日ほど諏訪に戻っていた。実家の片付けと整備を行うため。横浜のマンションは抵当権も外れたので永住するつもりだが、こちらだけではややさみしい。なんとか別荘として使いたいというわけだ。若き頃は室生犀星状態だった私も、この年になると故郷がけっこう沁みるものだ*1。おいおい整えていこう。
で、来年はまた御柱祭。諏訪大社にはもうひとつ御頭祭なるものがある。神官が子供を神に捧げる直前、鹿が代わりに現れて、子供は助かるのだ。そう、アブラハムのイサク奉献にそっくり。その行事が行われる山も守屋山(モリヤ山)。諏訪大社は古事記で、出雲からタケミカズチに追われたタテミナカタの神が逃げてきた場とされているが、実はミシャクチ(あるいはミシャクジ)信仰が土着らしい。それもへブル語で読むと面白い。ミ・イサク・チと読めるのだ。ミは「から」、チは接頭辞で、イサクからの神、つまりイサク神信仰だ。諏訪原人にはトンデモだと一笑にふされるのだが・・・。
* * *
クリスチャンの醍醐味に最近目覚めつつある。それは祈りによりサブスタンスを操作すること。人類は電波をマクスウェルの法則に従って自由に制御できる。電波は見えないし、触れないし、五感では感知できないが、音、映像、熱、光・・・と姿を変えて、この時空間に現出する。これをframe化という(Heb 11:3)。同じように霊的世界の法則をつかむと、そのサブスタンスを操作できるようになる。たとえばイエスはラザロの死を聞いたとき、彼は眠っているだけだと言われた。が、弟子の指摘を受けると、いや、死んだのだと言われ、あえて4日待って起こしに行った。彼の霊の中ではすでにラザロは蘇っていたのだ。イエスはそのサブスタンスを明確に掴み、見ていた。イエスにとっては霊的サブスタンスの方が物理的死よりもリアルだったのだ。かくしてイエスは死を支配、統治した。
クリスチャンの任務はいのちにあるキリストと共なる統治(Dominion)である(Rom 5:17)。そもそも、地とあらゆる生物を治めよ、と神は言われた(Gen 1:28)。地とは物質的世界のこと。われわれはこの物質的世界を支配できるのだ。イエスは男だけで五千人を五つのパンと二匹の魚で心ゆくまで満腹させた。嵐と波を叱り、静められた。水の上を歩いた。すべて彼はこの物理法則を超える世界を証明したのだ。天が裂かれ、神の国がこの物理的時空間に介入していることをデモンストレーションしたのだ。信じる者はイエスと同じ業、否、それ以上の業ができるとイエスは言われた(John 14:12)。これ、もちろん私たちがいくら踏ん張っても無理。鍵は何か。
神のレーマには不可能なことは何もない。-Luke 1:37(原語)
信仰はレーマを聞くことから生まれる(Rom 10:17)。敵の策略はクリスチャンをしてこの霊的次元に関して無関心あるいは無力さに閉じ込めることだ。電波を制御するマクスウェルの法則を知らなければ、テレビもケイタイも実現しない。つまり電波が実体化されないのだ。同じようにクリスチャンの目から霊的法則を封じ込めれば、霊のサブスタンスは実体化されない。つまり天の御心が地にならないのだ!かくしてクリスチャンをして五感の世界に限局化させておくこと、これが敵のもっとも有効な策なのだ。目先の楽しみや自己実現の追求に落ちるとき、クリスチャンは敵にとって無力化される。
もし私たちが霊的サブスタンスの扱い方を100%把握し、習熟したら、完全にイエスと同じことができるのだ。地上で父の御心を100%実現できる!これに目覚めることをサタンはもっとも恐れている。われわれはすでに天に座し(Eph 1:20)、王とされているのだ(Rev 1:6)。われわれの本質は新創造、新しい生命体なのだ(2Cor 5:17)。このアイデンティティーに気づくとき、私たちの生き方は根底からひっくり返される!
*1:なんというか、時間がまったり流れ、空気がゆるい。自然も豊かで、かなりいい地であると最近はとみに感じている。