日本語聖書の呪縛から解かれよ!
- 2015/10/22 21:36
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:ニッポンキリスト教, サブスタンス
最近、つくづく感じているのは、なぜニッポンキリスト教が生まれるのか。それは言語の問題であるということ。すでに何度も繰り返しているが、信仰(ピスティス)を「信じて仰ぐ」と理解するならば、それで真理から外れる。これがゆえに、「私は信じます、信じます」と念仏を唱えることを信仰と思い込み、しばしば神に裏切られたとこれまた勝手に落ち込むのだ。信仰は本来「信」でよい。その定義はヘブル書にある。
真(ピスティス)は願っている事柄の実体(サブスタンス)であり、見ていないものの立証である(私訳)-Heb 11:1
このサブスタンスは永遠の霊の領域に存在するが、それはつねに今(NOW)の領域である。神はI AMだから。永遠の霊の領域とは神の領域と言っても良い。そのサブスタンスにタッチし、それをこの物理的時空間に現出させることが立証である。ウォッチマン・ニーは最初の段階を霊的にゲットする、次の段階を物理的にゲットすると言う。これは信じて仰ぐことなどではない。今、この文章を読んでいるあなたの目の前のディスプレイが、ある、のと同じように、信も、ある、のだ。それは、今、ここ、におけるリアリティー。ARE YOU WITH ME? 神はいつか私を癒して下さるだろう、は必ず裏切られる。それは信ではないから!あえて言えば、信心かもしれない。こうして先のS氏のように「癒されないのは信仰がないというのか」と抗議するわけ。かくして神を告発する。
また祈りという単語も大いに問題だ。あらゆる宗教で祈りという行為を行う。では、われわれの祈りと彼らの祈りはどう違うの?祈りがしばしば、神の同情を引き、嘆願、つぶやき、言い訳、あるいは逆に私は一人前の信仰者であることの証明のためのデモンストレーションとなっている。もちろん、神の前に私たちの心を真実に注ぎ出すことは重要。が、祈りのそもそもの意味は何か?ヘブル語では"palal"、原義は"to judge"、つまり「裁定すること」だ。祈りは裁定、つまり、永遠の今の領域のサブスタンスを見極めることなのだ。私たちのアクティベーションされた霊は永遠の今の霊的領域にポータルとして開かれている。神の国が私たちの内側から外側へと流れ出る、いわばホワイトホールなのだ。その領域は時間と空間を越える。だから二千年前の事実が今の私のリアリティーとなる。十字架の事実は今、ここにおける霊的サブスタンス、それは信の祈りによってリアリティーとされる。
先に紹介した、Renny Mcleanのメッセでも、たとえば「アーメン」の意味は
'âman
aw-man'
A primitive root; properly to build up or support; to foster as a parent or nurse; figuratively to render (or be) firm or faithful, to trust or believe, to be permanent or quiet; morally to be true or certain; once (in Isa_30:21; by interchange for H541) to go to the right hand: - hence assurance, believe, bring up, establish, + fail, be faithful (of long continuance, stedfast, sure, surely, trusty, verified), nurse, (-ing father), (put), trust, turn to the right.
つまり、支える・守る・真実・確実さ・親の保護などの意味であり、それは神の名でもある。事実、イエスは「アーメンたる方」と言われている(Rev 3:14)。栄光はカボド、その意味は重さ。臨在はパニームで、顔の意味(神の顔のペニエルと同じ)。日本語訳は真理を記述するためには最も不適切な言語であると常々言っているが、改めてまことにそのとおり。日本語のマインドによる世界観から解かれよ。聖化にしてもそれを日本語で考えてはならない。それは髪を七三に分けて、きよく・正しく・美しく、三浦綾子夫妻のように生きること・・・ではないのだ!それは生命現象だから。聖書は倫理や道徳の規範の書物ではない。生命現象を語る書なのだ。要するに生物学の本。聖化を倫理や道徳と絡めるといわゆるクルシチャンが誕生する。すべては新しく与えられる生命現象として味わうのだ。
ちなみにこちらの多分ニューエイジ系の方の文章をご覧下さい。あれ?私の新著とそっくり!Dr.Lukeもついにニューエイジに走ったか・・・との非難もあると思っておるところ。しかるにこの方はこう言っている:「神というエネルギー」と。つまり、人格を有した、まして三つの人格(Persons)を有するひとりの神の第二位(神のサブスタンス)が肉体を取られたなどはとても理解されないところだ。ニューエイジはキリスト教よりもよほどスピリチュアルな現象あるいは世界を知っている。が、イエスという唯一のポータルを通ってではないのだ。ここにわれわれとの本質的相違があるのだ。神のバイブレーション、波動と共鳴すること。神の霊の場に調和すること。そのためにはマインドがトランスフォームされる必要があること。この方も言っている。
しかし、われわれの場合、これらの霊的経験はすべてイエスなるゲートあるいはポータルを通してである。これがクリスチャン経験。すべてはキリストのうちなる現象であり、経験である。残念ながら、霊的領域にタッチすることにおいてはニューエイジャーの方が慣れている。ニッポンキリスト教神学のガリガリオツムには私の新著の内容はトンデモ系であろう。だが、ここの読者諸氏はすでに理解されていると思う。ジューシーな肉汁の抜けたスジ張ったステーキはいい加減飽き飽きだと。私は正直言うと、「信仰」とか「祈り」とか「聖化」とかいう用語を使いたくない。そのような日本語の単語を超えたサブスタンスに直接タッチし、それを今、ここに現出させるだけ。『スターウォーズ』や『ルーシー』に対抗するわけではないが、繰り返すが、、「フェイス・アウェイクン」だ。クリスチャンよ、自分が何者であり、どこにおる者か、そして何をなし得るか、今、ここで覚醒せよ!