聖霊は十字架により働かれる

 

昨今のニッポンキリスト教、一方に「現代では聖霊は働かない」とするグループがあり、他方にヒステリックな「聖霊様、聖霊様」なる叫び声。これには少々辟易だが、何か空疎に空回りしている感がある。ワーシップもセルフ中心で、盛り上げんかなの雰囲気。あれは疲れる。要するに彼らの霊的アトモスフィアがあまりにも軽いのだ。

聖霊は必ず十字架と共に働かれる。十字架をスルーした「聖霊現象」は偽りであると知るべきだ。十字架による聖霊の臨在はある種の重さがある。栄光とはカボド、その意味は重さ。ヘヴィーなのだ。そもそも臨在は単に気持ち良くなったりすることではない。それはパニーム、神の顔。神の七つの目、七つの霊で見つめられることなのだ。その視線を感じるならばセルフは消失する。

今日、あまりにも軽く聖霊を扱い過ぎている。あたかも自分の願望を実現するためのツールであるかのように。

追記:ほんとはね、聖霊を扱うのではなく、聖霊に扱われるが正解。主客逆転しているのだ。

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