「握りしめるな」と再建主義者

これもまことに同意。ウォッチマン・ニーは言っている、「クリスチャンはどれだけ得たかではなく、どれだけ捨てたかによって評価される」と。握りしめると人は卑しくなる。禅では喜捨という。清々しい生き方。主も言われる:

自分の魂のいのち(原語)を得ようとするならば失い、わたしのために失うならば得る。-Luke 9:24

私は再建主義には違和感を覚えるし、富井氏の言う悪魔の教えであるプレ・ミレの立場であり、富井氏からは「異端・カルト断罪」を受けている身だが、共鳴できる点は大いに評価していることは何度も述べている。捨てれば霊的感性も大いに高まるのだ。

引用

tomi 2017/12/25(月) 10:27

握りしめるな

聖書は「問題が起きたら、まず主のもとに行け」と教えている。

モーセは、民衆の反抗にあうと、まず会見の幕屋に行って、神の御許にひれ伏し、御言葉を待った。

神の御許に行かず、直接に民衆に対峙したときに失敗した。

メリバの泉において、神の御心をうかがわずに、直接岩を打ってしまった。

この罪により、約束の地に入ることは許されなかった。

支援を求めるときに、人に直接向かうと失敗する。

たとえば、無心をするときに、直接人に向かうと、相手にサタンが入り、利用されることになる場合がある。

まず神に祈って「必要があります!」と訴えることである。

その後に、神が送ってくださる人から借りれば問題はない。

「あの人がいないと僕はやっていけない」という心の持ち主は、すでに、サタンの餌食になっている。

サタンはその頼られる人を通じて、その人をコントロールする。

正しい心の持ち方は、

「神様、私はあなたにのみ依存します。あの人がいなくなってもかまいません。どうか私が執着しないように心を守ってください」と。

そうすれば、神は、その相手を「正常な形で」あなたに送られるだろう。

何かを握りしめている人は、偶像礼拝の罪を犯している。

それを神に明け渡すとその罪から解放される。

いつでも「私にとって、あなたに捧げられないものは何一つありません」と告白することである。

握りしめているものが多くなればなるほど、フジツボがびっしりついた船のように、霊的な動作と感性が鈍くなる。

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