エウセベイアの奥義とは肉(Soul-Body)において現れるI-AM(1テモテ3:16)

この詩編の御言葉はジーザスご自身も引用されている(John 10:34-36)。そして実に理解困難な聖句である。神の言葉を委ねられた者たちは神々である。神々?! はあ? 聖書は一神教でしょ? こう考えるであろうのが白いキリスト教神学のマトリックスだ。

さて―

神に愛されている者として、神に倣う者となりなさい。-Eph 5:1

この「倣う/imitate」と訳された単語の意味が重要であることを前から指摘している。すなわち猿が人間を真似ることがナンセンスであるように、人が神に倣うこともナンセンスである。この原語を見ると”mimétés”、語源は”mimeomai”。その意味は”imitate”あるいは”emulate”。ここでは前者よりも後者がよい。神をエミュレートせよ(Eph 5:1)。WindowsマシンにおいてMacOSを走らせることをエミュレーションという。ハードはWindowsだが、その機能・性質・属性、すなわちスペックはMacだ。

神は肉において現れる-

敬虔(eusebeia)の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ・・・―1Tim 3:16

ジーザスはこれを初穂としてデモンストレーションされた。そしてわれわれ[1] … Continue readingも長兄ジーザスに従う者として同じことを行う(John 14:12)。そのためにわれわれをキリストと共にエロヒムのいのちにインプラントし、ご自身がわれわれを通してマニフェストする。

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。-Col 3:3

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。-John 15:26-27

すなわちわれわれはエロヒム属であり、YHWHの家族なのだ。

【賛歌。アサフの詩。】エロヒムはエルの会議の中に立ち、エロヒムの間で裁きを行われる。・・・わたしは言った「あなたたちはエロヒムなのか。皆、エルヨンの子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。エロヒムよ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。-Ps 82:1-8

ジーザスご自身がここを引いておられる(John 10:34-36)。くれぐれも聖書の真理を日本語で考えることなかれ。それはニッポンキリスト教というマトリックスを生み出す。エロヒムとは霊的生命体の総称である。その最も高きエロヒムがYHWH―エロヒムを神、YHWHを(LORD)と訳すのがトリックである―この方が創造主であり、父・子・聖霊のホモウシオスにして三つの神格にいますいわゆる神(GOD)である[2]“GOD”なる単語も元々はバビロニアの神の固有名詞であったことをDr.Heiserは指摘している。

この6節についてはHebraic Root Bibleの注が次のように述べている。

It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H’Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim, Joh 10:34, Rom 8:14-17.

つまりわれわれエロヒムから生み出された者たちはエロヒム属のYHWH家のメンバーとされるのだ。ちょうどFrancis Frangipaneが同じことを説いているので紹介しておく。これを外したら、キリストが内に生きることも単なる宗教と化す、と。

You see, there is not a different Jesus in Heaven than He Who dwells in us. This means that the Spirit of Jesus Christ, the lover and redeemer of mankind, reveals Himself through us. This unveiling of Christ in us is the only thing that satisfies our quest to know the substance of God. Anything less than, or other than, Christ living in us is mere religion.

お分かりだろうか、天にいますジーザスと私たちのうちに住まわれるジーザスには何らの相違もない。これは、愛であり人類の贖い主であるジーザス・クライストの御霊が彼ご自身を私たちを通して現わされることを意味する。この私たちの内なるキリストの現れこそが神のサブスタンスを知りたいという私たちの探究心を満足させる。うちに生きるキリスト、これ以下のものあるいはこれ以外のものは、単なる宗教に過ぎない。(強調はDr.Lukeによる)

聖書は宗教の書でもなく、キリスト教の教典でもなく、倫理道徳の書でもなく、人生論の書でもない。それは生命現象の書なのだ。

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References

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1 私はジーザスのユニーク性を否定していない。神の独り子あるロゴスは第二神格、その方が肉体を取られた存在がジーザス。これを二性一人格論と呼ぶ。ジーザスは元より神の独り子であるが、われわれはアダム系において死に、キリスト系において復活しジーザスと結合された者、ニュークリーチャーとしてYHWHを内に宿し、その方をボディと魂を通して現わす存在である。だからジーザスはわれわれを兄弟と呼ばれる。すなわちわれわれは人格においてはもちろん異なるが、霊的生命体として同じDNAを共有する存在である。
2 “GOD”なる単語も元々はバビロニアの神の固有名詞であったことをDr.Heiserは指摘している。

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