全聖書啓示のエッセンス=神のオイコノミア=

神の御計画とは

神は人類が地獄に堕ちるのを憐れんで身代わりに御子を送り、それを信じるならば死後天国に行ける・・・と言ったニッポンキリスト教の”福音”。それはその通りであるが、極々入り口に過ぎない。神はもっと遠大かつ深淵な御計画をお持ちである。

それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。-Eph 1:10

わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。 -Eph 3:11

果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。-1Tim 1:4

これらの「計画」と訳された単語は”oikonomia”、つまりエコノミー(経済)の語源だ[1]あえて言えば、神の経世済民である。。経済とは財の集積と分配のシステムであり、地上には共産主義システムや自由市場システムがあることは言うまでもない。その本質は分配あるいは分与である。特に聖書で語る「エコノミー」の原義は「神の家庭における配剤・管理、すなわち神の『家政』」の意味である。神は単に哀れな罪人を地獄行きから救うだけではなく、もっと深い関係、すなわちいのちの配剤・分与によるいのちの関係を得たいのである。

神の当初の意図は、エデンにいのちの木を置かれたことで分かるとおり、非受造の神のいのち(Zoe)を、人が自らの意志によって摂り込み、霊に内住させることだった。創世記と黙示録は「いのちの路線」でつながるが、その間に人は「いのちの路線」から「善悪を知る路線」に落ち、いのちから分離された(Gen 3:24)。これがいわゆる堕落である。

対して神の対応としては「善悪を知る路線」から「いのちの路線」への回復であり、これがいわゆる贖いである[2] … Continue reading。元々アブラハムに対して与えられた約束は単数形の種(=キリスト)であり(Gal 3:16)、「善悪の路線」においてその430年後にモーセによって付加的にキリストへの養育係としての律法が入り(Gal 3:17;3:24)、ついに時至りキリストによって恵みと真理(リアリティ)がもたらされ(John 1:17)、「いのちの路線」へと回復される(John 14:6;Rom 5:15-21)。

キリストは単に私たちの身代わりではなく(☞1ペテロ3:18は単なる「身代わり」を意味するのか?)、私たちにご自分のいのちを分与(Dispense)するために(John 1:10)、一粒の麦としてご自分を裂かれた(John 12:24)。アダム系の存在が十字架においてキリストと共に死に、キリストと共なる復活においてキリスト系の存在として、一粒の麦であるキリストが解き放ったいのちを内在化した存在がエクレシアである(John 20:22)[3] … Continue reading

すなわちキリストと共なる死と復活を経ることなくしてエクレシアの実質(サブスタンス)はあり得ない。こうして神のいのち(Zoe)は、現在は神の神殿である私たちエクレシアにおいて内在化され、黙示録では神と人が共に住まう新エルサレムとして顕在化する。こうしてご自身のいのち(Zoe)を増殖する神の当初の意図が成就する。ここで新エルサレムとは神のいのちを内に宿し、さらに外に輝かす究極的な信者の集合体に他ならない(前田護郎訳脚注)。

こうして神は人の失敗を予知し、それをも用いてご自身の愛と義を証しされた。これが時系列に現出した歴史的キリストの十字架であり、それはすでに天地創世の時に存在していた(Rev 13:8)。さらに主は永遠においてもその傷を負っている(Rev 5:6)。かくして神と人の関係は贖いの歴史によってむしろ深く甘いものとなった。

エクレシアの誕生と出現

神は創世記と黙示録の間で、「善悪路線」上の贖いの歴史においてユダヤ人を選び、彼らの子孫としてイエス・キリストを地にもたらした。彼は神が地上に幕屋を張った存在(John 1:14 原語)、人性の内に生きる神を証しされたユニークな神-人である(John 14:9-11)。その霊的いのちを十字架における死と復活を通して解放され、今やいのちを与える霊として(1Cor 15:45)、私たちにいのちを分与される。復活したイエスはすでに週の初めの日に、弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけた(John 20:22)。これはペンテコステの象徴ではない。イエスの行動はすべてリアリティであり、復活のいのちを弟子たちに吹き込んだのである。これはいのちを内在化するための聖霊の「本質的満たし」と言える。この時点でキリストのいのちを吹き込まれた不可視的存在(エクレシア)がいわば嬰児として誕生した。

これに対しペンテコステの聖霊の注ぎは「機能(経綸)的満たし」と言える。イエスの四十日間の訓練の後、嬰児であった不可視的エクレシアが、エルサレムという一地方に可視的に出現したのである。すなわち大宣教の委託を受け、地上で頭の意志を遂行すべく、父の約束に基づいて、力として聖霊を受けたのである(John 1:4)。使徒行伝においては「聖霊の満たし」には二種の単語が使われ、人格的資質や内的状態に関わる本質的・内的満たしにはpleroo(Acts 6:3-5;7:55;11:24;13:52など)を、働きや証しなどのための機能的・外的満たしにはpletho(Acts 2:4;4:8:9:17など)を用いている。もちろん現代もこれら両面の満たしによるエクシレアの産出は継続している。これらの教会の二面を十分に認識しないと、単なる人間的枠組み・働きとしての「教会」に堕することになる。

信の本質[4] … Continue reading

キリストは旧約の実体化であり、新約の本質かつ内実である(Col 2:17)。つまりキリストこそあらゆる神の意志の成就であり(2Cor 1:20)、キリストが御霊によって私たち(教会)のうちに内住されることにより、いのちのディスペンセーション、すなわち神のエコノミーが完成される。それはすべて信仰の原理による。御霊は私たちの霊において信仰を息吹き(John 16:8;9)、キリストのパースンと言葉を証し(John 14:26;16:13-15)、信は霊的リアリティを実体、あるいは実体化(Substantiation;Darby)する(Heb 11:1)。

そこで私は著書において「信の本質はI-AMの実体化である」と述べた。現在満ち満ちたI-AMはエクレシアにおいて実体化され、ご自身の表現を得ている(Eph 1:23)[5] … Continue reading。こうして旧新約において一貫する神と人の関係の不変の原則、信が完成される。

イスラエルとエクレシア(特に異邦人)あるいは律法と恵みの関係も、いのちの路線と善悪の路線から見るべきである(⇒イスラエルとエクレシアの関係について)。ユダヤ人の選びは「善悪路線」上の贖いの時系列にあって、いのちなるキリストと神の言葉を全人類にもたらすための選び、すなわち「機能(経綸)的選び」と言える。律法も恵みの必要性を明らかにするために機能的・経綸的に与えられた(Gal 3:19)。異邦人もユダヤ人が不信仰に落ちている間に接木され、両者の区別がないキリストのいのちを内在させた一人の新しい人(エクレシア)として神のエコノミーの中心路線上に置かれる(Eph 2:15-16)。こうしてすべての人が憐れみを受ける(Rom 11:17;32)。これが「本質的選び」、すなわち「いのち路線」への回復であり、恵みである。アブラハムに対する神の原初的約束にも、「あなたとあなたの子孫とに」という経綸的な面と、「あなたによってすべての国民が」という本質的な面がすでに表れている(Gen 12:1-3)。

神の秘められた意図は世の初めからいのちのディスペンセーションであり、エクレシアである(Eph 3:9)。それは贖いの過程においてユダヤ人を介して教会として成就され、ついにはイスラエルもみなこの本質的選びの中へと吸収・融合される。エバがアダムの眠りによって脇腹の骨から造られ、アダムといのちを共有しているのと同様に、キリストの花嫁なる教会も、キリストの眠りによって脇腹の傷の血と水によって誕生し、キリストといのちを共有している[6]エペソ5章30節において、邦訳は「肉の肉、骨の骨である」が落ちている(Eph 5:30)。。私たちは信によってこの神のエコノミーにあずかる特権へと召された存在である。

神の国とエクレシア

神の国とエクレシアは必ずしも同義ではない。地上におけるイエスの行動を見ると、神の国の到来を告げつつ、彼のところに来た人々をすべて癒された(Luke 6:20)。彼らは必ずしもクリスチャンであったわけではない。神の国の到来は地上において神ご自身の主権と権威とパワーを証しする。イエスはいわゆる礼拝堂においてのみその御業をされたわけではない。弟子たちと旅をしながらいつでもどこでも人々の必要に応じられたのだ。その中から召された者たちが得られた。エクレシアの素材として。

こうして十字架を経て、復活の週の最初の日の夜に弟子たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、目に見えないエクレシアが誕生し(John 20:21)、40日間彼らを訓練した後昇天され(Acts 1:3)、ペンテコステの日に炎のように聖霊の傾注がなされ、エクレシアが目に見える形で顕現した(Acts 2:1-2)。彼らには天で御心がなるとおり、地にもなることが委託され、神の国の証しを任されている。エクレシアは本質的にはキリストの体、キリストの肉の肉、骨の骨であり、キリストの花嫁であり、経綸的には神の国の地上における国家機関により権威と機能を委託された派出所のような役割を得ている。

つまりイエスのなされた業は、いわゆる礼拝やセレブレーションの場面のみでなく、地上においていつでもどこでもなされるべきなのだ。イエスがなされたように。これは御言葉の宣べ伝えとシンクロしている。事実、弟子たちはこう祈っている:

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。-Acts 4:29-30

そしてなによりもイエスご自身がこう言われる:

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。-John 14:12

最近とみに、これが終わりの時代の私たちのあり方なのだと感じている。何度も恐縮だが、要するに聖書は私たちの生来のマインドからすると、ぶっ飛んでいるのだ。マインドがまずトランスフォーム(メタモルフォーシス)されること、これが神の国を現出させる第一の鍵なのだ。それは神の国の地上への進攻である。

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References

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1 あえて言えば、神の経世済民である。
2 簡単に言えば、「善悪を知る路線」とは神から分離独立して自らの善悪の判断に従って生きることであり(=セルフに頼る生き様)、「いのちの路線」とはYHWHのいのちをシェアされた神の子として神に頼りつつ、神の判断に従って生きることである(=キリストに頼る生き様)。
3 麦が撒かれたら麦がなる。キリストが撒かれたらキリストがなるのはごく当たり前の道理である。ただし、われわれはパースンとしては別であるが、同じいのちを有する存在である。ゆえにエクレシアはキリストの充満である(Eph 1:23)。
4 あえて「信仰」とは言わないでおく。日本語の理解である「信じて仰ぐ」という理解はそもそも違うのだ。フェイス(pistis,emyuna)はシックスセンスであり、スーパーナチュラルな霊の世界(サブスタンス)にタッチする霊の機能である。
5 ここはしばしば「満ちておられる場/ところ」とするが、原語は「充満(プレローマ)」である(岩波訳)。「場」があって、そこに主が満ちるのではない。主の充満そのものがエクレシアである。つまりエクレシアとはキリストの充満すなわちキリストである。ここでも地上に見える教会やその歴史とか神学のマトリックスを離脱する必要がある。御言葉そのものの啓示を受けよ。
6 エペソ5章30節において、邦訳は「肉の肉、骨の骨である」が落ちている(Eph 5:30)。

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