生命現象はフローとバイブレーション

昨日のメッセで紹介した次のクリップを再掲しておく。一つは流れる水があたかも固体のように見える現象。これをラミナール・フローと言う。

 

もう一つはDNAの折り畳み微細構造。ヒストンというタンパク質に巻き取られて、2M程度の長さのDNAが染色体として、ひとつの細胞に46本収められている。

私たちの身体の細胞を構成する元素は新陳代謝によりつねに入れ替わっている。が、私の身体であるというアイデンティティーは変化しない。それはフローである。生命とは流れていること。

そのとき、わたしはその水を澄ませ/流れを油のように静かに流れさせると/主なる神(=YHWHエロヒム)は言われる。-エゼキエル32:14

アダムが罪を犯す前には、大地は潤い、一本の川が四本に分かれて、全地を潤していた。

地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。-創世記2:5-10

アダムの罪の結果、死が入った(Rom 5:12)。死とはフローが止まること。死は全人類を支配したのだ。しかし、ジーザスはこの死を打ち破った。ご自身がいのちであり、ご自身のいのちをわれわれにインパーテーションしてくださった。

わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。-ヨハネ6:51

聖霊とはそのいのちの流れである。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々(複数形!)となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。-ヨハネ7:37-39

クリスチャンはYHWHのロゴス(=種;スペルマ;DNA)をインヒュージョンされたニュークリーチャー。常にZOEのフローに浸り、ZOEをフローアウトするのだ。

また聖書はこう語る:

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。-創世記1:1-2

この二つの節の間にはギャップがあるとされ、「混沌であって」ではなく、「混沌となって」と訳すべきとする説がある。ここでは触れないが、神の霊が「動いていた」とある原語は”rachaph”であり、育む・孵化するという意味だが、その原義は「振動する」だ。つまりバイブレーション。バイブレーションはエネルギーそのものである。DNAの影像で分かる通り、その分子は常に振動している。身体を構成するたんぱく質もみな振動しているのだ。生命とはエネルギーであり、エネルギーとはバイブレーションに他ならない。

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19:2-5

響きとは”qav”、それは弦であり、振動=バイブレーションである。言葉は”millea”、語り出されたことばであり、もちろんバイブレーションである。かくして五感では感知できずとも、何かが伝達されているのだ。それは霊的サブスタンス。YHWHエロヒムのバイブレーションである。われわれの霊はそのバイブレーションと共鳴(リゾナンス)する。この時、神のことばが私たちの霊に反響し、それを魂の思いにより言語化あるいは映像化する時、御心が分かるのだ(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。これがフェイスの瞬間。I KNOW THAT I KNOW.

霊の生命を保つカギは何か。霊のフローに浸り、霊のバイブレーションに共鳴すること。この時私たちはジーザスと同じ業をなし、はるかに大いなることをなし得るのだ。霊を養い、霊を強めること。これこそが内なる人(インナーセルフ)を強めることである。この時、五感の領域のあれこれによって影響されることがなくなり、霊は常に主の臨在を楽しむことができるのである(☞霊と魂の分離について)。御座の前において祈りの香を焚き、それは主を慰める。これこそが新約の祭司の奉仕である。

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