健やかさのカギ”フロー”は訓練と明け渡しから生じる

このチャートはFBの拾い物だが、実に本質を突いてる。健やかさのカギはフロー、つまり流れている状態であることを何度も指摘しているが、それはDISCIPLINEとSURRENDERの重なりにある。まことにツーザポイント✨

アダムの罪の結果、罪が世に入り、人類には死が入り霊が死んだまま人は生まれる(Rom 5:12)。だから罪を犯すのは必然であるし、YHWHからも切り離されている。人はエデンの園を追い出され、Identity、Provision、Protection、Assignmentを喪失した(IPPAの喪失)。これを自力で再獲得する試みが人類の生であり、歴史である。つまり、アイデンティティを得て、人生の備え、保護、そして目的を得んともがくわけだ。そのために、魂(知・情・意)を肥大化させて、アイ・マイ・ミー・マインを生きるよすがとしている。そのために相互の意志と意志の絡みによる葛藤が世の諸問題を生む。

我はナントカを信じる~と使徒信条を告白して、私が律法を行うことではなく、私が御子を信じることによって救われるとするのが、プロテスタントのいわゆる信仰義認というものだが、その根源的誤りは、センターに「私」が居座っていることだ。

だから「信仰に励む~」とか「信仰を強め~」とかリキを入れることになる。それがガンバル(=我を張る)状態だ。まして邦誤訳に基づくニッポンキリスト教はかなりハマルティアによる悲喜劇が起きている。これで人生を失うのだ。

さて、聖書は言う-

しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17

考えてみよ、水と油は決して一つにはなれない。同じ成分、性質、属性、本性を有する二つのものがひとつになれるのだ。YHWHはエロヒムであり(エロヒムは必ずしもYHWHではない)、よって私たちの霊もエロヒムの霊である[1] … Continue reading。そして私たちの肥大化した魂はセルフを主張する性向を有するが、これがYHWHの意志と対立することがよくあることは経験的に明らかである。この時に、父は子を訓練する。

あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。・・・更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。-Heb 12:7-9

その結果は平安な義の実である(Heb 12:11)。この訓練と服従と単語を日本語で理解してはならない。特に服従は何か強制的になされる印象があるが、原文の意味は、自分をある者の下に服させ、そのコントロール下に入ることを言う(Thayer)。だから、平安な義の実を得るのだ。霊の父の訓練を受け、服する(=自分を明け渡す)ことは、平安な義の実を生むカギである。そしてそれは流れている状態。聖霊は信じる者の腹から川々となって流れ出る。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々(複数形)となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである[2] … Continue reading。-John 7:38-39

聖霊派がよくやるような「聖霊様の充満~」チャントをする必要はない。すでに私たちのうちにいますから。聖霊はアウトサイドインではなく、インサイドアウトされる[3]外と内なる満たしについては、使徒行伝において、それぞれプレソーとプレローで区別されている(☞油注ぎと油塗りについて)。カギは流れていること、フローしていること。

それは魂の凝り固まった状態では疎外される。肉の思いは神に敵対し、死の感覚を生じる(Rom 8:5)。対して魂(特に思い・マインド)が訓練され(ほぐされている、あるいは砕かれている)、御霊に服しているとき、平安といのちの感覚で満たされる(Rom 8:6)。この時、うちなるキリストの思い・意志・感情が私たちの魂に反映し、私たちの魂はキリストの魂をエミュレートする(☞神をエニュレートする)。私たちはすでにキリストの思いを有しているのだ(1Cor 2:26)。問題がそれが私たちの思いによって抑圧されてしまうこと。これが葛藤を生じる。

このようにしてキリストの霊とひとつとされた私たちの霊から魂を通してキリストの魂が反映される。最終的に私たちの体を通してキリストの何かが表現される。これが栄光を現わすことである。

For ye are bought with a price: therefore glorify God in your body, and in your spirit, which are God’s. -1Cor 6:20

この節の邦誤訳では、「霊にあって」が落ちているから要注意。かくしてキリストは私を通して生き出てくださる。つまり生きているのはもはや私ではない。一方、肉(五感)にあって生きる私は御子フェイスの中で生きる[4] … Continue reading。御子フェイスの中で私はフローしているのだ。

脳科学的にはデフォルト・モード・ネットワークが活性化している。力むこともなく、脱力しているが、活動的であり、創造的であり、開放的である。それはいのち(ZOE)の躍動そのものである。イエシュアはこのいのちにあって生きておられたのである。わたしはいのちであると

21vote
Article Rating

References

References
1 最高位のエロヒムであるYHWHは父・子・聖霊のパースンズであり、われわれとはパースンを異にすることは何度も指摘している。中村家に生まれればそのDNAを継承し、ヒトであり、中村族であるが、子は父母とは人格を異にするのと同様である。
2 ここは「注がれていなかった」とか「下っていなかった」ではなく、「なかった」(岩波訳)あるいは「存在していなかった」(田川訳)である。これについてはこちらを参照されたい☞「御霊と人の関りについて
3 外と内なる満たしについては、使徒行伝において、それぞれプレソーとプレローで区別されている(☞油注ぎと油塗りについて)。
4 ここも邦誤訳では「御子に対する信仰」とされるが、信じて仰ぐ結果、そのような対格的訳にせざるを得なくなる。フェイスは信、あるいは信覚である。信仰とすると、御子がなぜ信仰するのかとなるわけ。マルコ11:22も同様に、原文は「神のフェイス(信)を持て」である。信仰とすると、なぜ神が信仰するのかとなる。神が信じて仰ぐ対象は?となるわけ。わかりますか? 「信仰」なる単語の呪縛は実に深い。

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

Subscribe
Notify of
guest

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
Translate »
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x