聖書の中心はいのちである(追記)

いつもの再建主義者の主張―

聖書の思想、つまり、神の思想の中心は契約である。

神は契約的な存在であり、契約は神の本質である。

3人の神々が契約によって一人として存在される。

・・・

神は互いに異なる存在であるが、契約によって合一しておられ、そのことを男女の結婚を通じて啓示しておられる。

・・・

個人と集団の二つを両立させるにはどうしたらよいだろうか。

「契約を守る」ことである。

集団の利益のために個人の権利を制限し、調整するような契約を作り、それをメンバーが厳守するならば、その社会は発展する。

なぜならば、それが神ご自身のあり方だからである。

神は、個々の位格が全体のために働き、契約を完璧に守られるので、個性を犠牲にすることなく全体が完全に調和して働いておられる。

キーワードは「契約」。すべては契約的になのだ。YHWHの三一性も、われわれがキリスト族またキリストの体とされたのも、父と子がうちに住まわれるのも契約によるのだ。

対して、私は言おう―聖書の中心はいのちであると。アダム系のいのちからキリスト系のいのちに死と復活を通して転換され、その霊の中にいのちとしてYHWHを得ている存在がニュークリーチャー、エロヒム属であり、キリストのうちにインプラントされて、同じDNAを共有するキリストの体の肢体とされた存在がエクレシアである。

エクレシアとはすべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満である。-Eph 1:23

この方とはキリスト。キリストはいのちであり、このいのちの充満こそがエクレシアである。たい焼きは餡子の充満と言ったら、たい焼きの本質は餡子である。同様にエクレシアとはキリストの充満であると言ったら、エクレシアの本質はキリストである。すなわちいのち(Zoe)そのものである。

あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。-ヨハネ17:22

ここの「ひとつ」とはVincentによれば-

hice:One (ἕν)

The neuter, not the masculine εἶς, one person. It implies unity of essence, not merely of will or of power.

意志とか能力のだけではなく、エッセンスの同一性である。それはすなわちいのちの共有そのものである。契約は単に意志と能力の一致を意味するが、それを超える父と子のあり方がこの「ひとつ」である。

そして新約におけるキリストの祭司制については-

というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。-ヘブル7:14-17

キリストは律法、すなわち旧契約によって立てられたのではなく、いのちの力によって立てられたのだ! そして旧契約は廃棄された(Heb 7:18)。お分かりだろうか? キリストは律法の中に生まれ、割礼を受け、律法を完全に守られた。が、その祭司としてのアイデンティティーは律法に基づかないのだ! それはいのちに基づいている! 

YHWHエロヒムはそのキリストを与えれることをアブラハムに約束された。その約束は430年後に入った律法により無効にされなかった(Gal 3:16-18)。アブラハムへの約束(契約)はいのちなるキリストを与えるためのものである。そのキリストは今やいのちを与える霊として(1Cor 15:45)、私たちのうちに住まい、私に代わって生きて下さる(Gal 2:20)。それはいのちの御霊の法則によるのであり、この法則に乗って生きる時、自動的に律法の精神も満たされるのである。

かくして、聖書、特に新約における中心テーマはいのちである。

追記:その後、富井氏からこのような反応があった(ここを意識したのか否かは不明だが)。

神のご計画では、いずれディープステートは解体され、代わりに再建主義のクリスチャンが政権を取る。

クリスチャンになるということは、新しい創造である。

クリスチャンは、アダムが土から造られたように、まったく新しく造られたのである。

もはやアダムとの契約は切れた。

契約的にアダム族ではなくなった。

それゆえアダムが負った運命である「永遠の死と刑罰」から解放された。

イエス・キリストは、マリアの胎の中で御霊によって創造された。

イエス・キリストは、アダムとの血縁関係はない。

それゆえ、イエス・キリストにつくわれわれも、アダムとの血縁関係はない。

ただし、この離縁は「契約的に」である。

実際にわれわれの肉体はアダムから引き継いでいる。

われわれの肉体は「死ぬべきからだ」である。

われわれがそれを脱ぎ捨てて、新しい「御霊のからだ」を与えられるまで、新創造は「契約的」であって「実際的」ではない。

新創造は認めるも、それは実際的ではなく、契約的であると。意味がよく理解できないが、私の理解はこうである:

霊はYHWHが分与してくださった再創造されたエロヒムの霊であり、パーフェクト(Heb 12:23)。魂(思い・感情・意志)はメタモルフォーシスの過程にあり(Rom 12:2;2Cor 3:18)、体は旧創造に属し、これは主の再臨の際に瞬時に霊の体に変貌する(1Cor 15:51-52)。つまり、魂は新創造と旧創造の狭間に生きているのだ。ゆえにパウロが、自分は地上の幕屋(体)の中でうめいていると証しするとおりである(2Cor 5:2)。だから、再臨を待ち望むのだ(Rom 8:19;23)。

なによりも、フェイスはサブスタンス(実体・実質)である(Heb 11:1)。新しい共同訳でもようやくそうした模様だ。

ところが再建主義ではすでにAD70年に(最初の)再臨と(集団的な)携挙も起きている。今の我々にとっての携挙とは肉体の死であり、死後に霊の体を与えられる、と言うわけである。すると、地上に生きている間は契約的であり、死後は実際的であると言うのであろうか?

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