AD70年に黙示録のどこまでが成就したのか?(追記あり)
いつもの再建主義の富井氏によると、黙示録の冒頭の「すぐにでも起きること」(Rev 1:1)について、このように解しているようだ―
「すぐに起こる」というところから私が言おうとしたのは、「黙示録のすべての記事が紀元70年に起こる」ということではありません。いくらなんでも「千年王国」まで1年のうちに起こるなんて言うつもりはさらさらありません。
そもそも彼らの言う千年期とは-
千年王国は、キリストが「天地の一切の権威を受け」(マタイ28・19-21)てから、始まりました。黙示録20章の千年王国はキリスト以後の歴史をあらわしています。
つまり、AD70年までには黙示録の19章までが成就し、現在は20章に入っているわけだ。その20章4-5節にはこうある-
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
現在、その生き返った人々はどこにいるのであろうか?
また富井氏はこうも言う-
直接の読者は、紀元1世紀の小アジアの7つの教会のクリスチャンたちである。
ヨハネは彼らに「警告」を与えた。
2000年後の人々にではない。
紀元1世紀の人々に警告した。
もし紀元1世紀にその警告が適用される事件が起こらなかったら、ヨハネ黙示録は「偽預言」であり、ヨハネは「偽預言者」である。
それゆえ、黙示録の大患難は紀元1世紀に過ぎ去ったのである。
つまり、この七つの教会を当時の断面的教会とのみ見ているわけだ。私はこれを十字架以降の二千年にわたる時系列の中で展開する教会の有様の病理と診断と処方であると見ている。
現経綸がすでAD70年にイエスが一度目の「再臨」をしており、千年期に入り、その後二度目の「再臨」があるのか、それともエクレシアの時代を経て、再臨があって千年期に入るのか。そもそも再臨とはThe Second Comingであり、定冠詞があるのだ! 言語の専門家である富井氏に対しては釈迦に説法であろうが。
結局、彼らのシェーマは教会時代を削除して、千年期を前倒ししている。このことによる二回の「再臨」といったつじつまを合わせることになるわけだ。
そもそも黙示録の成立時期はいつか。AD70年前ならばポスト・ミレの勝ち、定説どおりAD90年代であればプレ・ミレの勝ち。そして、彼らが言う通り、AD65年辺りとしても、たかだか5年程度で黙示録の19章までが成就することになる。その5年間においてそのような証言は教父たちの間に見られていないことはすでに指摘したとおりである。
いくらなんでも5年間で黙示録19章まで成就したとは・・・・・。
追記:再建主義の中でもフルプレテリストとパーシャルプレテリストに分かれている。前者は黙示録の新天新地まで成就しているとする立場、後者は千年期までとする立場。富井氏は前者については次のように異端宣告をしている。
1.
フルプレテリズムは、大宣教命令はすでに紀元70年以前に成就し、現代に住むわれわれにとって意味はないと考えるので、ある意味においてディスペンセーション主義と似ている。
なぜならば、時代区分によって聖書を無効化するからである。
大宣教命令が成就し、やることがなくなったクリスチャンにとって重要なのは、天国に行くことだけだと結論せざるを得なくなる。
「今は律法の時代ではないから、クリスチャンを縛る倫理規定はない」と唱えるジョン・ダービーと類似している。
2.
フルプレテリズムは、「黙示録のすべては成就した。それゆえ、サタンが滅ぼされて刑罰の中に入り、活動できなくなる永遠の世界は到来しない」と唱える。
サタンが永遠に暴れ回わり、神とサタンの戦いが永遠に続くと。
これは、実質「虚無主義」である。
善の最終勝利を唱えないので、アナキズムでもある。
地上における悪との戦いを否定し、その完全終了を目標にしないので、悪を放置し、地上における「地の塩」の役割を拒絶することになる。
御国の拡大も否定するので、次のイエスの命令を無視する。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6・33)
イエスが「神の国を・・・第一に求めなさい」というのに、「その必要はない。大宣教命令が紀元70年に成就した以上、それ以降、いくら求めても、諸民族の弟子化と、御国は実現しないのだから努力は無駄だ。クリスチャンに与えられた使命は、一人でも多くの人に天国行きの切符を手渡すことだけだ」と言う。
この点でもディスペンセーション主義に似ている。
どう転んでも、フルプレテリズムは異端以外の何物でもないし、フルプレテリストは呪われるべきである。
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