サイエンティストの聖書の読み方-書いてあることと書いてないことを弁別せよ-

すでに召された再建主義の富井氏との議論はかなり長期にわたった。ここでは繰り返さないが、私にとっては同じ聖書なる書物を読みながら、そこから構成する世界観が真逆であることに驚いた次第。いろいろ学ばせてもらったことも多々あるし、彼の生きるスタンスは評価していたのだ。

彼いわく、AD70年にすでにイエスは一度目の再臨をし、携挙も起きており、現在は千年期であると。この間に全世界が福音化され、国家司法もモーセ律法による体制となり、神の国が地上に設立されて後、二度目の「再臨」をされると(ポストミレ)。これでは「再々臨」ではないかと私は指摘したが、回答はなかった。

私の終末論に関する世界観も含めて、聖書を読む際には次のような原則に基づいて理解し、内的モデルを構成している[1] … Continue reading

  • 定律書いてあることは書いてある通りに、書いてないことは無益な推論により断定あるいは判断をしない。

一応断ると、私はプレミレ(イエスの再臨後に千年期)に立つが、それは今までのところプレミレを捨てる理由がないからだ。再建主義の主張を詳細に調べても、プレミレを棄却するところまではいかない。もし今後、ポストミレを支持する十分なるエビデンスが与えられれば、私もポストミレに変わるかもしれない。

これは数理統計学的思考。すなわちある仮説H1を主張したい場合、その否定仮説H0(帰無仮説)を立てる。帰無仮説H0の上で今起きている事象の確率 p値を計算して、p が例えば5%未満のときH0が起きることはほぼあり得ないとしてH0を捨てる。これで危険率5%で(つまり実際にはH0が正しいことも5%はある)当初の仮説H1を否定し得ないとするわけだ(これを「「統計的に5%の有意水準にある」と言う)。

私の仮説H1はプレミレ。帰無仮説H0はポストミレ(この際、ア・ミレは除く)。聖書に書いてあること世界の諸現象からH0が成立する確率 p を推定すると、今のところきわめて低い。よって、判断ミスの危険が p だけ残る(これを第一種の過誤と呼ぶ)ことを承知の上で、ポストミレ説H0を捨ててプレミレ説H1は否定できないとしているのだ。これがサイエンティストの思考法だ。なお、第二種の過誤とは帰無仮説H0が間違っているのに棄却しない誤りのこと。

古い論争としては、<カルバンVS.アルミニウス>の議論がある。これについてはすでに何度も指摘している通り、人間の認識能力として判断し得ないが私の立場だ。判断する能力がないのに、判断するおろかさをキリスト教神学は犯す。人が救われるのは、神の意志(決定論)によるのか(二重予定説)、人の自由意志(偶然論)によるのか。これはちょうど光や電子などの量子が干渉という波動性を有すると共に、観測される時は粒子として、という量子論における二重性の問題と同様である。われわれはそれを解釈することなく、そのまま受け入れるしかない。

父、子、聖霊のいわゆる三位一体論も同様である。「父・子・聖霊は同時同在し、位格(ペルソナ)としては区別されるも本質においては同質(ホモウシオス)だ」と通常定式化されている。これはこれで良いと考えるが、創造者を被造物である人間の言葉の中に閉じ込めること自体、無理があると言うことは誰も分かるであろう。まあ、これが一応、「正統教会の立場」として、他の異端論と区別する錦の旗になるわけだ。これに加えて、二性一人格論(キリストは完全なる神性かつ完全なる人性を有する一人格をお持ちの方)なるキリスト論もあるが、理性でこれは理解できないであろう。平行移動してみれば、「人性と猿性を有する一人格なる存在」って何っ?てお話になるわけだから。

またセカンドチャンス論争なるものもある。生前は救いを受けなくても死後にすくわれるチャンスがあるとする説だ。これで互いに異端のレッテル貼りをしているニッポンキ業界の不毛かつ無意味な論争の例のひとつだが、かなり前に久保有政氏から上掲の本の旧版が送られてきた。『聖書的・・・』なるタイトルをみて読むまでもないと思ったが(「的」ってのが何によらず曲者)、極私的(おいおい、曲者だ)スタンスは定律のとおりである。

セコンド・エクソダスは書かれているが(Jer 16:14-17)、セコンド・チャンスは書かれていない。ただ過ぎ越しに二回チャンスがあるとは書いてある(Num 9:6-11)。これがセコンド・チャンスだ、と推論するのは自由だがぼくは判断しないし、それを論じる必要も覚えない。なぜなら死んだ家族のことを持ち出すのは信じたくない人の言い訳であることが多いからだ[2] … Continue reading。人数を集めたがるバベル憲章の下にあるセンセイにとっては大問題であるとは思う[3] … Continue reading

フェイスは<今・ここ>で、あなた/わたしが主と御言葉にどう応答するか、これがすべて。ヨハネの運命はどうのと言うペテロにイエシュアが言われた言葉は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」だから(John 21:22)。

この意味でキルケゴールの言うとおり、まことに神の前の単独者として立つ必要があるのだ。現今のいわゆるキリスト教界がみんなで仲良く楽しいソーシャルサロン化あるいはタテノリガチャガチャのエンターテインメント化していることへの大きなチャレンジである。フェイスの歩みにおいて牧師任せにすることなく、内なる御霊に頼りつつ自ら聖書を読み解くスタンスを確立することこそ、霊的覚醒への道である

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1 サイエンスの思考形式は、演繹法と(不完全)帰納法がある。前者は「A=BかつB=CならばA=C」論理の流れを追う思考、後者は今まで観たカラスは黒だったから「カラスは黒い」とする思考(これには例外があることは分かるでしょう)。聖書もこのふたつの思考法で理解する必要があるが、しばしば、妄想や幻想が紛れ込むので面倒なのだ。
2 使徒行伝には、「信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と書いてある。ぼくはこれを単純に信じるだけだ。その「家族」に亡くなった者も入るのか否か、それは知らない。
3 私の聖書の読み方をして、そんなちまちましたことやっても人は増えんよ、ドーンと行くんだ、ドーンととのたまった有名看板牧師がいたが、土建屋のおっさんかよと思ったものだ。

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