鎌倉人気に因んで

大河ドラマにより鎌倉が注目されているが、ぼくの好きな場所でもある。この辺りは実に魅力がある。禅を世界に広めた鈴木大拙も、鎌倉円覚寺は今北洪川と釈宗圓に参禅し、「肘、外に曲がらず」と見性した。彼の親友、『絶対矛盾的自己同一』の西田幾多郎も海が見える別荘を持っていた。

両人の墓は松岡山東慶寺にある。実に味がある地域。(陰の声:が、現地に住む友人の話によると、鎌倉は見栄とプライドが高くて住むには窮屈とか・・・)しかし、この円覚寺の禅僧の後ろ姿、背筋がスッと伸びて実に清々しい様だ。「一週間参禅」もできるのでちょっとチャレンジしてみたい。

禅には道元の曹洞禅、臨済の臨済禅、黄檗禅などと大きく分けられる。曹洞宗は「只管打坐」、ただ座ること。そして永平寺に見られるように生活即悟り。臨済禅は公案による見性(知的に溶けない難問を考えさせて一種のノイローゼ状態に追い詰め、知性の空転と束縛をぶち破る手法)。円覚寺は公案禅(看話禅)。

ちなみにわが地元の総持寺は曹洞禅であるが、なんと坊主たちがスマホを片手にコンビニに出入りしているのを見て愕然とした次第。さっき流れてきた記事では坊主が食えなくなって日雇い労働者と化しているとか・・・。牧師は大丈夫かな(笑)

元々仏教は礼拝対象を持たない。すべての物には仏性が宿ると言うが、これは造物主のことではない。パウロの「神性はすべての被造物において知られている」と同義。釈迦も別に礼拝対象ではないし、彼自身はそれを禁じていた。今の葬式仏教のあり方は当初のあり方とはかけ離れているのだ。つまりクリスチャン信仰と仏教はなんら葛藤しない。仏教は徹底した認識論なのだ(マインドのフィルターのバイアスのない認知と認識、主客一体化)。オツムの硬直化したマインド梗塞にあるニッポンキ業界のセンセイたちには一言申し述べる次第。

彼の唱えた「即非の論理」-AはAにしてAにあらず-は善悪を知る知識の木の実を食べて二元論的世界に幽閉された人類の「知」に対する挑戦である。ちなみに現代物理における量子論-粒子にして波動-も創造主からの挑戦と思っている。リアリティーを人間の知性のフレームに収めると言う野望は果たして成就するのか?この点から見ると創造主を人間の知性に収めようとするキリスト教神学などは幼稚極まりない。佐藤優氏も指摘する通りである。

大拙はスエデンボルグの研究もしており、『新エルサレム』なる書もものしている。そして言う、「わしはイエスは覚者だと思うが、聖霊というものがどうにも分からん」と。昨日は五旬節であったが、そう、ここに禅者とキリスト者の致命的相違があるのだ。

アダムが善と悪を知る知識の木の実を食べてから人類は二元論的価値観に幽閉された。これからすべての不安や苦悩が生まれる。それを超える世界を提唱する。ルーツはもちろん禅。悟りとは「目横鼻直、花紅柳緑」。ただそれだけ。量子も粒子にして波動。ただそれだけ。そこに解釈や価値判断を持ち込むのが小賢しい人間のいわゆる知である。

知性によっては神を知ることはできない。神は霊(スピリット)であるから、霊と真理にあって霊拝せよ」-聖書

現在われわれが見ているいわゆる仏教は葬式仏教、そもそも釈迦が説いたのは徹底した現実認識論である。だから現代物理学、とくに量子論との絡みは実に面白いのだ。

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