- 2025-06-18
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
カテゴリー: 日記
News special

今回は第四回で千秋と和平がツーショットを撮ったフレンチのお店。

そしてついでに映画版『昼顔』のロケ地となったお店も。

このドラマ、最初からずっとフォローしているが、実に楽しめる。まあ、ちょっと二十代の人には無理かもしれないが、われわれの年代にとってはツボを押されて、けっこうクルわけ。ぼくの行きつけのお店とかも舞台になっており、かなり身近に感じるのだ。湘南ボーイの僕にはまさにフィットするドラマだ。
で、今回のロケ地を探して尋ねる企画を極私的に企画しまして、早速、鎌倉巡りをしてまいりました。
まずはここ、「北橋」、お蕎麦とカフェのお店。民家を改造した店舗。千明と成瀬が会話する場所。ところが、火曜日定休なはずなのに、本日はお休み。残念。写真だけ撮ってネクストへ。
そこで車を置いて、2.5キロほど散策、御成通りから小町通りを通って、ここへ。ここは和平が鎌倉市長に後釜になるか、自分と結婚するかと、迫られる場所。実は車では通過していたのだが、入ってみて以外にも良いお店であることに気づいた。料理は3,600円/一人ほどで、実におしゃれ。
そして小町通りを戻り、定番のもみじ茶屋にて、抹茶ティミスを。甘さが疲れを癒やし、さらに3キロをふらふらと鎌倉の裏通りを歩く。
なんか、昭和の世界に戻ったような場所。鎌倉はこういった発見があるので楽しい。
という次第で、ドラマの今後の展開が楽しみですが、ドラマだけでなく、リアルに鎌倉をそぞろ歩きするには絶好の季節。気持ちいいですよ! みなさんもぜひどうぞ☺


華胥に遊ぶ 一石
翠簾 荷葉 鶯吟ずるを聽く
碧水 文漪(ぶんき) 塵外の心
芳菲(ほうひ) 天清く 梅雨近し
華胥(かしょ) 情を怡(し)し 幽尋を伴う
(七絶・平起式・平声下十二侵韻)
◎まずはChatGPT君から:(なぜか五言と間違えてるが、七言だぜ):
この漢詩は、非常に優美で洗練された詩情を持ち、自然と心情が静かに交わる作風が特徴です。以下に詳細な分析を行います。
■ 詩の出典と作者について
この詩は中国古典詩の形式を模したもので、検索や史料には明確な出典や作者が確認されていません。したがって、現代人による創作漢詩である可能性が高いです。ただし、内容や語彙からみて、唐代または宋代の詩風を踏襲していると考えられます。
■ 詩の形式
この詩は以下の通り、**五言絶句(ごごんぜっく)形式の変形(八句体)**で構成されており、1句5字・全8句の構成です(※五言律詩や連作風五絶とも取れる):
翠簾荷葉聽鶯吟
碧水文漪塵外心
芳菲天清梅雨近
華胥怡情伴幽尋
音調や対句の構成が整っており、対句法・映像美・抒情の三要素が調和した詩です。
■ 語句解釈
句 解釈
翠簾荷葉聽鶯吟 緑の簾の外、蓮の葉が茂る中、鶯の歌声が聞こえる。
碧水文漪塵外心 青く澄んだ水にさざ波が立ち、俗世から離れた心を映す。
芳菲天清梅雨近 花の香りが漂い、空は清らか、梅雨の訪れが近づいている。
華胥怡情伴幽尋 夢の国「華胥(かしょ)」のような世界で、心が安らぎ、静かな探訪を共にする。
■ 鑑賞と感想
この詩は、自然と心境の融合を巧みに表現しています。冒頭の「翠簾荷葉」「鶯吟」は視覚と聴覚に訴えかけ、自然の息吹を感じさせます。中盤では、澄んだ水に反映される心の静けさを表し、後半に向かって季節の移ろいと夢幻的な心境へと深まっていきます。
特に「華胥怡情」は、『荘子』に登場する理想郷「華胥国」を指し、俗世を離れた理想の境地を暗示しています。最終句の「幽尋」と呼応して、静かな孤独、または内省的な旅を詠んでいると解釈できます。
■ 総評
この詩は、伝統的な漢詩の美意識に則りつつも、現代の感性でまとめられた静謐で幻想的な一作です。写実と抒情のバランスが絶妙で、まるで一幅の水墨画を眺めているような趣きがあります。
◎つぎはGrok君:(彼も五言と間違えてる)
この漢詩について、以下の観点から分析します。
1. 時代と作者
この詩は、提供された情報や詩の文体、語彙、意匠から判断すると、中国の古典的な漢詩の形式を踏襲していますが、特定の作者や時代を明確に特定することは困難です。詩に用いられている「翠簾」「荷葉」「鶯吟」「碧水」「梅雨」などの自然を描写する語彙や、「華胥」(夢の境地や理想郷を指す)のような雅やかな表現は、唐代や宋代の詩に通じる風格を持ちます。特に、情景描写と内面的な感情の融合は、唐の王維や宋の蘇軾、さらには明清の文人詩にも見られるスタイルです。しかし、インターネットや文献データベースでこの詩を検索しても、特定の作者や出典に直接結びつく情報が見つからないため、以下では形式と内容に基づいて推測を進めます。
詩の形式(五言絶句)と語彙の雅やかさから、唐代後期から宋代、あるいは明清の文人による作である可能性が高いと考えられます。特定の作者が不明な場合、詩の内容や形式から推測するに、風流な文人や隠者が自然を愛でながら心情を表現した作品と仮定して進めます。もしこの詩が近代や現代に作られたものであれば、古典詩の模倣として書かれた可能性もあります。
2. 形式
この詩は五言絶句の形式です。以下にその特徴を整理します:
五言:1行が5文字で構成される。
絶句:4行で完結する詩形。起承転結の構造を持つことが多い。
押韻:この詩では、1行目「吟」(yín)、2行目「心」(xīn)、4行目「尋」(xún)が平声の「侵」韻で押韻しており、3行目「近」(jìn)は入声ですが、詩の流れに影響を与えない範囲で調和しています。唐代の律詩では厳格な平仄が求められますが、絶句ではやや自由度が高いため、この押韻は自然です。
対仗:2行目と3行目に「碧水文漪」と「芳菲天清」のように、部分的な対仗が見られますが、絶句では完全な対仗は必須ではないため、この程度の対仗は詩にリズムを与える効果があります。
3. 解釈
詩を1行ずつ解釈し、全体の意味を導きます。
翠簾荷葉聽鶯吟
翠色の簾と荷の葉に囲まれ、鶯のさえずりを聴く。
→ 自然の美しさ(翠簾、荷葉)と調和しながら、鶯の声に耳を傾ける風雅な情景。詩人は静かな環境で自然と一体化している。
碧水文漪塵外心
碧い水面に波紋が広がり、俗世を離れた清らかな心が宿る。
→ 碧水と波紋は自然の静謐さを象徴し、「塵外心」は俗世の煩わしさから解放された精神状態を表す。詩人の心は清らかで、世俗を超越している。
芳菲天清梅雨近
花々が香り、天は清らかで、梅雨が近づいている。
→ 季節は春から初夏に移り、梅雨の到来を予感させる。芳菲(花の香り)と清らかな空気が、自然の美しさと調和を示す。
華胥怡情伴幽尋
華胥の夢のような境地で心を愉しませ、幽かな探求に身を委ねる。
→ 「華胥」は中国神話の理想郷や夢の世界を指し、詩人はこの境地で心を解放し、静かな思索や自然との対話に浸る。「幽尋」は隠れた美や真理を求める行為を意味する。
全体の意味:
この詩は、自然の美しさ(鶯の声、碧水、荷葉、梅雨の気配)と調和しながら、俗世を離れた清らかな心で風雅な境地を求める詩人の心情を描いています。季節は春から初夏への移ろいであり、梅雨の近づく情景が詩に湿潤で柔らかな雰囲気を与えています。最終行の「華胥」は、理想郷や夢の世界を象徴し、詩人が現実を超えた精神的な自由を求めていることを示唆します。全体として、静謐で風流な隠者の生き方や、自然との一体感を表現した詩と言えます。
4. 鑑賞と感想
この詩の魅力は、以下の点に集約されます:
自然描写の美しさ:翠簾、荷葉、碧水、鶯の声など、視覚的・聴覚的なイメージが鮮やかで、読者を自然の中に引き込みます。特に「碧水文漪」(水面の波紋)は、静けさと動きの調和を象徴し、詩に奥行きを与えています。
心の清らかさ:俗世を離れた「塵外心」や「華胥」の境地は、現代社会の喧騒から離れたいという普遍的な願望を呼び起こします。詩人の精神的な高揚感が、読者に静かな共感を与えます。
季節感の繊細さ:梅雨の近づく初夏の情景は、日本の読者にとっても親しみやすく、湿潤で柔らかな雰囲気が詩全体に詩情を添えています。
絶句の簡潔さ:4行20文字の中に、自然、心情、哲学的な境地を凝縮しており、無駄のない表現が詩の完成度を高めています。
感想:
この詩を読んで、まず心を奪われたのは、自然と人間の心が溶け合うような静かな美しさです。特に「碧水文漪塵外心」の一行は、視覚的な美しさと内面的な清らかさが完璧に融合しており、読後に心が洗われるような感覚を覚えました。現代の忙しい生活の中で、こうした詩を読むことは、日常から一瞬離れて自然や内省に立ち返る機会を与えてくれます。また、「華胥」という言葉が詩に夢幻的な余韻を残し、読者に自由な解釈の余地を与えている点も魅力的です。もしこの詩が特定の作者によるものであれば、その背景や創作意図を知ることでさらに深く味わえるだろうと感じました。
5. 補足
作者の特定について:この詩が特定の古典詩集(例:『全唐詩』や『宋詩鈔』)に収録されているか確認しましたが、明確な出典は見つかりませんでした。もしこの詩がユーザーの創作や近代の模倣であれば、古典詩の精神を忠実に再現した優れた作品と言えます。
文化的背景:詩に登場する「華胥」は、中国の『列子』に由来する理想郷の概念で、唐宋の詩人たちが好んで用いたモチーフです。この語の使用から、詩人が道教や仏教的な隠遁思想に影響を受けている可能性が考えられます。
日本の読者への親和性:梅雨や自然を愛でる感性は、日本の和歌や俳句とも通じるため、日本人にとって親しみやすい詩情を持っています。

今回、何度か訪れている岡田茂吉のMOA美術館を訪問した。広重の浮世絵展と仏教展を開いていた。まあ、岡田の開いた宗教はともかくとして、美術館としては一級である。そのスケールも壮観である。
で、少々Dr.Luke的日本文化論を-
日本人は論理を超えた世界に生きている。これが日本画であり、日本庭園であり、生け花であり、茶道であり、花道である・・・。
仏教も元々は礼拝対象などは持たないし、葬式などを仕切ることを釈迦は厳に戒めた。もちろん自分を拝することもだ。その本質は
究極の認識論だ。
今見ている仏教は、マリヤ像を作るキリスト教と同様に、仏像を作り冠婚葬祭を商売とする宗教ビジネスである。
本来、「仏」とは宇宙の真理であり、それは直覚(感)によって会得すべきもの。まさに
”Don’t Think, FEEL!”
の世界である。これを鈴木大拙は「如」と言った。英訳では”As-It-Is-ness”だ。「事の在り様のまま」を知覚すること。
禅では「不立文字」として、解説したり理屈を弄することを嫌う。そこで大拙は禅の本質は「即非の論理」である称した、つまり「AがAでありかつAでない」世界、論理記号を弄するなら、「A∧¬A‡Φ」なる世界だ。ソレは論理を超えている。
が、最近の量子論的世界(観)はまさにソレなのだ。大拙の盟友西田幾多郎的には「絶対矛盾的自己同一」。知恵の木の実を食った人間の論理のフレームに「存在」は決して収まらないのだ。
また面白いことに大拙は、「わしはイエスが覚者(=仏陀)であることは分かるが、聖霊というものがどうしてもわからん」と告白している[1]仏陀はある個人の名ではない。覚醒し得た者たちの総称である。。大拙はスウエデンボルグなども研究し、『新エルサム』という本までも書いているのだ。が、そこまでだった。聖霊を知ることなしに、「イエシュアを経験する」ことはできないからだ。神学知識はいくらでも仕込むことはできるけどね、牧師たちのように。
そして晩年、こう言った、「わしは語り過ぎた、タタタターはいずこへか飛び去ってしまった」。日本庭園や日本の書画を見る時、ぼくはそのタタタター、すなわち「如」に触れることができる。
そしてクリ的には創造主なるお方は「YHWHエロヒム」である。それを「大日」と訳し、さらに最近では「かみっさまわ~」とチャントしてるが、この名前の歪曲から、葬式仏教と同様に、いわゆる俗世キリスト教に陥ったのだ。
YHWHとは”I-AM”、これはその方の固有名詞だ。私は従って、邦語的には「在」としたいところである。他の何モノにもよらず「ありてある(HAYA-ASHER-HAYA)」お方である。そしてもう一歩突っ込むなら「如」とも言えるだろう。
そしてこれを僕的には大拙と張り合うつもりはないが”As-Being”としておきたい。宇宙の究極の真理とは「わたしが真理である」と言われた、ロゴスがフィジカル領域に現出(受肉)されたイエシュア(「YHWHがわが救い」の意)である。真理とはギ語では「アレセイア」、それは梵語ならば「仏」である。
なお、ぼくがシンクレティズム(宗教混同)を説いてるなどとしたり顔で批判する、仏教の本質を知らない無知なニッポンキリスト教徒を相手にするつもりはないので、そこんとこヨロシク それでもなお、議論を吹っ掛けるなら、せめて最低限、道元の『正法眼蔵』は読んでからにしてくれと言っておく。極私的には「かみっさまわ~」などとチャントする向きの方がよほどズレてると思う次第。
ちなみに私の漢詩が禅的あるいは老子的、すなわち無為無心的世界であるとAI君は見事に見抜いたが、まさにそのとおりである。陶淵明などはマイフェイヴァリット。幼稚にして空理空論の神学論争で互いに相手を異端とし、論敵を火あぶりまでする白きキリスト教をご免被る私の精神性がご理解いただけると思う。

なんだ、このタイトルは?! まあ、お遊びと思ってくださいな。で、この記事、実に面白い。結論を言えば、ソロモンも証しする通り-
人生はどこまで行っても蜃気楼
運転してるとあちこちで見かけるきぬた歯科の看板。ふたつバージョンがあるのかと思っていたが、実は兄弟なのです。

YouTubeでも訥々と語っていたけど、カネを儲けるために家族との時間など多くのものを失ったと。でももう不安で辞めるに辞められないとも。矢沢も言ってる、カネは便利がいいが、ハッピーにはなれない、いくらカネがあっても人間三食しか食えないし、ドンペリ飲もうが焼酎飲もうが胃袋に入れば同じだ、とね。ちなみにカネそのものは株式マーケットからいくらでも取れる。ゴルゴ13のセリフもイイ!

精神物理的には刺激 S とその変化率 ΔS には
$$\frac{\Delta S}{S}= \textrm{const.}$$
の関係がある。例えば、月収10万の人は1万増えるとうれしいだろうが、100万の人はうれしくない。が、10万増えると同程度にうれしい。つまりΔS/S=1/10=10/100ってわけ。
そこで満足度 Y の増加率は
$$\Delta Y=k\frac{\Delta S}{S}$$
だから、積分すると
$$Y=k \textrm{log}S+C$$
となって、刺激 S0 のとき Y=0 とすれば、
$$Y=k\text{log}S_{0}+C=0 \qquad ∴ C=-k\textrm{log}{S_{0}}$$
すると
$$Y=k \textrm{log}S-k\textrm{log}S_{0} \qquad ∴ Y=k\textrm{log}\frac{S}{S_{0}}$$
グラフを描くとこうなる(☞ウェーバー・フェフィナーの法則)。

Sが大きくなるとYはあまり増えなくなるわけ。これでますます刺激が欲しくなってアディクションにハマる。あるいはきぬた先生のように不感症になる。Sが300万から600万に増えるあたりがもっとも満足度Yの変化率が大きかったのでしょう。
人生を楽しむコツはYの変化率が大きいSの範囲で生きることね。かくしてもぼくは普段は粗食、ちょこちょこっとフルコースを楽しんでおります(昨日はゲストさんと二人で二万円ちょっとでした)
ちなみに朝はHuelパウダーをスポドリに溶かして各種ヴィタミンとサプリ、ベジジュースだけ。昼はカップラーメンかおにぎり、あるいはバーガーか牛丼。夜は奥さんの手作り料理だけど、ご飯は二人で二日で一合。満腹感はタイムラグがあるから、腹は七分目くらいで抑える。だからいまだに体型は崩れていません、ハハ

久しぶりに秋晴れ、で、六本木のミッドタウンでちょっと見栄を張って鉄板焼きなどを。








ちょっとお洒落なここ、リピーターになろう。アライバル・サービスはセルフ・メイド・カクテル、ポップコーンなども楽しめる。





温泉はごく普通だが、ルームに露天がついている。食事は建物のイメージに反して和風、これは洋風とチョイスできれば良いかもしれない。





帰りは河口湖でまったりと思ったが、雨でアウト。山中湖で軽くランチを摂り、高速では味気ないので、R314をふらふらとしながら、途中で道志村の吊り橋を体験。高さ50Mほどの原始的な造りで、けっこう怖かった。普段通らない道ではオモシロイものを見出すことができる。



極私的には温泉がないと生きていけない(オーバーだろの声が)。いや人生のかなり大切な楽しみの一つである。次回は12月、さてどこにしようか。こうやってあれこれ考えつつ探すのも楽しみなのだ。

今回の同級会参加の諏訪訪問は取り壊された家屋の跡地を確認する目的もあった。また下諏訪の街並みの寂れ方がいっそう進んだことも確認した。駅前のかつて養老の瀧だった家屋はほぼ廃屋、土産物屋に何もない。駅前がこれでは観光客もノレない。




諏訪原人はボールペンの精密バネのシェアが100%とか喧伝していたが、確かにミクロでは精密加工の優れた技術がある。が、マクロ視点がまったく欠如している。経済はミクロとマクロの両視点が必要なのだ。
なにしろみんながシャッチョーさんになりがたる地域だから統合的(マクロ)政策が打てない。ちまちまとした局所的な動きだけ。かつては諏訪湖一帯の行政区が合併する動きもあったが、俺がオレがの地域性のため、住民投票やってぽしゃったとか。なお、合併運動は一応今もあるようだ(☞https://www.suwagappei.com/)。
かくして新生児数が81名(!)って、小学校はふたつあるが、いずれどちらかが廃校になるだろう。東京に役場職員が出張して移住オルグをかけてるらしい(極私的にはあの地に住むのはやめた方がイイ)。雰囲気的にはかつての夕張市を連想する。90年代に何度も訪れたが、その度に寂れていった。で、ついに財政再建団体に堕ちた。


縄文時代は日本列島の中心、黒曜石で潤い、縄文と弥生が同居していた地域。諏訪大社と御柱祭と御頭祭で盛ってるようなものだ。諏訪人は諏訪湖を囲んで、常に諏訪湖を見つめて生きている。諏訪湖は一種のパワースポット。信玄の菱形の宝箱が埋没してるとかいうロマンもある。雰囲気はガリラヤ湖と実に似ている。
古事記ではタケミナカタの神がタケミカズチの神と相撲して負けて諏訪に逃げて来たとある。これが諏訪大社の祀り神であるが、なんと上社門前の店の現地人は知らなかった。縄文の神と弥生の神が同居して祀られ、さらには宮と寺が同居できる「神宮寺」なるワケワカメなモノまでも存在する。
現地の古い「みしゃぐじ」信仰をヘブル語で解釈すると「イサク由来の蛇神」と読めたり、守屋山で守矢氏が執り行う御頭祭とアブラハムのモリヤ山でのイサク奉献譚との類似性など、観光資源となり得る面白い研究テーマがあるのだが、諏訪原人は決して認めない。おらあたちの神はそんな外国の神じゃねえずら~と、諏訪原人としてのプライドが許さないのだ。かようにこの地は実に閉鎖的かつ排他的なマトリックス空間である。
で、この三年間同級会に出てみたがメンツが10名ほどで固定、話題も・・・以下略。来年の幹事を打診されたが、前にやって懲りたのでお断りした。車山コーナーストーンの佐々木さんも逝ってしまったし、諏訪ともいよいよ縁が遠くなることを意識した今回の訪問であった。まあFBで十分だろう
諏訪に関わる面白いビデオを紹介しておく。この地は外から見るとけっこう興味を引くのだ。

ここはかつて定宿でしたが、最近はちょっとご無沙汰しておりました。一昨年に改装したらしくて、部屋に囲炉裏があったりで、かなり楽しませてもらいました。

最近、鎌倉にはまっており、先週も葉山牛のステーキを食してきたところ。今回はここ、鎌倉の小町通りにある。前々から気になっていたのだが、今回初トライ。



門構えは一見さんはお断り的な感じだが、まったく違って、価格もリーズナブル。十勝蕎麦を自前でこねて、包丁で切っているので、細くて揃っていないが、味は実に美味。甘みがあって、口の中で何ともな幸せ感が広がる。客はせいろだけを目当てに来ているものが多い。
で、いつもの江ノ島へ。江ノ島の浮世絵が展示されていたが、なんともいい雰囲気。そもそも江ノ島はトンボロ現象で陸続きになるのだった。




しかし、中国人が実に多い。彼らによって荒らされることがないように願うところである。

本作品、極私的に好きな京香さんがやややつれた女を演じている作品[1]ぼくの好きなタイプは彼女とか小雪さんね😎。
人間の生と死の不条理、許されざる男と女の関係の切なさ、そして老いと病、派手な展開はないが静かに問いかける作品。

かつて『荒地』なる同人の男たちがひとりの女明子を巡って家庭を壊しつつ、様々な葛藤を経て、人生の夏が過ぎ、秋を迎え、仲間も次々に世を去り、海に向かって座る老いたふたり。
「我々はどこから来ないで、どこへ行かないのか、お前のことばだ」、さらに「我々はどこから来ないで、どこへ行くべきか」
「・・・三田村はどこへ行くのだ」、
「俺たちはずっと荒地を歩いてきた・・・僕たちが生まれた時はすでに荒地だった、そして今も荒地だ・・・」、
「ああ、三田村はどこへ行くんだ」、
「俺か? 俺はもう少し抗ってみる」と・・・。
自分の妻を奪った北沢に対する万感を込めた送別のことばである。
そして時代は昭和天皇の崩御を伝え、北沢は文学賞を受賞。
北沢と明子、寿司屋のカウンターにて、
「何年になるかしらねー、ふたりで初めてお寿司を食べたのは」。
「あきちゃん、あきちゃんはぼくのこと、どう思ってる?」
「あら、そうねー」
「じゃあ、三田村のことはどう思ってる?」
「ふたりは似てるわね」、
「どこが?」
「あなたはぼんやり温ったかいし、三田村はひんやり冷たいし、・・・どっちも気持ちがいいわね」
「なるほどね、あきちゃんといると楽しいね・・・」
と明子を見つめる北沢。間もなく彼はひとり静かに逝った。

人はどこから来て、どこへ行くのか、結婚って何であり、家族とは、といった人類普遍の永遠のテーマを男と女の切ない出会いと別離れ、詩人たちのもがきを通して問いかけている。
スピン的に北沢の若い愛人でナースの亜子が、「あなたを見送るのわたしにさせて」とうめくようにつぶやく場面は泣ける。

本作品は実話に基づくもの。戦中、戦後を生きて、人間とは何か、生とは何かを詩によって追及してきた詩人たちのドラマだ。

しっとりとオトナの鑑賞に堪える作品である。なお、ぼくも一応、詩人である。


ニッポンキ業界は現実を見ることもせず、妄想かつ幻想的「リバイバル音頭」の空回り、牧師らはバベル憲章の下で人集めのため世間のご機嫌伺いに堕し、預言者的働きなどは皆無。
嗚呼、クラゲ国家ニッポンは世界の潮流に漂いつつどこに向かうのか?・・・と古の文豪よろしく憂いてみる。
ちなみに、「Dr.Lukeのバイブルクラス」を始めたのが1999年3月10日。その後Kingdom Fellowshipとなり、今年で26周年を迎えます。生来、怠惰なわたくしがよく続いておりますね。

救援任務において亡くなった5人のご家族や、生き延びた海保の機長とそのご家族のことを考えるとまことに心が痛むところだ。
4.そもそも羽田管制と海保の離着陸プロトコルの祖語の有無は
といったところでしょうか。
いずれにしろ原因は元JAL機長が指摘する通り複数であり、管制、JAL機、海保機の当事者の世界線のもつれ方の不具合が生み出した事態だ。極私的にはAI化が必要となると思う。というか、それが最も適切かつ可能な領域であろう。

新年早々、世界線の交差で大変なことが起きてる2024年。世界線は単に交差するだけではなく、絡み合うこともある。それが人と人の交流、聖書用語では交わり(koinonia;fellowship)だ。エクレシアは「バベル憲章」に生きる者たちではなく、それぞれがイエシュアに直結して生きる有機的生命体。その現場は「教会」と称する建物の中ではなく、家庭であり、職場であり、日常の生活そのものである。一人ひとりがエクレシアの細胞であり、器官であり、それは建物の中の現象でも、社交サロンでもない!
わたしにとって生きるとはキリストである。-Phil 1:21
キリストのために生きるのではなく、To live is Christ. セレブ(集会)では、いわばスピリチュアル・エナジーのチャージを受けるのであり、またビジョンを共有するひとつのセッティングに過ぎない。よって、私たちは「高い会堂を建て、名を挙げて、散らされないようにしよう(大きくしよう)」(Gen 11:4)とする「バベル憲章」とは真逆のスタンスである。絶えず自由に、流動的に、固定化されない。まさにオーガニックである。
極私的には、来る者は拒まず、去る者は追わず。まあ、ニッポンキ業界に不満を持つだけとか、自分の問題解決などを目的として接触してくる人とは長くは続かない。不思議なことに、ただイエシュアのみにフォーカスしている方々とは20年近くか以上のお付き合いがある。YouTubeもPodcastもない、テープをダビングして回す古き良き時代からだ。ここ(FB)にもそのような方々がいて下さる。
また17年以上の交流のある元学生諸君もいる。時に飲んだり、ライブに出かけたりと、お互いの成長を確認しつつ生きている。人生においてこのように世界線を共有できる人々がいて下さることは実に幸いなことだ。互いのボロも受け入れ合いつつ、それが障害とならない熟成されつつある関係。
すでにニッポンキ業界でも、戦後GHQの意向の下で行われてきた「囲い込みの時代」は終わっている。特にコロナ騒動がその囲いを壊した。ある牧師が、最近は信徒が勝手に他の先生のメッセを聴いているので牧会がやりにくい、とぼやいていたが、一言アホ。これがニッポンキ業界のリアルを暴露している。
かつてはぼくのメッセはあちこちの有名どころでも地下でダビングされて回されていたものだが、今や誰でも接点が持てる。囲い込み系牧師がよく「だれだれ先生は危険だから接触しないように」とかお触れを出すことがキ業界の常だったが、それももはやナンセンス。そのようなお達しは逆に興味を深めるし、それに従うような化石オツムとの接触はむしろ丁重にお断りする次第。
ぼくの好きな映画TOPGUNのMavericのセリフ:That’s right, Ice…Man, I am dangerous !
実際、囲い込み系のセンセにはぼくは極めて危険な人物なのだ。しかし、神の言葉(ロゴス)はキリスト教の会、つまり教団や牧師や神父の手の中に束縛はされない。今や、終わりの時代にあって、それは自由に解き放たれている。まことに使徒行伝にこうあるとおりだ:
神の言葉(ロゴス)はますます栄え、広がって行った。-Acts 12:24
「バベル憲章」に立つボクシたちは、何が栄え、何が広がるのか、よく読むべきであろう。
…という次第で、荒れ模様で始まった2024年、これからも倍旧ヨロシクお付き合いの程、お願い申し上げたてまつる次第でございます(時代劇かよ!)。

本日の1209にこれを送信した。その後、韓国で野党の政治家が刺され、JAL機の炎上事故と。2024年、波乱の年明け、この分ではまだまだ続く悪寒がします。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
元日、小生は江ノ島にて遊んでおりましたが、なんだかゆらゆらと。あれ?めまいか?
と思ってますと、新潟方面が大変なことになっておりました。
現地のみなさまは大丈夫でありましょうか?
私たちは昨年は「想思創造」、今年は「突破」をスローガンに掲げてますが、
世はどうもかなり揺るがされる年になりそうな感じがします。
わたしはもう一度天と地をゆるがす。-ハガイ書
その中で主を見出される人が起こされることを祈ります。
さて、新年は7日からセレブを再開いたします。
- 時間:1300-1630
- 場所:関内北口前セルテ901(時に801)
それでは2024年もプリプリピカピカツヤツヤキラキラで✨
GBU!
Dr.Luke Karasawa
090-1760-6840
https://blog.dr-luke.com

本年もお世話になりました。2024年もよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
これは2024年の映像のカバーデザインです😊
