イエシュアは御名と御父を100%現された-イエシュア・ハ・メシアの啓示-

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。-John 17:6

イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」-John 8:58

イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。-John 14:9

「わたしはある」とはいる/いないの問題ではない。モーセに対してYHWHはこう出現された:

モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖のエロヒムが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。 

エロヒムはモーセに言われた、「わたしは、有って有る」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。 

エロヒムはまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖のYHWHエロヒム、アブラハムのエロヒム、イサクのエロヒム、ヤコブのエロヒムが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。 -Exo 3:13-15

YHWHとはヘブル語ではこうなる:

これはヘロデがイエシュアの罪状書きに記したセリフであるが、律法学者たちはこれを見て慌てふためいたのだ。なにしろそこには「ヨッド・ヘイ・ヴァヴ・ヘイ」とあったからだ。それはI-AM(ありてある)のとこしえの名。しかもそれは呼び名なのだ。

ありてあるとはI-AM-THAT-I-AM。ヘブル語では-

すなわちイエシュアとは「YHWHがわが救い」の意味であるから、イエシュアを呼ぶとき、I-AMを呼んでいるのだ[1] … Continue reading。その名はすでにイエシュアにより明らかにされた御名であり、呼び名である。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神があるもの(原語)であること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。-Heb 11:6

実はサタンは御名を憎悪しておりかつ同時に恐れている。だからクリスチャンの口を塞ぐのだ。そもそもエクレシアの可視的定義は-

コリントにある神のエクレシアへ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。-1Cor 1:2

HRBではもっと明確である-

to the Congregation of YAHWEH which is in Corinth, those having been sanctified in Messiah Yahshua, called out saints, with all those calling on the name of our Master Yahshua Messiah in every place, both theirs and ours:

サタンは自分を隠すことによりその仕業をなす。正体を暴かれることを最も恐れる。当時はキリストVS.ユダヤ教の対立、現代ではキリストVS.宗教体系化されたキリスト教。ペルガモでサタンの座が入り込んでいるわけで、あの者が自分を隠すには最適の場所がキリスト教である。彼の隠れ家としては最適だ(☞エクレシアの歴史について)。

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。-Rev 2:13

この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。-Rev 2:20

またイゼベルについては-

彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』-Rev 18:7

と暴露されており、彼女はやもめであることを認めがたいのだ。そこでイゼベルはキリストの花嫁であるエクレシアを詐称し、それを自分の足下に置きたいのだ。主ご自身が裁くであろう(Rev 2:16)。

私たちはイエシュアの証人である(Acts 1:8)。イエシュアはすでにご自分をI-AMであると御名を明らかにされている。同時にイエシュアは100%父を露わにされた。ここでいつもながら「黙示録」なる訳語が悪い、「啓示録」である。啓示とは開かれたもの。すでに何も隠されていない。ゆえにそれはイエス・キリストの啓示である(Rev 1:1)。

ボクシの説教でも「かみっさまわ~」が連呼される現代おいて、生の御名を回復する必要がある御名は生きている![2] … Continue reading

自分を隠したい霊はサタンの霊。イエシュアは私たちを通してご自身を現されるのだから。イエシュアはその肉体を通してYHWHエロヒムを現された。私たちはその肉体を通してそのイエシュアを現す。こうしてI-AMが私たちの肉体を通して表現される[3] … Continue reading。これがエウセベイアの神秘である。われわれの霊は魂を肉体を通じて聖霊とブレントされつつ流れ出る。

われわれの体は文字どおりキリストの体である。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。-1Cor 6:20 

現経綸の体でもこれが可能だ。いわんや次の経綸において得る霊の体はどれほどであろうか!?

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。-Phil 3:21

一瞬にそれはトランスフォームされるのだ(1Cor 15:52)。これこそが私たちの究極の希望。

主よ、来たりませ!

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1 よく聖霊派あたりでは、聖霊様~とやったり、父なる神様、子なるキリスト様、聖霊様と三者に義理立てるとか説教するボクシもいるが、イエシュアはYHWHが救い、すなわち父・子・聖霊をすべて含む名である! イエシュアを呼べばI-AMを呼んでいるのだよ。
2 アメリカでもオバマ時代においてJesusの名を消し去ることがなされた。彼らにとって実に目障りなのだ。しかし私たちにとっては甘い御名であり、呼び求めるときにはエクスタシーに包まれる名である。ここで霊の本質が明らかにされる。
3 肉体そのものが汚れているとするのはグノーシスである。彼らはイエシュアが汚れた肉体を持つはずがないとして、あのイエシュアは仮の姿であるとした(仮現論)。これに対してヨハネは「わたしたちが見てさわったもの」として明確にイエシュアの物質性を証しされている。パウロも「御子は、肉によればダビデの子孫」とし、霊的には「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と証言する(Rom 1:2-4)。

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