良心の真の意味-コ・パーセプションによる認知革命-

わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。-2Cor 2:10-11

神は人の内に霊を造られた(Job 33:4)。霊は内なる神の光。その霊は人の心の奥深くも知る。実は自分の霊は自分のことをよく知っている。が、人の心は歪んでいる(Jer 17:9)。その真実から逃れるために、実にいろいろな企てをする。自分が満たされていること、自分には信仰があることなどを、自分で証明しようとして・・・・。ああ、それ自体、自分の内なる空虚を証明しているではないか。そのような作為は、自分の真実から逃れるための哀しきもがきなのだ。自分が霊的に空虚であることを認め、あらゆる取り繕いを放棄して、真に頭を垂れた者は幸いだ。

聖書で「良心」(これは現代用語である)と訳された単語はsuneidesis、sun(with)+eido(percept)、つまり「共同知覚」だ。英語ではco-perceptionである。私の霊と御霊が共に証しすることだ(Rom 8:16)。岩波訳では「内奥の意識」と訳している。マラキ書では「霊の名残」とも(Mal 2:15)。それは聖霊と共なる知覚であり、霊の感覚である。よってヘブル書では「感覚により善と悪を識別する」とあるのだ(Heb 5:11)。感覚はもちろん生命現象である

ちなみに、新改訳(訳のバイアスが多すぎる)ではpneumaをほぼすべて「御霊」と訳すが、pneumaが聖霊と明示されている箇所は20数か所であり、他は人の霊か聖霊かの判別が難しい。新共同訳は聖霊と思われるものを”霊”と表現しているが、それは訳者にとって「思われた」だけだから要注意。真理は、両者は区別ができない、のだ。

例えば、2コリント4:13(2Cor 4:13)の”spirit of faith”についてVincentは

Spirit of faith: not distinctly the Holy Spirit, nor, on the other hand, a human faculty or disposition, but blending both; faith as a gift of the Spirit of God.

と注解する。私の霊と聖霊がブレンドされていると。そもそもフェイスは霊、スピリットである。「使徒信条告白~、われはナントカを信ず~」などは単なる式文だ。霊的リアリティ(サブスタンス)を知覚(eido)し、また感覚(aisthētērion)すること、これが霊の機能であり、そのリアリティに沿って生きることがニュークリーチャーの標準。

そしてそれを外すことが罪、つまりハマルティア(的外れ)。それはいわゆる善悪とは関係ない。善を行ってもこの標準を外れるならば立派な罪である。そこでメタイノイア(思い改め)、すなわちマインドの方向を主に向かって変えることが求められるのだ。それはスピリチュアル・ターゲットに照準を据えることである。

主に結合される者は主とひとつの霊になるのである。-1Cor 6:17

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