罪とはハマルティア=的外れ=である-善と悪を知る木からいのちの木への跳躍-

すでに書いた記事群とかぶるかもしれないが、重要な論点なので繰り返しておく。前に次のような記事を書いた:

人類の悲惨はすでにYHWHエロヒムの型と様に創造されており、あとはいのちの木(非受造のZOE)の実を食すれば、ちょうど手の型と様に作られた手袋に実体なる手が入るように、アダムは完成されたはずだった。しかし蛇はその”すでに”に対して疑問を持たせ、善と悪を知ることによりYHWHエロヒムのようになれると誘惑したのだった。サタンは常に不足を訴える。対してスピリチュアル・リアリティに生きるフェイスは満足を得る。

キリスト教なる宗教はつねに、もっときよく、もっと善行をなし、もっと信仰に励み、もっと奉仕をし、もっと伝道し、もっと大きな会堂を建て、もっと、もっと・・・とニンジンを鼻先にぶら下げられた馬のごとくに煽るのだ。それはまさに善と悪の知識の木の道にある宗教マトリックスである。

モーセを通して律法が与えられたが、これも善と悪を知る道の上においてであった。それはアブラハムに種(単数形)の約束が与えられて430年後であり、その約束は律法により無効とされなかった(Gal 3:16-17)。すなわちYHWHエロヒムの意図は当初より、律法ではなく種=キリスト=にあったのだ。そのキリストはご自身の肉体を裂いて封鎖されていたいのちの木への道となられ(John 14:6;Heb 10:20)、フェイスする者はこの道へリープ(跳躍)する。すると律法ではなく、いのちの御霊の法則が働き、この新しい法が内在化されてそのうちに生きるとき、律法の要求は自ずと満たされる(Rom 8:2-4)。

ある人が言っていた:地獄への道は人の善意で舗装されている、と。この点、あのオウム事件で活躍した上祐史浩氏が面白い指摘をしている

「ストイックな価値観・生活をしたいと考えている人は一定数いるが、しかし、今の若者たちがそんな修行に耐えうるかと考えると、やはり時代が変わり宗教の必要性は薄れているのだろう」
「人類の脳構造から、善悪の概念を考えすぎると、悪を正して善を行うという善悪二元論が生まれる。しかし、それは時に逆転して、戦争が正当化されてしまうことさえある」
「“自分が善人になりたい”という過度な欲求を持ちすぎない方が良いのだろう」

この「自分が善人になりたい」という過度な欲求こそキリスト教をはじめとする宗教の動機である。それはすなわち不足の感覚。自分の状態がどうであるか、これが神に受け入れられる測り縄と勘違いしているのだ。プロテスタントの根本的誤りは自分をセンターにおいて、「律法を行うことによるのではなく、御子を信じる信仰によって救われる」と説く。主語は誰か? そう、私である。よって常に自分の信仰、自分の正しさ、自分の信条、自分のきよさ、自分の忠実さ・・・と絶えず自分を外なる法(しばしば聖句)に照らして測り続ける。自分が恵みから落ちていることに気が付かないのだ。

恵みとはそれに値しない者が無代価で得ることができるものである。それは自分から意識が離れるときに働く。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。-Rom 5:15-21

ここには「私」の要素は全くない。ロマ書7章と比べてほしい。7章においてパウロは律法を行いたいとする思いの法則に従って私がしようとすればするほどできないと叫ぶ。ゆえに罪々を犯すのは私ではなく内なる罪であることを見出し、罪と死の法則に拘束されていることに気づく。この三種類のLawsにパウロは閉じ込められていた。そして彼は叫ぶ、誰がこの死の体から救ってくれるのか?と。

ついに8章に至り、彼はいのちの御霊の法則が彼を罪と死の法則から解放することを見出す。それ以降、彼の文章には「私」がどうのは出てこない。まさに私がどうのこうのではなく、法則が彼を引き上げるのだ。

私(セルフ)からの解放-道元はいのちのレベルこそ異なるが(彼はアダムのいのちのレベルである)、こう言っている:

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり

自己から離れ法に委ねることを心身脱落と言う。そして

人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり

初信者は法を外に求めてその周囲をぐるぐる回るだけだが、法と一体となりその中に生きるようになるとき法がその人になってくれると言う。法の実体とはまさにキリストである。ゆえに―

生きているのは、もはや、わたしではないキリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の(属格)信(フェイス)のうちに(en)生きているのである。-Gal 2:20[1] … Continue reading

かくしてパウロはキリストとエクレシアを同一視する。

そしてこう証しする―

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。-Phil 1:21

キリストのために生きるのではない。生きることそのものがキリストなのだ! それはいのちの木の路線にあってスーパーナチュラルに生きること(上図参照)。

この時、善と悪の感覚が洗練され、キリストの判断が私の魂のうちに再現する:

固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
-Heb 5:14

感覚はもちろん生命現象であり、これは上祐氏が指摘するように、しばしば倒錯へと至る善と悪の概念などではない。YHWHエロヒムの的を得た感覚による判断である。対して、たとえ人間的に善と見えるものであれ(例えばPCなど)、YHWHエロヒムの基準にハマらないものは罪である。人は肉によっても善をなし得るのだ。これがキリスト教を含む諸宗教である。

善と悪を知る知識の木の実を摂る誘因は、「神のようになれる」という蛇のささやきであった(Gen 3:5)。この誘惑は今日においても強い。カルトへの誘いもここにあることを上の上祐氏との対談相手もこう指摘する:

人間の深層心理や善悪二元論の盲点については、統一教会問題みならず現在の世界が抱えるさまざまな課題に通じるものがありそうだ。また、酒生氏は住職としての立場から「人間が自分自身を神だと拝ませる“偶像崇拝”にも問題点がある」と指摘。文鮮明や池田大作のようにカリスマ性と絶対的な権力を持つ創始者がいると「盲信・狂信の信仰に陥りやすくなる」と断じた。

この誘惑に対してニュークリーチャーであるわれわれはいかに対応すべきであろうか。回答はすでに明らかであろう:

わたしたちはYHWHエロヒムの型と様に従って創造されており、しかもいのちを与える霊となられたキリストが聖霊によって私の実質として内住され、すでにエロヒム属とされているのだ

宗教の誘惑は「まだこれから」モード、フェイスは「すでに」モードである。Not-Yet-modeからAlready-modeへの転換こそ、まことのメタノイア=思い改め=である。

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1 ここには、わたしではなくキリストと言いつつ、肉にあって生きるわたしも存在することを示している。すなわち霊的領域と物理的領域のデュアリティに生きているのだ。

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