呪いと裁きの善悪二元論の道から祝福と恵みのいのちの一元論の道へ回帰せよ-聖書と歎異抄の共通項-

FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である[1] … Continue reading。人に誤りを指摘することと、人に真理を得させることは別のことである、と。まさに律法と恵みの致命的相違である。

YHWHエロヒムはエデンの園の中央に二本の木を植えた。善と悪を知る知識の木といのちの木だ。アダムとエバの行為は繰り返すまでもないが、その結果として彼らはYHWHエロヒムのように「善と悪を知る者」になった(Gen 3:22)。そしてYHWHエロヒムは彼らが罪を得たまま永遠に生きることがないようにいのちの木への道を遮断された(Gen 3:24)。

アブラハムに対する約束は律法を超えてひとつの種、すなわちキリストだったのだ(Gal 3:16)。律法はアブラハムの430年後にモーセを通して天使らを介して与えられたが、アブラハムへの約束を無にすることはなかった(Gal 3:17)。パウロは「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです」(Gal 3:20)と指摘している。つまり律法は「人が神に従うならば神の祝福を得る」という双務契約であるが、恵みは「神がすべてをなす」という片務契約である。

ゆえにYHWHのロゴスたる方が物質化されて人となられた、つまり両当事者となってくださった(主客一体)。イエシュアは神・人(God-Man)である。これが恵みである。

そしてキリストたるイエシュアは死と復活を経て命を与える霊となられ(1Cor 15:45)、今やわれわれのうちに住まう(1John 4:13)。生きているのはもはやわたしではなくキリスト、肉にあって生きるわたしは御子のフェイスにあって生きる(Gal 2:20)。最初の「生きているキリスト」はスーパーナチュラルなスピリチュアル・リアリティ、「肉にあって生きている私」はナチュラルなフィジカル・リアリティだ。つまりわれわれはデュアル・アインデンティを有している[2] … Continue reading

さて、ひるがえってわが国の親鸞の『歎異抄』にいわく、

みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。

要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ(苦行の道)。かくして親鸞の結論は

弥陀[3] … Continue readingの誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。親鸞はそれを易行という。聖書的にはイエシュアのいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。まさにガラテヤ書の言うところである。これが神の国に生きるコツ。絶えず善悪の基準で計らって生きることは死の道、呪いと裁きの道、いのちで生きることは赦しと祝福の道である。

また親鸞は「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言ったが、イエシュアも言われる、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(Matt 9:13)。つまり「正しい人」は招かれないのだ。なんという神の逆説。

宗教の道にある人は自力により善悪を判断して、罪を犯さないように、キリスト教徒として正しく立派な振る舞いをして生きようとする(自力本願)。つまり招かれていないことを心底では知っているゆえに努めるのだ。しかし招かれていることを知っている人はそのようなモガキはしない。弥陀の誓願ならぬ神の意志により助けまいらされるからである(他力本願)。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。-Eph 1:4;2:8

ちなみに道元も自身の作為によらず法に乗る生き方をこう書いている、

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。-正法眼蔵現成公案

そしてわれらの主はこう言われる:

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。

鍵は魂の努めによらず、自己を忘れ、自己から離れること。まことに心身脱落・脱落心身するとき、いのちの御霊の法則が作動するのだ。すると、律法の要求も満たされる(Rom 8:4)。お分かりだろうか。それはうちなるキリストが働き出てくださることである。かくして主は言われる、

わたしが生きるのであなた方も生きる。-John 14:19

律法は単に善悪を指摘するだけであるが、キリストはその実体としてうちに生きている。まさにJohn Rockの言葉通りであろう。罪を指摘するのではなく(Rom 8:1)、義としてくださった(2Cor 5:12)。うちなるいのちなるキリストが生き出てくださること。そのために神であるロゴスは人となり(ヒュポスタティック・ユニオン)、両当事者として債権債務関係を全うしてくださった(Col 2:14)。まさに主客一体のリアリティーである。ウォッチマン・ニーは「われわれは自発的にキリストを私とせよ」と言っているが、まさにこのことである。

かくして今、うちなるキリストはフェイスにより実体化される。

フェイスのうちにあることを確認せよ、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。-1Cor 13:5(私改)

フェイスによってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。-Eph 3:17

フェイスの道は神の誓願(御心)により、うちなるキリストに助けまいらされる道、平安と安息、そして満足の道である。

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References

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1 彼は経験論的認識論を提唱。人は生まれたままではタブララサ(白板)であり、経験により世界を認識するとする。対象そのものが持つ性質を第一性質、主観的なそれを第二性質とし、第二性質のみをわれわれは知るとした。現代的にはクオリアである。光の本質はある波長の電磁波であるが、脳はそれを色として構成する。まさに「色即是空」だ。
2 パウロは死の体から解放されて神に感謝すると叫んだ後、自分は肉では罪に仕えており、マインド(原語)では律法に仕えていると証言している(Rom 7:25)。
3 仏教はもともと礼拝対象を持たない。釈迦も人間であり、自分を礼拝するなと命じており、葬式などにも関わるなと戒めている。「弥陀」とか「法」と言うのは宇宙の法則。禅者はアダムにある人間の自然な法則に従って生きることを志向するわけだ。自分のはからいをやめて(=心身脱落)、「万法に証せられる」わけ。しかしキリストのいのちは得てはいないし、私たちの意味では救われない。救いはイエスの名によることは言わずもがなだ。その意味でユダヤ教が実体たるキリストの影であったように、「弥陀」も真理の「影」と言える。

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