神のゲノスたるヒトがZoeを分与された新創造こそが真のホモ・デウスである

以前にも紹介したユバル・ハラリ氏の『ホモ・デウス』。

認知革命、農業革命、科学革命を経て、人類はそのテクノロジーを駆使して「神」になるとするシナリオだ。アウトラインはこちらを参照のこと。

エデンの園における蛇の誘惑は「善悪を知る知識の木の実を摂れば神(エロヒム)のように善悪を知る者になれる」だった。エバが見ると、その木は食べるに良く、見るに良く-ここまでは他の木々も同じ-、さらに賢くするように(この属性は他の木々にはない)エバの思いには映ったのだ(Gen 3:5-6)。

ここでポイントは何か。「神(エロヒム)のようになれる」とサタンは唆したが、実は、他の生物は種に従って創造されたのだが、YHWHエロヒムはアダムをわれわれ(エロヒム)の型(image)と様(likeness)に従って創造される意図だった。とりあえずは神の型(image)に従って創造された(Gen 1:27)。その実質であるいのちの木の実を摂れば、文字通りYHWHエロヒムの様も得られたのだった。が、蛇は先取りして、創造の時点ですでに神の型であった人をしていのちの木の実を摂ることを妨げたのだ。すなわちサタンは人を幻惑し、YHWHエロヒムの本来の意図を無効にすべく誘惑したのだ。

かくして人はあたかも手の型に作られた手袋のように、内実を喪失したまま自らの肉体と魂をもって生きる状態に落とされた[1] … Continue reading。この在り方と生き方を肉(flesh)とパウロは呼ぶ。

さて、パウロはアテネにおいて詩人の言葉を引き、福音をこう宣べ伝えている―

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。-Acts 17:26-29

ここの子孫とは”genos”である。Strongはこう説いている-

From G1096(ginomai); “kin” (abstractly or concretely, literally or figuratively, individually or collectively): – born, country (-man), diversity, generation, kind (-red), nation, offspring, stock.

すなわち血縁、親族、同族として生まれた種族あるいは存在である。問題は内実を喪失したままであること。手袋には手が入れば本来の機能を発揮し、存在意義を発揮する。神の子孫である人も、その内実である神のいのち(Zoe)を得れば、本来の機能と存在意義を再獲得できるのだ。そのためにイエシュアは自らの肉体を裂いて生けるいのちの道となられ、生ける天からのパンとして、またいのちを与える霊として私たちのうちに永遠の霊のいのちを分与してくださったのだ(1John 3:24)。

彼の戒めを守るものは彼の中に留まり、彼もまたその人のうちに留まる。ここから彼が私たちのうちにおられることを知るのである。〔すなわち〕彼が私たちに分け与えてくださった霊によって。-1John 3:24(岩波訳)

そのいのちとはキリストご自身である。

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:3-4

かくしてYHWHエロヒムの型に創造されて、一度はその様(内実)を失った人も、イエシュアの成し遂げられた御業にフェイスによって与かるとき、その内実である永遠のいのち(Zoe)を得て、YHWHエロヒムの型と様へと回復されるのだ。すなわち、新創造であるわれわれニューマンは、キリストにあるニュークリーチャー、われわれこそがホモ・デウスの体現者である。ゆえにもはや(もともとだが)、神のようになろうと努める必要は全くない。すでにYHWHエロヒムの型と様を得ているからである。

サタンの誘惑の本質はYHWHエロヒムのパースンと意図と業を否定することだ。この意味で昨今のイーロン・マスクやピーター・トゥールの唱えるトランスヒューマニズムもその延長線上にあると言える。それはあくまでも善悪を知る知識の木の実による試みだ。しかるにわれわれはすでにトランスヒューマニズムの実体であることを知り、かつ味わい、かつ体現すること。これが「生きることはキリストである[2] … Continue readingというパウロの証しの意味である(Phil 1:21)。

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1 数学の天才にしてクリスチャンであったパスカルは、人はイエス・キリスト以外では埋めることのできない空洞をうちに抱えている、と述べている。
2 キリストのために生きるとか、神のために生きるのではない。生きることがキリストである。つまり私たちの生そのものがキリストの体現なのだ(☞「エウセベイアの奥儀」参照)。

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