詩編19編14節にみられる新約の異言のプロトタイプ-higgâyôn-

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。 –Ps 19:14

邦語訳訳では原語に含まれる豊かな意味が抜け落ちることは常に指摘している。時にはまったく邦誤訳であるが。ここの「思い」と訳された単語は、KJVなどの英訳はほとんど”meditation”と訳している。CLVは”soliloquy ”、すなわち「独り言」である。

実はこのヘブライ語は”הגּיון”であり、英語表記では”higgâyôn”となる。そしてその意味は-

Strong-a murmuring sound, that is, a musical notation (probably similar to the moder affettuoso to indicate solemnity of movement); by implication a machination: – device, Higgaion, meditation, solemn sound.

では、つぶやき、あるいは独白であるが、音楽、音響を伴うのだ。

EBD-in Ps. 92:3 means the murmuring tone of the harp. In Ps. 9:16 it is a musical sign, denoting probably a pause in the instrumental interlude. In Ps. 19:14 the word is rendered “meditation;” and in Lam. 3:62, “device” (R.V., “imagination”).

では、ハープのつぶやくような音、また黙想、さらに音を出す装置を意味する。R.V.では「イマジネーション」である。

ISBE-The meaning of this word is uncertain. Two interpretations are possible; the one based on an allied Arabic root gives “a deep vibrating sound,” the other derived from the Greek versions of Ps 9:16, where we read higgayon Celah, takes it to mean an instrumental interlude.

では、ふたつの解釈が可能とする:アラブ語源的には「深いバイブレーション・サウンド」、もう一つは詩編9:16のギリシャ語から読むと、ミュージカルの間奏。

AHLV-A murmuring or soft speech while in a continual contemplation over something.

では、何かを熟考する時につぶやくようなソフトな音とする。

以上から分かるように、単に「思い」とすると真の意味が落ちている。それはむしろサウンド、バイブレーションに伴う想念、あるいは想念に伴うサウンド、バイブレーションを意味する。私たちのブレインには一日に数万の想念が去来する。普通は無意識的に流れていくが、こちらに何かのフック(Gk.トポス、足場)があると、特定の想念をつかみ、それに思いを集中する。その結果、不安になったり、恐れたり、焦ったり、喜んだり、楽しく感じたりと感情の反応が続く。

そして祈りに入ると霊が反応し、フェイスの霊がブレンドされるようになる。フェイスはスピリット、霊である(2Cor 4:13)。コリント書のこの聖句についてVincentは次のようにコメントする:

Spirit of faith: not distinctly the Holy Spirit, nor, on the other hand, a human faculty or disposition, but blending both; faith as a gift of the Spirit of God.

フェイスの霊とは聖霊のことをだけを指すのでもなく、また人の霊のことを指すのでもない、神の霊の賜物としての両者の混合(ブレンド)を意味する、とする。つまり私の霊と聖霊がブレンドしたときにフェイスが生まれるのだ。これは通常、”The Inner Witness Of The Spirit”、「聖霊の内的確証」と言われる。これが内に生じるとき、「得た」と分かる。これは理屈ではなく、ただ分かる。よく、”I Know That I Know”と表現される。

ヘブル書にはこうある-

けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。-Heb 4:2(新共同訳)

ここはもっと正確には永井訳が一番よろしい-

されど〔彼等は〕聞きし言(Gk.ロゴス)に信仰を混ぜざりしかば、その聞ける言も彼等を益せざりき。

ギリシャ語は”sugkerannumi”であり、その意味はStrongによると

to commingle, that is, (figuratively) to combine or assimilate: – mix with, temper together.

まさに混ぜることである。私はこれを

<主観的経験=客観的事実×フェイス>あるいは<レーマ=ロゴス×フェイス=霊=いのち>

と表現している。私たちがロゴスに霊を混ぜるとき、霊的な事実は私の主観的経験となり、益となる。

いまフェイスとは望まれるサブスタンス(実質、実体)であり、見ていない(なされた)事実(プラグマ)のエビデンス(現出)である。-Heb 11:1(私訳)

この霊的領域においてYHWHエロヒムがキリストにおいて成就されたリアリティ(サブスタンス)は、ロゴスにフェイスの霊を混ぜるときに、<今・ここ>において私の経験となる。永遠の霊的リアリティが五感において現出するのだ。

かくしてこのブレントする過程において私たちは異言を用いる。祈りは知性によるそれと、霊によるそれがある。

わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。-1Cor 14:14-15

ここの異言とは”glossa”、それは、使徒行伝2章の他国の言語ではかならずしもない。

異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。-1Cor 14:2

お分かりだろうか。パウロは霊でも知性でも祈り、また歌うと証ししている。特に異言は霊によって誰にもわからない神秘を語るものであるする。つまり別に地上にある他国の言語を言うのではない。時に、天使の言語と言われる。この際、天的な音楽的が奏でられるのだ。ゆえに、異言はよく聖霊派でやるような「バラバラバラ、ダダダダ」といった汚いサウンドではなく、美しいメロディを奏でる。まさに詩編にあるヒガイヨン(הגּיון;higgâyôn)である。

それはまたスピリチュアル・バイブレーションでもある。つまりすでに医学的に証明されている通り、異言で祈るとは、言語野をバイパスして霊のバイブレーションをそのままサウンドとして口から発散することである。霊は躍動し、実に気持ちの経験でもある。またどう祈ってよいかわからないときに御霊は呻きをもって祈ってくださるが(Rom 8:26)、この際も、口から文字通り呻きが出るのだ。

かくして、私たちの思いと霊がブレンドされて、音楽的サウンドと口から発散されるとき、それは天の御座の前で炊くかぐわしい香として主の御前に立ち上る。主はそれをかいで満足され、金の壺に蓄えられ、時至ると地にこぼたれる。これが祈りがかなう具体的経験となる(Rev 5:8;8:3-4)。つねに私たちの思いを御前におき、主に願いを捧げつつ、霊の祈りを口に唱えること。時至るとそれは地上に何かを現出させる。

かなえられる祈りのコツは何か? 主はこう言われるのだ-

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉(Gk.レーマ)があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。-John 15:7

そこで私たちにパウロは奨励する―

キリストの言葉(Gk.ロゴス)を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。-Col 3:16

ここでもカギはロゴスと霊の歌のブレンドである。

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