幕屋の奥義-聖所(魂)から至聖所(霊)へ

今回のセミナーでも語ったが、幕屋の構造は霊的な意味を有している-外庭、聖所、至聖所は、それぞれ人の体、魂(知・情・意)、霊に対応する。外庭は体で犯す罪の処理、聖所は光とパンすなわち御言葉の知識といのちの供給、そして霊はYHWHのご臨在。

ここで重要な点は、キリストが十字架にかかられたとき、隔ての幕が上から下まで真っ二つに裂けたこと。また出エジプト記30章(Exo 30:6)では聖所にある香壇が、ヘブル書9章(Heb 9:4)では至聖所にある、と記されていること。

ああ、聖書は矛盾だらけだ・・・と言うことなかれ。これが旧約と新約の本質的差を意味するのだから。

香は祈り(Rev 5:8)、旧約ではレビ系祭司制度の下で祭司たちは外庭(体)と聖所(魂)で祈っただけだが(五感の祈り)、メルキゼデク系祭司制の下にいる新約の私たちの祈りは、垂れ幕が裂かれたことにより、至聖所すなわち霊から立ち上るのだ。


そこは時空と五感を超えたスーパーナチュラルな領域、<今・ここ>に永遠が切り込む世界、永遠のNOWなのだ。詳細はこちらを⇒至聖所について

一見、聖書には矛盾が多いように見える。が、実はそこに隠された真理を知るのは受け取る側の心の状態によるのだ。ジーザスが十字架で死なれたとき、幕屋の隔ての幕は上から下へと裂かれた(Matt 27:51)。人が裂くなら下から上へだ。つまり神ご自身がスーパーナチュラルに裂いたのだ。これはジーザスがご自分の体を裂いたことを意味し、年に一度大祭司のみが入れた至聖所に至る道が開かれた(Heb 10:20)。

祈りも旧約時代はレビ系祭司制度の儀式として外庭と聖所でなされた。それは天の型であり、本体はキリスト(Heb 10:1)。今や聖霊が天を裂いて下り、天は地に介入している(Mark 1:10)。祈りも同じ。新約の祭司である私たちの祈りは今や、至聖所で捧げられるのだ。外庭は体、聖所は魂、そして至聖所は霊を意味する。ゆえに新約では香壇は至聖所にある!(⇒幕屋の秘密@YouTube)


祈りは神の霊と私たちの霊の共鳴。バイブレーションの波長が一致する時、それは神の前に立ち上り、香となるのだ(Rev 5:8)。霊のバイブレーションを魂の知性で言語化すれば知性の祈り、知性をバイパスしてそのまま音声に乗せれば異言となる。


聖書の矛盾―実はそこにディープな秘密が隠されている。(例えば☞聖書の表向きの矛盾は隠された真理のカギ)

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