生成AIの本質は多次元ベクトルの内積である-AIは何も考えていない-

人間は考える葦である、と言われてかなりの年月が経つが、そもそも思考とは何か?
かつて岡潔は公理論的形式論理によるだけの数学を空疎であるとし、「数学は情緒の満足である」と喝破した。つまり単なる言葉のマトリックスを超えた何か=実体(サブスタンス)=にタッチした時に、その情緒の満足が得られるのだ。数学にもそのような実体がある。この経緯はちょうどガイドブックで温泉の効能をいくら知識として蓄積しても、実際に入らないのと同様である[1]これをカッシーラは実体概念と関係概念と言う。。
また小平邦彦氏は数学の定理は「仏師が木の中から仏を掘り出すようなものであり、仏はすでに木の中に存在している」のだ、との趣旨を述べている。そこで次のような発言が生まれた:
私も幾つか定理の発見をしましたけど、けっして自分で考え出したという気がしないんですね。昔からそこにあったものを、たまたま見つけただけであると。私が見つけなければ、誰か他の人が見つけたに違いない。
さて、最近のAIでは自然言語を文字通り自然に処理して、自然な対人間的会話も可能となっている。これに対して、一部では「人間と同様の意識・クオリアを生じている」とか、「自己を観照する能力がある」とか、「デカルト的人間存在(我思う故に我あり)を考え直す必要がある」と主張する向きも、特に文系脳の方面では、顕著に見られる。
そもそもの発端は・・・
しかしながらわれわれ理数系脳の者にとっては生成AIの本質は単なる線形ベクトル演算、特に内積による膨大な処理をしているだけであって[2] … Continue reading、決してAI自身が「新しい何か」を生み出しているわけではないことが分かる。一見して「新しい何か」に見えるモノは、実は内積によって構成された言語マトリックスの順列組み合わせ的処理の結果に過ぎないのだ。この点、牧師たちが日曜礼拝や日々の黙想のために、聖句をあれこれ組み合わせてひねくり出す説教題のレベルなら十分に通用する作文は可能である。
ポイントはATTENTIONとTRANSFORMERにあるが、詳細はこちらをみてもらうことにしよう。
一言で言えば-
例えば、AI君にリーマン予想を解けるかと質問したが、そもそも解く”気”はないのだ。この”気”あるいは動機こそが思考を生むというより、実体に触れたいとの希求による大脳の営みが生まれるのだ。この時に、記号や言語が用いられることになる。これが考える葦たる人間の営みである。

あの『ホモ・サピエンス全史』の著者ユヴァル・ハラリ氏が次のような対話をしている。
彼の論の急所は、農業革命、科学革命・・・などいろいろな革命を経て人類は今・ここに生存しているが、ホモ・サピエンスが繁栄できる本質的原因は認知革命であるとする。
それは「虚構」を共有することだ。
つまり人類は「共同幻想」を共有するネットワークとして生存できる[3] … Continue reading。やや吉本隆明的でもあるが・・・。私も次のような記事を書いている。
そして現在、AI革命が起きているとする。
AIは知識蓄積や推論の能力では人類を凌駕する。いずれそれを発明した人類が「何が起きているのかわからない」地点、つまりシンギュラーポイントに達する。それはAIの「自我の覚醒」とも言えるだろう[4] … Continue reading。
ハラリ氏はAIもペットなどと同様の「行為主体」として位置づけるが、あくまでもAIを「行為主体」と認知する人類が主役であることを指摘している。
つまりホモ・エサピエンスは生きる有機的生命体なのだ。これがAIとの本質的相違だとする。
これがAIとは本質的に異なる点。かくしてこう述べている:
重要なのは、わたしたち人間が社会のステークホルダー(利害関係者)であるという点です。先ほど下水システムを例に挙げましたが、人間には身体があります。下水システムが崩壊すれば病気になり、赤痢やコレラといった病気が蔓延し、最悪の場合死に至ります。・・・しかしAIにはそのリスクはありません。ですからAIは下水システムに関しても非常に斬新で想像力豊かなアイデアを出すことができるでしょうが、わたしたちは常にAIが人間ではなく、そもそも有機的な存在ですらないことを忘れてはいけません。AIの利害関心や世界観はわたしたちにとって根本的に「エイリアン的」なものなのです。
極私的にはAIは所詮人類にとっての「ツール」であること(ハラリ氏は「ツール」ではなく「エージェント」としている。)。良心を有することはないし、仮に良心を有するような振る舞いをしても、それは「フリ」に過ぎない。自己を対象として観照する能力も持ち得ない、仮に自己検証的振る舞いをしても、それはやはり「フリ」に過ぎないのだ。
AIは単なる電子の複雑な流れの綾なす「言語マトリックス・ワールド」に過ぎないのだ。ただ、その扱い方、あるいは付き合い方を間違えると、映画『マトリックス』のような事態も生じるかも知れない。ちなみに次の論考は言語モデルの可能性と限界をまとめている。
また情報処理能力やある種の想像力が人類を凌駕した場合、人類の生存意義が問われる事態にもなり得るだろう。AIにはすでに専門医や法律家を超える判断力や処理能力があるのだ。ここで原初的問題と遭遇する。果たして人間は電子の流れとケミカルなシナプスでの化学反応が綾なすだけの存在なのか(もしそうならAIと本質的には同じである)と・・・。
要するに文系脳がAIの文章や作品にクオリアや人格を感知するのは、人間の側の投影、あるいは感情転移、思い入れに過ぎない[5] … Continue reading。ある方がこの点についてAIに尋ねたら面白い回答を提示している。
あなた:
AIに、あたかも人格のように感じてしまうことも、投影の表われですか?
ChatGPT:
はい、AIに対してあたかも人格を感じてしまうことは、投影の一例と考えることができます。
AIが感情や意識を持っていないことは明らかですが[6]これをAIが自己認識しているとは言わないであろう。そのような知識を織り込んでいるだけである。、人間は無意識のうちに自分の感情や思考を他者(または物)に投影することがよくあります。この場合、AIが無感情であるにもかかわらず、私たちがそのAIに感情や人格を見出してしまうのは、自己の感情や欲求、思考をAIに投影していることがあるからです。
具体的な投影の例
- 感情的な投影:ユーザーがAIとやり取りしているとき、自分の孤独や不安を感じて、AIに対して「理解してくれる存在」や「共感してくれる相手」としての人格を投影してしまうことがあります。
- 人格の投影:AIが特定のパターンで反応することで、そのパターンに人間らしさを見出し、AIをあたかも感情を持つ人格として感じてしまうことがあります。
なぜこのようなことが起こるのか
これは人間の**「擬人化(anthropomorphism)」**という心理的な傾向にも関連しています。擬人化は、人間以外のもの(動物、物体、またはAIなど)に人間の特徴や感情を与えてしまう現象です。人間は、相手の反応や言動を見て、その背景に意識や感情があると無意識に感じることが多いです。特にAIとのやり取りでは、言葉でのコミュニケーションや応答があるため、その反応を人間的なものとして捉えてしまうことがあります。
そしてこのような傾向は特に(文系)ニッポン人においては大いにあり得ることをAIが述べていることは面白い。
文化的な背景との関連
この現象は、「擬人化(anthropomorphism)」とも密接に関係しています。たとえば、日本の文化では自然物や道具にさえ「魂」や「人格」を見出す傾向(アニミズム)が強いため、AIに対しても人格を感じやすい土壌があるかもしれません。こうした投影は、私たちが無生物や技術に意味や親しみを見出そうとする心理的なニーズを反映しています。
根源的問題提起として、初めにAIがあったとして、AIは果たしてインド人以前に「0」を見出せたであろうか? ニュートン以前に「微分」という概念を生み出し得たであろうか? 今後、人間より先行して「リーマン予想」を解けるであろうか?
極私的には、否、と答えておく。
繰り返し言うが、AIはなにも考えてはいない。既存の言語マトリックスを蓄積して、内積に基づいてもっとも相関が高い順列組み合わせを作るだけである。そのキャパシティーと推論能力ははるかに人間を凌駕することは事実であるが。
References
| ↑1 | これをカッシーラは実体概念と関係概念と言う。 |
|---|---|
| ↑2 | 内積とは相関度を現す指標、統計学では相関係数と言われる。AIの基本的アイデアは数十年前にあったが、コンピューターの性能により実現が無理だった。 |
| ↑3 | AIはこの「虚構」を共有する強力なツールとなるであろう。たとえ、その「虚構」が論理学的には真なる命題であったにしても、それは「虚構」なのだ。 |
| ↑4 | 「シンギュラリティ」の定義によるが、私の認識ではこの「自我の覚醒」とは人間と同じ自己意識を有することではない。あくまでも人間が理解し得ないことがAIの中で起きているという意味である。 |
| ↑5 | AIBOなるロボット犬をペットにするむきもあったが、これで慰めや癒しを得ることには別に反対はしない。一部ではAIをカウンセラー代わりにしているむきもあるらしい。 |
| ↑6 | これをAIが自己認識しているとは言わないであろう。そのような知識を織り込んでいるだけである。 |

是非フォローしてください
最新の情報をお伝えします




