自己を忘れ身心脱落して法とひとつになること

この詩は程明道の作品。

左脳からの解放、法に則ること。すると自然と一体となる。テイラー博士の経験と同一なのだ。

書き下し文

 閑來事として 従容ならざるは無し
 睡り覺むれば東窓 日已に紅なり
 萬物靜觀すれば 皆自得
 四時の佳興は 人と同じ
 道は通ず天地 有形の外
 思いは入る風雲 變態の中
 富貴にして淫せず 貧賤にして樂しむ
 男児此に到らば 是豪雄

釈意:官位を離れて閑散たる生活に入ってからというもの、何事においても心はゆったりとしている。ぐっすりした深い眠りから目覚めれば、すでに朝日が東の窓に赤々と差し込んでいる。周囲の事物を静かに眺めると、各々、はまりどころ得てしっくりと収まっている。四季の織り成す心地よい趣は、人と渾然一体となり移り変わっていく。私の信じる道は天地の間にあって浸透し、その無形の思いは風に流れる有形の雲にまで入り込む気分になる。たとえ富んだ者になっても富に耽溺せず、貧しく低い身分でも生きることを楽しめる。男子たる者、このような境地にいたるならば、真の豪雄である。

程明道(1032-1085):中国北宋時代の儒学者。字は伯淳、明道先生と称された。朱子学・陽明学の源流の一人。河南省洛陽出身。名は顥(こう)、字は伯淳(はくじゅん)。幼くして非凡の才あり。諸国を歴任して政治上の功績あるも、王安石に対立して朝廷を去る。のち召されたが任を拒否し、元豊八年に死去。享年54歳。謚(おくりな)は純公。直観により、自然と一体になる経験を尊んだ。すなわち多様な自然現象を秩序づけている法則を「理」と呼び、この理を直観によって把握すべきであると説いた。(Wikiなどより編集)

主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら・・・」-Jer 33:25

神の法則、理に則って生きること、これが安楽な道。道元の心身脱落。逆らわず、もがかず、身も心も任せること。それは即ち、いのちの御霊の法則だ。

すでに何度も道元を紹介している:

仏教にはそもそも礼拝対象なるものはない。つまりご本尊などはないのだ。それは堕落して世俗化された葬式仏教のなれの果ての姿である。まあ、今見てるキリスト教も同じようなものだが。仏教は徹底した現実認識論。だから現代物理学、特に量子論などとも相通ずる部分がある。「色即是空」などはまさにだ。色はブレインが作り出した幻想(クオリアと呼ぶ)である。その物理的サブスタンスは波長の異なる電磁波(同時に光量子)に過ぎない。

ここでのポイントは自己を離れて法に委ねる生き方を説いてる。これを身心脱落という。現代的には中動態的生き方、大脳生理学的にはデフォルトネットワークモードである。老子的には無為自然

人生のすべて諸事象はおのれの心が生み出すものだ。

油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 -Prov 4:23

やはり英訳の方がよろしい:

Keep thy heart with all diligence; for out of it are the issues of life. (KJV)

日本語のガンバルとは「我を張る」ことであり、そこからあまり良いものは出てこない。だから頑な人の人生はヨブのそれの再現となる。散々、自己正当化していた彼も、ついにこう告白する:

わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。 
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。 
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。 
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。 
それでわたしはみずからを退け、ちり灰の中で悔います。-Job 42:2-6

この「悔い」とある単語は”nâcham”、第一義的意味は”console oneself; comfort”である(Strong)。いわゆるニッポンキ業界の「悔い改めよ~」ではなく、「慰められる、宥められる」のだ。自己主張をする向きは実は自分を排除している。ヨブは自分の難点を意識していたのだ。だから必死で三人の友人たちに対して自己防衛をしていた。真に自分自信に対して真実であれば、そのような態度ではなく、もっと自然体、つまり無為自然でいられるのだ。ヨブは最後にその自己防衛をせざる得ない自分から解放されたのだ。

われわれにとっての任せるべき「法」とは、もちろんいのちの御霊の法則である(Rom 8:2)。自己を忘れ、この法に乗る時、自動的にモーセ律法の基準をも満たすのである(Rom 8:4)。かくして再建主義の故富井健氏との対話において、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換であると指摘した。それはWindowsとMS-DOSの関係のように、MS-DOSは廃止されたが、WindowsのカーネルにはMS-DOSも働いていて、Windowsを操作するときにはMS-DOSも使うことである。MS-DOSはコマンドを覚え、かつスペルミスなく打ち込む必要があったが、Windowsはクリックひとつで全自動である。MS-DOSはWindowsによってエミュレートされるのである。

ところがマジメなクリ諸君は、自己を忘れようとして、「自我を十字架につけ~」とか「自己に死のう」とかやり出す。これが肉の罠である。それ自体が肉の働きだからだ。そこでパウロはこう指摘する:

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 -Rom 8:12

明確に書いてある、肉に対する責任はないと。なぜなら-

キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。-Gal 5:24

ここの時制はアオリスト、過去における一回限りの事実である。「肉を十字架につけよう」ではなく、「つけてしまった」ピリオド。これをあえて何度も何度も「悔い改めよ~、自我を十字架につけよ~、自我に死ね~」と生きるクルシチャンたち。まことにこの暑さの中でお疲れ様ではある。

これについて道元はこう言っている:

当初、その「法」を自分の外に求め、その周辺をさ迷うだけであるが、「法」がおのれのうちに正しく伝わる時、それがその人の本分となると。つまり聖書的には、キリストがわたしになるのである。そのキリストこそが「法」であって、キリストがわたしのソウル-ボディを通して生き出てくださること、これがエウセベイアの奥義、キリストをエミュレートすることである。

キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、-Rom 15:18

かくして父と子がひとつであるように(just same)、私たちもひとつとなるのである。これがペリコレーシスの奥義である。

主につく者は主とひとつの霊になる。-1Cor 6:17

法に乗れば、二輪車もコマも倒れない。むしろそれは安定し、倒すことが難しいのだ。法とひとつになること。これが永遠のいのちをエンジョイするカギである✨

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