iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

この記事は有名な天文学者と数学者の説を紹介している。われわれの意識は別の次元に通じていると。
–Paranormal phenomena exists in ANOTHER dimension that 'our consciousness connects with'
PARANORMAL entities that we cannot even comprehend exist in other dimensions that our CONSCIOUSNESS can connect with, an astronomer and mathematician claims.
われわれのブレインは大脳で100億個、小脳まで入れると1,000億個のニューロンのネットワークだ。ニューロン同士はシナプスでつながるが、シナプスは1個のニューロンに1,000から10,000個あるとされる。正確には物理的にはギャップがあり、神経伝達物質が飛び出て情報を伝える。大脳皮質は6層のコラム構造からなる。これだけでほぼ天文学的世界ができる。ブレインは宇宙なのだ。
(図は理研より)
この電流と化学物質の作用が意識を生むと考えられているが(一元論)、そのパラダイムはいまだに不明である。あるいは物質以外の何かとブレインは同期しつつ働いているとする説もある(二元論)。遺伝の仕組みはDNAの4つの塩基配列で決まるが、そのようなセントラルドグマがブレインではまだ見つかっていないのだ。
聖書では
ヤハヴェ・エロヒムは土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きる魂となった。ー創世記2:7
とあるとおり、物質からなる身体(Body)に霊(Spirit)が吹き込まれて生きる魂(Soul)が生成したと啓示している。物質であるブレインと霊との相互作用により魂が生まれたわけ。魂は知性・感情・意志からなるいわゆる精神であり、その原語PshcheはPsychologyの語源である。つまり、聖書は二元論であり、魂はブレインと同期して機能する。
最近、サイエンスにおいてもブレインは一種の受信機であるとの説が提出されている。何かを受信し、それが魂において言語化されたり、映像化されたりするというわけ。これはかなり聖書一致する。
さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。ーエペソ2:1-3
何が死んでいたのか。霊である(⇒堕落とは)。なぜなら肉(身体と魂)と思いは生きているからだ。が、それでもなお、世の霊に従っていた。彼らの中で肉の欲に従っていたのだ。つまり、魂は世の霊を受信し得るわけ。ブレインは何かを受信しているのだ。それが肉、とくにその思いを刺激するのだ。
クリスチャンはヤハヴェ・エロヒムの霊から生まれた霊をもつ新しい創造。ニュー・クリーチャー、新生命体、ネオ・ホモサピエンスである。世の霊は私たちの魂、特に思いにアクセスできるが、霊は聖霊を宿し、父と子なる神、つまりヤハヴェがうちに生きておられる。こうして神の領域にもアクセスできるのだ。
ここでブレインが受信機であることがクローズアップする。ブレインに構築されたネットワークは旧いアダム属の条件付けを受けており、それは五感によるマトリックスである。が、同時に私たちはキリストのマインドをインプラントされている(1Cor 2:16)。このマインドは霊によって受信した神のマインドを言語化したり映像化する。それらを語り出したり、行動に移すとき、神の御心が私たちを通して表現される(⇒霊と魂、体の相互作用について)。このとき、ブレインのネットワークも再構成される。このように、マインドがトランスフォーメーションされ(Rom 12:2)、キリストがうちに形作られる(Gal 4:19 ⇒聖化とは)。
かくしてサイエンスは聖書の啓示に近づいているのだ。聖書は宗教の書などではなく、スピリチュアル・サイエンスの書である。

–Organisms Might Be Quantum Machines
有機体は量子論的マシンである・・・。オモシロい。光合成や渡り鳥の方向探知、さらに人間の臭覚において量子効果が作用している可能性がある。通常、量子効果はミクロの領域においてのみ認められるのだが、これが生命現象というマクロな世界に関係しているのだ。
ひとつの量子が二つの場所に存在し得たり、時間を遡ったり、波であったり粒子だったり、量子の世界は私たちのマインド・マトリックス(=常識)を逸脱する。いわば量子の振る舞いは人間のマインドに対するヤーヴェ・エロヒムのチャレンジ。ジョーシキやロンリとかを超えた世界なのだ。
いわんやエロヒムから生まれた私たちの霊は五感によるクオリアから構築された常識的世界観などをはるかに超える。エクレシアはニュー・クリーチャー、宇宙的新生命体である。われわれはネオ・ホモサピエンス。キリスト教神学などはヤハヴェ・エロヒムをニンゲンの認知フレームに収めんとするきわめて稚拙かつ乱暴な試み。「正統キリスト教神学」や「教義」からエクソダスせよ!
ニッポンキリスト教、この業界はすでに死に体状態。それを改革するとか、リバイバルするとか無意味だ。人間の小賢しいわざなどはまったく無意味だ。一人ひとりのスーパーナチュラルな<フェイスの覚醒>のみが将来を開くのだ。そのためにはクリスチャンよ、業界のつまらん翻訳ものを読むより、まず量子論を学べ、と言いたい。スーパーナチュラルな世界が開ける契機を得るだろう。
Our view or model of the world is based on our five senses and "qualia" composed by our brain. It is mere Matrixes differing from person to person, and their commonly sharable part is called "common sense". But it is not reality. The extreme reality is in our spirit and the Word of God. It is substantiated by our faith. Even biological phenomenon transcend wildly accepted common sense. So it is valid furthermore in spiritual realm. Get out of such Matrix. Faith transcends time and space!!!

ふーむ、中川氏的には聖書が完成している現在、預言は【ない】とまで断言してしまうわけだ・・・。極私的には今も預言は語られて【いる】という立場であるが(カリスマタは今もある)、しかし、このテーマについては警鐘的な意味で同意できるところだ(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Keywords/prophesy.html)。
新約では聖霊はキリストの御霊として各人のうちにキリストを生かすのだ。旧約とは経綸が異なるフェーズに入っている。ゆえに本質的に内なる油に聞くこと。この内なる油は【すべてのこと】について教えるとある(1John 2:20)。外には御言葉があり、必ず内側の言葉と外なる言葉は共鳴するのだ。新約ではこうやって導きを受ける。
「聖霊様~」ってやっている人たちはどうも旧約の神の霊との関わりのレベルに留まっている感じがある。この辺はアンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』やウォッチマン・ニーの"The Communion of the Holy Spirit", (Christian Fellowship Publisher)をお薦めする。正直、「聖霊様~」って、極私的にはついて行けないところだ。私たちは復活したジーザスにフォーカスする。ベニー・ヒンもここに気がついたのだ。聖霊を単独に求めるのは誤りだと。
カギはヨハネ7:39(John 7:39)、通常ここを「御霊はまだ注がれていなかった」と訳すのだが、原文では「御霊はまだ【なかった】」だ。はあ、神の三位一体は永遠でしょう?・・・そう、ここにマーレーが指摘する奥義がある。聖霊は今やキリストの御霊であり、ジーザスのメモリと言葉、そして人格を証する霊。旧約の神の霊とは経綸的に異なっているのだ(詳細は⇒http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Anointing.html)。
一般に聖書の矛盾がある部分には、実はかえって深い霊的意味があるのだ。たとえば、香壇の位置。出エジプト30章(Exo 30:6)では聖所にあるが、ヘブル9章では至聖所だ(Heb 9:4)。なぜ?ここにも旧約と新約の経綸の決定的違いがある(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Topics/mostholy.html)。
香とは私たちの祈り。旧約では聖所で焚かれていたが、新約では至聖所で焚かれるのだ。幕屋にしろ、神殿にしろ、外庭=体、聖所=魂、至聖所=霊の対応があることは今や言うまでもないと思うが、要するに魂の祈りと霊の祈りの違い。新約ではすでに幕は裂かれており、大胆に至聖所に誰もが入れるのだ。
ゆえに霊、すなわち至聖所においては主と直接まみえて、直接聞くのであり、他人から預言をいただくために聖所や外庭に戻る必要などはないのだ!あなたが自身が預言者でしょうに。これが新約のあり方。外庭や聖所、つまり身体的儀式や魂の活動は旧約の世界なのだ。この辺はアンドリュー・マーレーの『至聖所』(パックストン記念霊交会)がエクセレント(今や入手はほぼ無理かもだが・・・)。
結局、ここでも聖霊論の致命的な理解の欠陥、すなわち旧約と新約のフェーズの切り分けができていない点が、この問題の根底にあることが分かる。
参考:預言の霊的機序(http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/prophecy.html)

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。-創世記3:1
この「へび」と訳されたヘブル語は"nachash"。Dr.Heiserによると、この意味がかなり深いのだ。すなわち―
名詞として取ると=ヘビ/動詞として取ると=欺く者/形容詞として取ると=輝く者
となるのだ。これは驚き。が、なぜエバがヘビを恐れることなく、会話をしているのかが理解できる。つまり、その存在はヘビのごとく忍び寄り、輝く様において、エバを欺いたのだった(⇒誘惑の本質について)。ここでヘビについては主ご自身がこう証する:
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。―啓示録12:9
サタンは欺く者であり、彼が偽りを語るときはその本性から語っているのである(John 8:44)。そして彼は元々は神のエデンにおるルシファー、輝ける存在であった。
お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶/かんらん石、縞めのう、碧玉/サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金で/お前に着けられていた。それらはお前が創造された日に整えられた。―エゼキエル28:13
しかし、彼はその美と知恵に溺れ、堕落した(Eze 28:15-19)。
ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。―イザヤ14:12-15
かくして地に密着する存在としてヘビとして描かれている。ヘビは別名Python Spirit。この霊は占いの霊とも言われる(Acts 16:16)。Strongによるとこうある―
(the name of the region where Delphi, the seat of the famous oracle, was located); a Python, that is, (by analogy with the supposed diviner there) inspiration (soothsaying): – divination.
この霊はいわゆるキリスト教界の中においても実質的に「口寄せ」と言える「個人預言」などの形で侵入している。不思議なことにこのような仕業に関わるのは女性であることが多いのだ。
口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。-レビ20:6
男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。―レビ20:27
この罪はかなり深いものであり、行う者も行われる者も厳しい裁きを受ける。パイソンの霊に欺かれてはならない。なぜなら―
しかし、いつもあなたがたの内には、御子から受けた塗り油(原語)がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。-1ヨハネ2:20
占いや口寄せはこの油塗り(anointing)に抵触する。この油塗りに反するのだ、つまりアンチ・キリスト(油塗られた方)。多くのアンチ・キリストはすでにヨハネの時代に現れていた(1John 2:18)。これから出現するあの者はザ・アンチ・キリストである(Matt 24:15)。聖霊は今やキリストの御霊であり(Rom 8:9;1Pet 1:11)、人なるジーザスの中に住まわれたメモリーを有する霊である(⇒御霊と人との関わりについて―油注ぎと油塗り―)。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。-ヨハネ14:26
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。―ヨハネ16:13-15
ゆえにこの油(anointing)に対立する罪とは、聖霊に逆らう罪と言えるのだ(Matt 12:32)。聖霊はキリスト・イエスを証する霊。イエスとは「YHWHはわが救い」の意味。ゆえにその方を拒絶することはイエスを拒絶すること、つまりYHWHがわが救いであることを拒絶することに他ならない。それはきわめて厳粛なことであると言える。

この白黒画像に色彩が生まれる錯覚の画像、実に不思議。私の著書でも書いたが、「色」などの感覚(クオリア)は大脳が作っている。われわれは大脳が作ったクオリアによって構成されたマトリックスをリアリティーと思い込んでいる。そもそも「色」はない! あるのは諸々の振動数の電磁波(光量子)だけ。まさに「色即是空」。
かくしてこの物理的時空間における五感によって感知される諸々の事象(Facts)はすべてマトリックス。それは真理(Truth)ではないのだ。御言葉のみが真理である。それを実体化するのがフェイスである。霊の再生によるフェイスによってのみ真のスピチュアル・リアリティーに生きることができる。
目に見えるものによらず、信によって歩んでいるからです。-2コリント5:7
この聖句の「よって」は”dia”、Strongによると
A primary preposition denoting the channel of an act; through (in very wide applications, local, causal or occasional).
すなわちフェイスはチャネルなのだ。「目に見えるもの」とは”eidos”、すなわち
a view, that is, form (literally or figuratively): – appearance, fashion, shape, sight.
要するに「フォーム、構成されたもの、ここに現れているもの」を言う。私たちの経験はすべて五感によって構成される。これがフォームである。現代的にはクオリア。義人はこれによって歩まない。フェイスというチャネルを用いるのだ。それはすなわちスピリチュアルな世界あるいはサブスタンスを透視し、実体化する新しい能力、シックスセンスである(ヘブル書11:1)。
フェイスの覚醒!
終わりの時代を生きるカギはコレだ!

この記事は面白い。われわれが外界を認知し、認識し、構成する世界モデルは常に世の影響により無意識に書き換えを受けているのだ。
–個人の記憶は無意識のうちに書き換えられていく、「社会への同調」で生まれる「ニセの記憶」
私たちは聖霊のメモリー(=ジーザスの記憶)でマインドを書き換えるわけ。マインドのトランスフォーメーション(メタモルフォーシス)。このときキリストをエミュレートする。生きているのは私ではなく、キリスト。
We Christians are being re-wrote our mind with the memory of the Holy Spirit which is of Jesus Christ. The Holy Spirit reveals not Himself but Jesus to our spirit and remind us of Jesus' words and deeds to glorify Jesus. Then we are being transformed into His likeness. We are not imitator but emulator of Christ, i.e. Christ living in us reveals Himself through our soul and body. It is the New Creature in Christ. We are Neo-Homo-Sapiens!!!
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって造り直され・・・ローマ12:2

TODAY’S CELEBRATION May 07, 2017―御言葉をワークアウトする-
●MSGタイトル:御言葉をワークアウトする ●聖書個所:Gen …
●MSGタイトル:御言葉をワークアウトする
●聖書個所:Gen 26:5;26:12-5;Rom 12:2;2Tim 2:8;2Pet 1:12;3:2など
●2017年5月15日のセレブ:(会場の都合で14日はありません)
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:Kingdom Fellowship®
●YouTube:Dr.Luke's Kingdom Fellowship Celebration
●ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
全国有名書店で発売中
ただ今、どちらも在庫切れです
イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
●楽天にて:最初はとっつきにくかったです。というのは、カタカナ日本語多すぎます!でも、彼のyoutube聞き始めて、とってもおもしろくなってきたので、とうとう読み始めました☆内容は本当にアーメン!(まことにその通り)です☆すばらしいね☆Youtubeと一緒にみるのがおすすめです。

Last Words Spoken by Steve Jobs Before He Died – Inspirational
There was something missing ing …

先にDNAがテレポーテーションすることを紹介した。このテレポーテーションは量子力学のレベルでは東大が実証したことも書いた。DNAは親のDNAが減数分裂して生殖細胞となり(要するに本数が半分になるわけ)、両親からの生殖細胞を得て、23組46本の揃い組となるのだ。この仕組みはまさに巧妙にできているのだが(→こちらにアニメがある)、これまでDNAに新しい情報が書き込まれることはないと考えられていた。あくまでも親のDNAの組み換えや交差による変異だけと考えられていたのだが、なんと昨今、言葉やある種の周波数の振動により新しい情報が書き込まれる可能性が指摘されている。
言葉の大切さは聖書でも指摘するところだ。言葉は私たちの心が信じていることを語りだすもの。主も言われる:
人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。-Matt 12:34
そして事態は私たちの信じたとおりになるのが霊的法則だ(Matt 8:13)。この意味で私たちの精神と人生は言葉によって形成されていく。
人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。-Prov 12:14
よって私たちは自分の口から出る言葉を見張る必要がある。
主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。-Ps 141:3
今回の研究結果は、私たちの言葉によりDNAですら再構成されることが示されたわけ。いやあ、これはオドロキ!またある種の周波数の振動がやはりDNAに影響を与えるわけで、私たちの異言や霊の歌などの意味もひとつにはそこにあるかもしれないと考える次第。自己主張に満ちた汚い異言や霊の歌はご遠慮だが、自分を離れた心地よい異言や霊の歌には何時間でも浸り続けたい。私たちの礼拝は真理と霊によるのだから。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。-Col 3:16
かくして霊の流れに満たされたセレブレーションにおいては、もしかするとDNAも喜んでいるのかもだ。逆に言うと、それほどにDNAの結合エネルギーは微細であり、放射線で容易に切断されることが分かるというもの。
(初出:2011年6月17日)

それはあなたがたが十全な強靭さを得て、キリストの奥義の幅、長さ、高さ、深さがどれほどであるかをすべての聖なる者たちと共に把捉し、人知を超えたキリストの愛を知って、神の全き充満へと満たされるためにである-Eph 3:18-19(岩波訳)
今回のメッセでキリストは領域であると語った。それがどれほどのものであるかを知れとパウロは言う。キリストの奥義のディメンジョンは4次元だ。私たちエクレシアが完成された新エルサレムは立方体。そのサイズは12,000スタディオン。旧約の至聖所も立方体。幕屋では10キュビット、ソロモン神殿では30キュビットだ。神の臨在の場は拡大するのだ。それは完全立体である立方体で象徴される。新エルサレムには神殿はない。太陽も不要。それ自体が神の臨在であり、光を放つのだ(Rev 21:22-23)。つまりわれわれ自身が神の臨在であり、神の光を放つ。イエスが山で変貌された姿はそのことの予告編。
至聖所は私たちの霊を象徴する。その霊は神の息(霊)を分け与えられたもの。つまり神であり、神の臨在そのもの。旧約では幕屋や神殿の奥に隠されていた。今はわれわれの肉の中に隠されている。だからそれはGodlinessの奥義、つまり肉において現される神だ(1Tim 3:16)。しかし新エルサレムはもはやまったく隠されていない。神の霊と私たちの霊とが融合した神の臨在そのものとされる。三なる神と人が共に住まい一体とされた存在。つまり3+1=4次元立方体なのだ!その3次元空間における展開図は、なんと十字架そのもの!つまりキリストの奥義の3次元空間ヘの影が十字架なのだ!あなたにはこのアニメを見て、4次元立方体が見えるだろうか?
参考:聖書が究極的に語ること
クリックしてね♪

体・魂・霊からなる人は罪の結果、霊が死んで、体と魂で生きる存在となった。自分の資源だけで、特に魂を肥大化して生きる様を肉と呼ぶ。救いを受けて、霊がリアクティベーションされたクリスチャンは霊は神の臨在、すなわち至聖所として立方体として完全である。そこには恵みが満ち溢れる。
ヨハネの恵みの上に恵みを与えられたとは、恵みが魂の内に浸透することを意味する。霊から神の霊が魂に浸透する時、魂の傷やひび割れは癒される。こうして魂が健やかに繫栄するほどにあらゆることにおいて繫栄し、神のアバンダントなドュナミス(フォース)が私たちの霊⇒魂⇒体と流れ出る。まことに聖霊は腹から川々となって流れ出るのだ。それは神の栄光を反映し、私たちの人間性において神がエミュレートされる。
●参考:
–霊の機能と魂・体との相互作用について
–真理はあなたを自由にする
追記:至聖所の奥義
幕屋も神殿も至聖所は立方体。それは完全立体。そして新エルサレムも立方体。つまり旧約と教会時代は至聖所は奥まった隠された場所。が、エクレシアの完成である新エルサレムは隠されていない。神の臨在そのもの。だから太陽も月も神殿も不要。神の栄光で輝く。⇒聖書が究極的に語ること(http://www.kingdomfellowship.com/Topics/AllBible.html)
で、3次元立方体の展開図は平面の十字架。4次元立方体(ハイパーキューブ)の展開図はなんと立体の十字架なのだ。つまり十字架が折りたたまれると立方体、すなわち至聖所、神の臨在となるわけ。聖書は数学なのだ。

私たちは神々だ、と今回のメッセで語った。多分にキリスト教神学のオツムにとっては挑発的だろうと思う。が、私は聖書の言葉をそのまま語っているだけだ。今更ながらニッポンキリスト教を相手にするつもりはないが、心ある人々のために一言。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。・・・」-John 10:34-35
神をエミュレートする者となりなさい。-Eph 5:1
私にとって、生きるとはキリストであり・・・。-Phil 1:21
エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です。-Eph 1:21
See? 私たちはキリストのいのちの霊を吹き込まれた新しい創造、新生命体、ニュークリーチャー。それはキリストの充満であるエクレシア。よく読んでほしい<エクレシア=キリストの充満>。<エクレシア=召し出された者たち>、<召し出された者たち=われわれ>。ならば、<われわれ=キリストの充満>。われわれとは誰か? キリストの充満である!
エペソ5:1もよく「神に倣う者となれ」と訳される。神をマネする? できるわけなかろう!それはサルがニンゲンのマネをするようなもの、いのちのレベルが異なるのだ。キリスト教徒が神のマネをする。これこそ滑稽であろう。この単語は"mimétés"、語源は"mimeomai"。その意味は"imitate"あるいは"emulate"。ここでは前者よりも後者がよい。神をエミュレートせよ、と言うわけ。
神はアダム系の私たちをキリストと共に終わらせ、復活させた。聖霊によるいのちを吹き込まれた。私たちの霊は神から生まれた神属の霊。それは罪を決して犯さない。かくして私たちは新創造とされた。はあ? 自分は自分で何も変わっていないですが・・・。こう言う人は騙されている、自分の感覚によって。感覚ではなく御言葉に書いてあることが真理。
メッセでも語ったが、これはちょうど、Windows用のPCにおいてMacのiOSを走らせるようなもの。これをエミュレーション(Emulation)と言う。ハードウエアはWindowsだが、中身はMac。まさにWindowsマシンがMacを体現している。これと同じことが私たちにおいて起きているのだ。われわれのボディと魂(Soul)はアダム系にあって生まれた。その存在に神はキリストの復活のいのちを吹き込まれ、私たちの中でキリストを生かす。キリストをエミュレートするのだ。そのキリストのうちには父が生きており、ジーザスは人であったが、父なる神の言葉を語り、父なる神のわざをなされた。ジーザスご自身が父なる神をエミュレートしたのだ。ゆえに、わたしを見た者は父を見たと宣言された。
神が肉において現出されること―これが「godlinessの奥義(1Tim 3:16)」。ジーザスはそれをデモンストレーションされた。同じことが私たちにもできると言われる。
わたしを信じる者はわたしと同じわざをなし、それよりも大いなるわざをする。わたしが父の元に行くからである。-John 14:2
神は人間性において表現される。なぜ? 人は神の形に創造されたゆえに。人はその実質として内に神を生かす、あるいは神をインストールされるべき存在。そして人間性において神がエミュレーションされるのだ。もっと言えば、ジーザスは父のコピー、エクレシアはジーザスのコピーである。こうして神は人間性において自己増殖されるのだ。言ってみれば、世の者ではないジーザスがわれわれのうちにインプラントされ、われわれも世の者ではない存在とされた。すなわちエイリアンとしてこの地球上において自己増殖する。こうしてサタンが不法占拠しているこの地上において神の国を増殖、繁栄させるのだ。しかもこうある:
神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3
ここも天地の基が置かれたとき、それはすなわち受胎したときであり、その時にすべては完成していた。これが時空間の時系列に現出しているだけ。その完成されたみわざに休むこと。これがフェイスである。罪の赦し、病の癒し、必要の満たし、そして勝利など、すべては安息にある。だから安息の神をエミュレートせよと奨められているのだ。
ジーザスはこのミケランジェロの絵の指先のギャップを埋めてくれたのだ!
⇒神をエミュレートする(YouTube)

私は日本語で聖書の真理を考えるな。それはニッポンキリスト教を生み出すだけだ。言語自体がマトリックスであり、霊的真理をそのマトリックスの回路に乗せて考えてはならないと言ってきている。その最たる例が神の名前である。いわゆる「神」とか"God"とか、最近では「創造主」とかするむきもあるが、同じ罠に陥っている。
In the beginning God created the heaven and the earth.
もちろん創世記1章1節だ。これはKJVだが、このように英語に置き換えた時に、すでに真理は削られている。神はヘブル語の言語体系の中に霊的真理を啓示された。これをHebraic Root Bibleを見るとこうある―
In the beginning Elohim created the heavens and the earth;
英語では"God"とされている単語は"Elohim"、それは複数形。メッセでも語ったが、通常、この複数形は父・子・聖霊の三位格を含意しているとする。現に動詞は単数形で受けている。ところがこの"Elohim"はあちこちに散見するのだ。通常、"gods"とか「神々」と訳され、それは人間が生み出した偶像の神々であるとする。ところがだ、詩編にこうある―
[A Psalm of Asaph.] Elohim stands in the company of the Almighty El; He judges in the midst of Elohim.
Until when will you judge unjustly, and lift up the faces of the wicked? Selah.
Vindicate the poor and fatherless; do justice to the afflicted and needy.
Deliver the poor and needy; and save out of the hand of the wicked.
They neither know nor will understand; they walk in darkness; all the foundations of the earth are shaken.
I have said, You are Elohim, and all of you are sons of the Most High.
But you shall die as men, and fall like one of the rulers.
Rise, O Elohim, judge the earth; for You shall inherit in all the nations.―Ps 82:1-8(HRB)
人間が作り出した偶像の神々ならば、何故会議など開くのだ? 直訳すると―
エロヒムは最も高きエル(単数形)の会議において立ち、エロヒムの間で裁きを行われる(1節)。
わたしは言う、あなたがたはエロヒムだ。最も高き方の息子たちである。しかし、あなたがたは人として死ぬ。支配たちのひとりのように落ちる。起きよ、おお、エロヒム、地を裁け。なぜなら、あなたがたは国々を受け継ぐのだから(6-8節)
この部分を受けて主はこう言われる―
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) -John 10:34-35
と、ましてやご自分が神の子であることを論証している。
さて、ここで問題は、私たちは人ではないか、なぜ神になれるのだ?よく「神化(Theosis)の教理」と呼ばれ、東方教会では普通に信じられている。西方ではいわゆる「聖化」だ。このときに、人が神になる?と考える人のマインドには<神=God>なる等式があるのだ。しかも、その<God=父・子・聖霊の三位格にいまして本質においてはひとりの神>とのマトリックスができている。ゆえに、あり得ない!となるわけ・・・。前に私がウィットネス・リーと同じことを言い出したとコメント欄に書かれた方がいるが、リーは神性と人性を混ぜ合わせて、神格は持たないいのちと性質において神になると言うのだ。まったく違うと言っておく。彼の"mingling(混ぜ合わせ)"の教理はナンセンスだ(こちらを参照)。彼は今や神は四位一体(父・子・聖霊・教会)だ、とまで言っているのだから。
さて、ここでカギになるのは、ジーザスは自分を「わたしはある」と言われた(John 8:58;18:6)。この箇所は日本語訳では間の抜けた表現になっているが、ジーザスは「I AM」と言われたのだ。つまりYHWH!モーセにご自分の名を明かされたとき、主は「わたしはありてある者」と言われた。これが最も高きエロヒムであるYHWHなるお方だ。ポイントがお分かりか?創造主なるお方はエロヒムであり、いろいろおるエロヒムの中の最も高きお方、その御名がYHWHである!
HRBの詩編82章の注にはこうある―
1節について―
A clear description showing the plurality of the Elohim family and Yahweh judging in the heavenly court.
6節について―
It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H'Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim, Joh_10:34, Rom_8:14-17.
一応訳しておくと―罪々を赦され、ファミリーネイムYHWHの中にバプテスマされ、長兄によりルアハ・ハ・コデシュ(聖霊)を受けるために手を置かれ、エロヒムの文字通りの子とされた人類の素晴らしい可能性である。―これが私が、私たちがエロヒムである、と言う意味である。私は「私たちはYHWHである」とは言っていないことに注意してほしい!ヘブル語の回路に入るのだ。「私は神(God)である」と英語や日本語のマトリックスの中で考える人にとっては、トンデモ発言になろうが、それはその人のマインドのマトリックスを顕わにしているに過ぎない。勝手にオツムが空転加熱化するだけである。
私は前々から、私たちの霊は神の霊から生まれ、神のDNAを得ており、それは神聖な存在であり、神属(族)であると言ってきた。まことにこの理解はヘブル語の原典に忠実であったことがHRBやDr.Heiserの著書により、今回、証明されたのだ。いわゆるキリスト教神学、特にニッポンキリスト教のマインド・マトリックスを大きく逸脱する言説とは思うが、彼らが聖書から外れているに過ぎない。私たちはすでに完全であり、神聖な存在、神属人類であり、ニュークリーチャー、新生命体なのだ!それは神をエミュレートする。まったく新しい種であるから、これまでのマインドのフレームをはるかに逸脱する。ゆえに古いフレームから判断することなかれ。それは神の言葉を裁くことになるから。
and to the congregation of the first-born, who are enrolled in heaven and to YAHWEH the judge of all; and to the spirits of the just, who are perfected;-Heb 12:23(HRB)
詩編82編にはエロヒムの会議が描写されていた。そこでは最も高き方(比較表現があること自体が他にエロヒムが存在することを意味するのだ)が裁定を行っている。そしてここのヘブル書においては私たちが得た(完了形!ここも邦語は誤訳)のは、
シオンの山、生ける神(エロヒム)の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神(YHWH)、全うされた義人の霊
なのだ。これもエロヒムの会議である!私たちのいのち(Zoe)はキリストと共に神のうちに隠されている(Col 3:3)。考えて見よ。なぜ不完全な汚れた地的な存在が神のうちに隠されることがあろうか。血肉は神の国には入れない。なおさら、神のうちにあり得るはずがない!私たちの本質は霊であり、それはYHWHなる家名を持つ神属(Elohim)なのだ。われわれ神の霊から生まれた存在は神属人類、エロヒムである!WOW!!!
神の敵、サタンはこのことが開かれることを恐れ、また嫌悪する。ゆえに躍起になってこの真理を攻撃し、封印しようとするのだろう。このことに関して彼は歯ぎしりをする。なぜ?それは彼自身が神になりたかったからだ。ゆえにその嫉妬と妬みが燃えるのだ。確かにこれは挑発的でもある。果たしてあなたはこの真理にアーメンするであろうか、それとも異端・カルト思想として拒絶するであろうか?これによりそれぞれの内にある霊の本質が明らかにされ、その後の霊的歩みを決定するであろう。ルアハ・ハ・コデシュならばそれは大いなる喜びにして、興奮を覚えるはずである。
追記:キリスト教のマトリックスから解放されよ。五感によって見ることなかれ、判断することなかれ。この体は罪を宿す旧創造、また魂はいろいろと欠けがある。が、霊はパーフェクト!聖書はそう言っている。そのパーフェクト性がこの肉において現れるのだ。フェイスにより!ハレルヤ!

今年度のイスラエル独立記念日は西暦の5月1日だった(イヤルの5日)。まあ、ロスチャイルドの陰謀とか、シオニズムの仕業とか、ユダヤ教右翼は認知してないとか、いろいろ異議はありますが。
さて、1948年は・・・もちろんイスラエルの再建。AD70にローマのタイタスによって滅ぼされ、2,000年にわたるディアスポラから約束の地にイスラエルが帰還した日。現代のユダヤ人の定義は必ずしも血統的なものではないので、もちろんそのすべてがアブラハムの子孫ではないだろう。が、この国が神の瞳であることは動かせない霊的事実だ(Zech 2:8)。私は置換神学はとらないし、それは真理ではない。彼らの選びは経綸的選びではあるが、今も有効である(→「教会とイスラエルの関係について」http://www.kingdomfellowship.com/Topics/churchandIsrael.html)。
アブラハムの子孫が外国に囚われた機会は何度かある。一度はエジプトに430年(Exo 12:40)。次はアッシリアによる北王国の崩壊(BC721)、およびバビロンによる南王国の捕囚。このバビロン捕囚はエレミヤなどにより70年間と予言されていた(Jer 25:11)。この期間の数え方は
・BC606年(第1次捕囚 )~536(故国への帰還)の70年
・BC586年(神殿の破壊)~516(神殿の再建)の70年
と複数ある。いずれにしろ、バビロンに捕囚された民の一部が帰還し、大多数はバビロンに残った。バビロンでもそこそこの生活が楽しめたのだ。これは神の国よりもこの世を愛することの象徴であり、レフトビハインドの予型でもある。
さて前者に基づいて次のような計算が成り立つ。エゼキエルに
また、一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て、あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ。
あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。
わたしは彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。その間、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。
あなたがその日数を終えたら、次にまた、あなたの右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした。-Eze 4:3-6
すなわち430日、1日は1年だから430年。ここから従順の年数である70年を引くと360年。レビ記に神は不従順に対しては7倍の裁きを行うとあるゆえに(Lev 26:18)、360×7=2,520年。聖書の1年は360日だから、2,520×360=907,200日。太陽暦に直すと907,200÷365.25=2483.8年。こでBC536年から数えると
-536+2483.8+1=1948.8(紀元0年はないことに注意)
かくしてエゼキエルの予言は、AD70年の世界へのディアスポラ以降消失したイスラエルの1948年の再建国をもって見事に成就しているのだ!(Grant Jeffrey, Armagedon-Appointed With Destiny, 1988)

メッセでも語っているが、ここでも・・・。
アブラハムとサラがすでにその肉体が用をなさなくなってから、神は、サラは来年の今頃イサクを生む、と言われた。サラは笑い、アブラハムに神は迫りつつ、こう言われた:
主に不可能なことがあろうか。-Gen 18:14
ここの「こと」とはdabar、つまり言葉だ。新約において、処女マリアに受胎告知があったとき、マリアは「どうして男の人を知らないのに子供ができるでしょう」と言うと、ガブリエルは言った:
神にできないことは何一つない。-Luke 1:37
ここも訳が不正確と指摘しているが、正確には「語り出された神の言葉(レーマ)にはできないことは何ひとつない」となる。ここでも「こと」とされているが、これはレーマだ。
場面としてはこの二例はほとんど同じ。つまり人にとっては不可能な場面。鍵は何か。神にはすべてが可能であることは当たり前。このふたつの御言葉が言っていることは、神の語り出された言葉があれば、すべては可能であること。もっと言えば、神の言葉があれば、その実体、サブスタンスを得たのだ!サブスタンスとは土台、権利証書の意味もある。誤解を恐れずにさらに言えば、存在とは神の言葉そのものだ。それは"I AM"の実体。
私たちの人生(サブスタンス)もすでに神のノートに書かれている(Ps 139:16)。それがこの物理的時空間の中でひとつひとつ現出する。目の前の個々の事態にうろたえるのが私たちの常であるが、個々の場面で私たちがなすべきことは何か。それは、聞くこと。魂を鎮めて、内なる神の声を聞くこと。神の言葉を得たら、それで完了。すでに得たのだから。
信仰とは、神はこれこれをしてくださる、と信じること、ではない。すでに「得た」。現在完了形。私の病気を癒して下さる、と信じることは失望に終わるだろう。これらの人々は聞いていないのだ。聞くこと、これだけがすべてだ。

人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。-John 6:63
ここの言葉はレーマ。イエスが語り出したレーマは霊であり、命(ゾーエ)であった。かつて私は<レーマ=ロゴス+信仰=霊=いのち>と表現したことがある(あるいは×の方がよいか・・・)。何かを客観的に記述するロゴスに霊が乗るとレーマとして人を生かすのだ。メッセでも語っているが、たとえば、アナウンサーが正確に聖書を朗読しても、それは命を与えない。つまりレーマではない。まして癒しも奇跡も起きるはずもない。あるいは聖書の言葉を語っても、乗っている霊が違っていると、違和感を覚える。正しいことを語っていても、それは平安や安息を生み出すこともないし、命を与えない。
イエスのわざの鍵は内なる父の声を聞き、そのわざをそのとおりに行ったことにあった。イエスの霊(イエスは人としての霊を持っていた)は父の霊と完全にチューニングされていた。そしてその霊とともに父の言葉を語り出した。このレーマがあの数々のわざをなしたのだ。原則は私たちも同じ。内なる父の示される言葉を語り出すこと。これがイエスと同じわざをなし、それ以上のわざをなす秘訣なのだ。
言葉と霊。聖霊によってドライブされた霊を伴って語り出された言葉は霊的領域に波動を生じ、サブスタンスを生み出す。サブスタンスが時系列の中でこの世界に現出すると、私たちが五感で感知できるモノや事象となる。これが祈りがかなう瞬間だ。祈りはこの物理的時空間と霊的領域にポータルを開く。そのポータルが開くとき、私たちは祈りが生きている、通じている、あるいは手応えを感じる。きわめてタンジブルだ。またサブスタンスを語り出すとき、それが急所を突いたと感じることもできる。すると何かが起きるのだ。
現代は言葉が記号化されて、単なるラベルとされているが、ヘブル文化では言葉(dabar)は実体(matter)そのものである。日本の言霊信仰が近いかもしれない。クリスチャンが自分のうちにあるその潜在能力に目覚めることをサタンはもっとも恐れているのだ。現在のキリスト教の有様はとても主イエスが意図された信仰のあり方ではない。人の基準と、世の目を恐れ、世のマインドセットに服しているためだ。クリスチャンは世界をキリストの王権に服させる使命を帯びているのだ。終わりの時代、神は必ずこのような目覚めたクリスチャンたちを興されるであろう。そしてご自身の権威と能力とわざを託して下さる。

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。-1Cor 2:16
私たちのマインドの場(フィールド)がある広がりを有していることを書いた。いわゆる気配とか殺気、あるいは分裂病者のプレコックス感などはこの場が影響するためだ。ちょうど磁石の周りに砂鉄を置くと見ることができる磁場と同様に、私たちのマインドは場を形成している。初対面で理由はないのに「いけ好かない」と感じたり、逆に何年も知っているかのような親しみを覚えたりすることがあるが、これもその場の影響による。磁石のN極同士は反発し、NとSは引き合うように。
私たちはつねにこのような場の中に置かれ、互いに影響されたり、影響を与えたりする。かつての大日本帝国が無謀な戦争に突入した時も、この国家全体がそのような場に置かれたためだ。個人の意見は封殺され、相互監視体制、一億火の玉・・・といった社会の雰囲気が生まれる。最近もややそのような臭いを感じるところではある。敵はこうして世の中を誘導するのだ。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3
彼らは空中の権を持つ者と呼ばれる。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。-Eph 6:12
この「天」とは第三の天ではなく、第二の天である。未信者の場合、自動的にこの霊の場に置かれ、絶えずその影響下にあるのだ。しかも無意識的に。まさか自分が悪の諸霊の影響を受けているとは思いもしないだろう。こうしてサタンは全世界を欺いている(Rev 12:9)。クリスチャンであっても、神の御言葉に明け渡していない領域、自分が出張る領域は同じ状態である。特に自分のウリにする部分はまずやられている。
自分を放棄し、神に明け渡し、委ねることができた領域は、御霊の領域とされ、神の国の実際が展開する領域となる。それは神のマインドの場であり、私たちのマインドもつねに神のマインドを共有するようになる。自分のしたいことが即神の御旨となる。あえて神の御旨を問うまでもない。マインドが溶け合っているからだ。キリストのマインドがそのまま私のマインドに展開する。Bill Johnsonが面白いことを言っている:
When we submit the things of God to the mind of man, unbelief and religion are the results. When we submit the mind of man to the things of God, miracles and the renewed mind are the results.
(神の事柄を人間のマインドに委ねれば、不信仰と宗教を生む。人間のマインドを神の事柄に委ねれば、奇跡と新たにされたマインドを生む。)
そして神の究極の目的は(宗教的な人々よ、つまづくことがないように!)
God wants our minds to be renewed so that our will can be done.
(神は私たちの意思がなされるためにマインドが新たにされることを願われる。)
なぜ?メッセでも語ったが、創世記を見てみよ。
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。-Gen 2:19
神はアダムに口出ししてはいないのだ。任せている。さらにかのサウルに対してすら神はこう言われた。
主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。
これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。・・・」
サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。-1Sam 10:6-9
ここで「心」とある単語はlabe、Strongによると"the heart; also used (figuratively) very widely for the feelings, the will and even the intellect;"。つまり感情、意志、マインドまでを含む(cf.霊の機能と魂・体の相互作用について)。ゆえに「サウルですら預言者か」と、ことわざになったほどだ。Are U with me?
結論はこうだ:神はマインドが新たにされた人には全権を委ねて下さるのだ!「何でも求めるものはかなえてあげよう」と白紙小切手を下さる。WOW! このことに抵抗を覚える人は、はっきりと言うが、宗教の霊に侵されている。聖書は宗教の書でないし、イエスはキリスト教の教祖でもない。神が天を裂いて、その霊的領域から物理的時空間に介入された証が聖書であり、イエスである。全宇宙を創造された方が、被造物の世界に介入されている、今もだ!
しるし・不思議・奇跡は新たにされた思いにとっては自然なことなのだ。宗教の霊の場に置かれている者は見ることもできないし、求めもしない。そんなことは低級なことだとかのたまって・・・。かつての私がそうだった。今後、ステージ4のガンが当たり前に癒され、むしろ癒されないことが信じられない事態になるだろう。否、すでになりつつある。神の国にガンはないし、神はガンの源でもないし、盗み、殺し、滅ぼすのはあの者の仕業。神の御旨ではない!神の御旨は癒し。私たちの魂が繁栄するほどに、あらゆる面で繁栄し、健やかであることができる(3John 1:2)。SO BE IT!!!

私たちは体、魂、霊からなることは欧米のクリスチャニティでは常識。わがニッポンキリスト教では聖書自体が霊と魂の区別もできていないし、牧師たちも同じ状況。霊と魂の区別ができなければ、聖書を正確に理解することは不可能だ。
その魂は、英語ではSoul、ギリシャ語ではPsuche、ヘブル語ではnephesh。それはいわゆる知・情・意からなる。知性は先に書いたとおり、意識の領域と無意識の領域からなるが、養老孟司氏などの唯脳論者によれば、単なる電気化学的現象であるとされる。デカルトや脳外科医のペンローズなどは大脳と別に魂の存在を指摘している。要するに魂は物理化学的現象を超えたものであるとする。これは創世記の次の記述からも明らかである。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂(原語)となった。-Gen 2:7
つまり土から構成された体に霊を吹き込むことにより、そのふたつの要素の相互作用により魂が生じたのだ。物質と霊は相互作用することは癒しや奇跡の根拠でもある。この魂の機能のひとつであるマインドが信仰にとってきわめて重要であることは私の著書でも、ここでも何度も指摘している。
もしマインドが単なる物理化学的現象であれば、それは単に個人レベルの現象。そのときにはいわゆる美、徳、倫理、形而上学的価値観などを共有し得ることが説明できない。法律では、たとえば、人を殺したるものは死刑または無期もしくは何年以下の懲役に処する、と規定されているが、なぜ人を殺してはならないかは触れていない。が、私たちは理由を説明できないが、それを知っている。どうやって知るのだろうか。唯脳論者ならば、ある価値観を生み出すニューロンネットワークがすべての人間に共通の形で形成されるからだ、とか説明するのであろう。フロイトならば去勢不安を回避するために父親との同一視により超自我が分化すると説明する。
しかし私たちは魂は神の霊が吹き込まれて生じたことを知っている。つまり人の魂は堕落以前には神的な能力と価値観を元々有していた。地を従わせ、生き物を治める能力と徳を持っていた。つまり神の魂とつながり、その価値観や能力を共有していたのだ。だから人を殺してはならないと直覚的に知っている。ところが罪の結果、それは存在論的には消失していないが、機能の発揮を喪失した。よく人間は大脳の20%程度しか用いていないと言われるが、これはサバン症候群などの人を見れば明らかである。彼らの能力はどこに由来するわけ?
かくしてマインドはこの時空間においてのみ存在し、作用するのでない。いわゆる超能力などは唯脳論ではほとんど説明できないであろう。マインドがこの物理的時空間を超えた領域にまで作用し得るからこそ、超能力などもあり得るのだ*1。私が何度も繰り返しているように、マインドは霊と魂の接点である。ある種のマインドの用い方を体得すると、霊的世界にも波動を生じさせることができるようになる。これがいわゆる霊能力者とか霊媒師と言われる人々である。サウルも最期には死んだサムエルを霊媒師を介して呼び出した。これは多分に悪霊的現象であるが、霊的世界と関わっていたことは否定できない。
前にも書いたが私は人々の運命が見えることがある。理由は不明だが、分かるのだ。マインドはある種の波動のようなもので、たまたま私の大脳の近傍に集積しているが、量子力学的にはるか遠方においても存在確率はゼロではない。重力や電磁場のようにポテンシャルを有している。だからサタンは私のマインドに関わることができる。彼は私のマインドの、いわばシッポを掴むことができる。そして火の矢を打ち込んでくる。その火の矢もある種の波動のように伝播する感じを受ける。テレビ受像機で受信された電波が映像や音声をフレーム化するように、マインドに干渉してくるサタンの火の矢も、私のマインドの中に映像や声をフレーム化する。それをただちに拒絶すればよいが、しばしばそれが自分の肉に足場があると(今週のメッセも語ったが要塞)、それを自ら掴み、弄んでしまう/弄ばれるのだ。
だから私たちはマインドには十分に警戒する必要がある。特に文学系あるいは芸術系の嗜好を持つ人々は、自分のうちの病理性をその想像力の源泉としているため、その領域を十字架の癒しに手放す事を拒む。むしろ自分が病んでいることや歪んでいることをウリにする傾向がある。その病理性を共有する人々がいわゆる彼らのファンとなる。が、これはサタンにとって絶好の足場となる。彼らの想像力や作品のルーツはどこにあるのか?しばしばアーチスト系の人が悲惨な最期を遂げる理由はまさにここにあるのだ。
かくしてマインドは私の大脳を起点として、かなり広範な領域にまで広がっている。人の心が読める人はそのマインドの広がりの裾を掴むのだ。あるいは気配とか殺気とか。マインドを敵に掴まれないこと。ある種のマインドの純潔性あるいは透明性が不可欠となる。イエスは「悪魔はわたしのうちに何ももたない(=手がかりがない)」と言われた(John 14:30)。神の意志も霊に対してある種のインプレッションを与え、それがマインドにおいて映像や声や言葉としてフレーム化されることによる。マインドが自分のことや肉的要素で一杯であれば、神の波動はかき消されてしまう。かくして私たちのマインドは霊的せめぎあいの場となる。だが、敵の声か神の声か、見分けはある意味簡単。前者はマインドを苛立たせ、掻き立てるが、後者は鎮静し、平安といのちで満たしてくれる(Rom 8:6)。
マインドのトランスフォーメーションの重要性はここにもある。
*1:これについてはWatchman Neeの"The Latent Power of Soul"、あるいはJesie Pen-Lewisの"War on The Saints"、あるいはG.H.Pemberの"Earth's Earliest Aages"を参照されたい。
追記:ウォッチマン・ニーの"The Spiritual Man"から、マインドの重要性についてこちらを参照されたい。いわゆる主の御心のままにとか、御旨を待つとか、霊的受動性の危険性にも警鐘を鳴らす。われわれはマインドを積極的に用いて、神にアクセスする必要があるのだ。ニーはマインドはポンプのような役割だと言う。霊が流れるようになるまでポンプする必要があるわけ。なるほど。パウロも、霊で祈るとともに知性でも祈ろうと言っている。
–The Principle of Mind Aiding the Spirit

いわゆる聖霊派のふわふわした霊的世界観ではなく、ソリッドな聖句に根差した霊的世界観を確立する必要がある。ベニーヒンも自分の聖霊論の誤りを悔い改めたが、私は15年以上も聖霊派の聖霊論の誤りを指摘してきた。今こそ、スーパーナチュラルな世界にタッチする時であるからこそ、聖句に戻る必要があるのだ。私はこの点において一貫している。黒は黒と指摘する。
Heiserはこの点、学者であり、しかしスーパーナチュラルに開眼している。ヘブル語、ギリシャ語のレベルからジックリと取り組みたい人におススメする。
We should establish rather the solid view of the Spiritual World based on the Bible, written Words of God, than vague and arbitrary ones of so-called Charismatics which are, I guess, based on empiricism. Benny Himm has repented his erroneous doctrine of the Holy Spirit. I have been pointing out the falseness of teachings of Himm and Charismatics on the Holy Spirit for more than fifteen years.
Now, it is the time when we are getting into the supernatural, so that we must get back to the Word of God, the Bible. I have been consistent so far in this issue and will claim that the black is black. Here I recommend Heiser, a scholar of the Bible and ancient linguistics, we can trust. And his eyes have opened into the supernatural world as well. I introduce his lecture for those who are interested in the supernatural and want to study based on old Hebrew and Greek language. God bless!