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トップ > 2009年02月17日

Dr.Lukeの一言映画評

ファイル 730-1.jpgダニエル・クレイグ主演の『ディファイアンス』。Difianceとは抵抗・反抗の意味。ナチスのユダヤ人狩りに抵抗し、1,200人のユダヤ人を救ったユダヤ人のビエルスキ三兄弟の物語。もうひとつのシンドラーのリストと言われ、実話。ただの農夫と商店主だった普通の無名の兄弟が「人間として生き、死にたい」と願うことから始まったナチとの絶望的戦い。ベラルーシの極寒の環境で生き延びるユダヤ人たちの群れ。最初は数名だったが、ゲットーから解放された者や逃げてきた者たちを保護し、ついには1,200名の共同体が生まれ、そこには病院や学校まで備わっていた。かくして彼らの保護によって救われたユダヤ人からその後数万人のいのちが生まれた。つまり彼らはこの数万のいのちを救ったのだ。新007のダニエル・クレイグが実にシブイ。

ここにヘブル書7章に

そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。

とある包括の原理を見ることができる。十分の一を受ける権利を持っていたレビですら、アブラハムの腰の中にいた時に、アブラハムが捧げることにより、メルキゼデクに対して捧げ物をしたのだ。すなわちここでメルキゼデク系祭司がレビ系祭司に勝ることを立証しているのだ。これが神の視点である。

そもそもアダムが罪を犯した時、アダムの子孫である私もアダムの腰の中で犯したのだ。またキリストが最後のアダムとして死なれた時、私もキリストの中で死んだのだ。そして第二の人としてキリストが復活した時、キリストの中で私も復活した。これによりキリストが義なる行為をされた時、キリストの中で私も義とされた。私の努力の問題ではなく、一体とされること。これがアダム系からキリスト系への転換であるが、ここにも包括の原理が働いている(→包括の原理について祭司制と律法についてJAVAと信仰)。

地上にいる間に何人に福音を伝えて、何人が救われるか、その数を誇る人々がいるが、もしあなたが生涯においてひとりを導いた時、たったひとりだけと思ってはならないのだ。彼から生まれるであろう多くのいのちをも導いたことになるからだ。かくして神の目から見たとき、地上において千人教会を作るとか、受洗者が何名とか、まったく本質ではないことが分かる。今、ここで、あなたが出会うひとりの人に対して、あなたと言う存在によってキリストご自身を紹介できれば、神の目にそれで十分なのだ。後は聖霊の仕事であり、その人からさらなるいのちが連なって誕生するであろう。いのちは数の問題ではなく、次へとつなげることが本質である。

真のリバイバルとは?

まず「リバイバル」と言う単語を私は好まない。その単語から生まれるイメージはあまりにも人の手垢で汚れているからだ。むしろ「霊的覚醒」と言いたいのが本音なのだ。一言で言えば、ニッポンキリスト教の現状と真逆を考えてもらえばよろしい(→ニッポンキリスト教の7不思議)。現状をリストすると-

 ・伝道、伝道・・・と急き立てられ、落ち着いていられない。
 ・愛だ、愛だ・・・とうるさいシンバルのようだ。
 ・礼拝出席厳守、献金忠実履行と追われる。
 ・聖霊様の注ぎを受けたい、満たされたい、恍惚したい。
 ・癒しの賜物、しるし、奇跡、金歯、金粉を求める。
 ・牧師に従え、牧師婦人を敬え、彼らの生活を支えよ。
 ・互いに自分が正統で聖書的であると喧喧ガクガクがなり立てる。
 ・あちこちの油注ぎの器の聖会をめぐり回る。
 ・いろんな雑誌や新聞や本が次々に出されては消える。
   etc.

真に霊的覚醒があれば-
 
 ・ひとりひとりが神の中に安息する。
 ・ひとりひとりが神の言葉を聖書から聴くことができる。
 ・ひとりひとりが聴いた言葉を語り出すことができる。
 ・つねにどこでも神を拝することができる。
 ・すでに聖霊を得ていることを知って、つねに満たされる。
 ・誰にも教えてもらわずとも、内なる油に従って、神の御心が分かる。
 ・どっちが正統だろうと、別にかまわないし、派閥も作る要もない。
 ・自ら働いて、普通のおじさんやおばさんとして落ち着いた生活をする。
 ・ひとりひとりが聖書を直接知るので、メディアは不要になる。
   etc.

現状、満ち足りているクリスチャンがほとんどいない。フラストレーションを自分の中でどうにもできず、絶えずキーキーと動き回り、ヒステリックに聖霊様の注ぎを求め、あるいは神学で満足を得ようともがくわけ。ニッポンキリスト教と言う業界の存在がもっともキリストの福音に対する障害なっていることを知り、むしろそこから真のキリスト者のあり方・生き方を反面教師として学び、ひとりひとりがキリストご自身へと立ち返ることができた人は幸いである。

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