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トップ > 2014年02月20日

エクレシアのあり方

コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。-1Cor 1:2

神の教会とは主の名を呼び求めている人々であり*1、イエスを主と呼ぶのは聖霊による。

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。-1Cor 12:3

つまり内に聖霊を宿している人々が教会=エクレシアなのだ。この点で、いわゆるキリスト教徒がエクレシアの一部であるかというと、これが必ずしもで、大きな間違いなのだ。ニッポンキリスト教を見れば良く分かることだろう。そもそもこの「教会」という訳語が致命的に悪い。だから天理教会もあれば、他の○○教会もあるわけだ。エクレシアは「教える会」でもなければ、「キリスト教の会」でもない。それは召し出された人々なのだから。よって私たちの間では「教会」なる単語はできるだけ使用しない。エクレシアだ。前から言っているとおり、聖書を日本語に訳した時点で日本語の概念や世界観に引きずられたニッポンキリスト教の教義ができあがる。今回、小保方さんが捏造疑惑に晒されているが、キリスト教こそは元々が人類の発明した壮大なる捏造の体系なのだ。何の?ここの読者であれば言わずもがなと思う。

かくしてもとより建物やチャペルでもなければ、宗教団体でも、教団や教派でもない!エクレシアは神の奥義であり、神秘的な地上に出現したキリストの御体なのだ。すでに2006年ごろから紹介しているが、英国のノーウィッチのCornerstone Churchではいわゆる礼拝堂もなければ、日曜礼拝もしていない。彼らは導かれるときにいつでもどこでも、例えばパブとかシティセンター・ホールなどで交わりを持つ。日も決めてなければ、プログラムもない。御霊によって導かれるまま。彼らのスローガンは"Filling the Universe with Jesus!"。今、キリストは御霊によって臨在される。霊は時空間の束縛は受けないだ。御霊を内に宿した人々が触れ合うと自動的にキリストを共有し、キリストを味わうことが出来る。ここに深い解放感と喜びがあるのだ。

というわけで、私たちの間でも昨年の夏ごろからこの動きが起きている*2。本日も某所で兄弟姉妹たちとワーシップと交わりをたっぷりエンジョイする場が持たれた。録音を試みたのだが、なんと電池切れ。いずれここでも公開できる体制を整えていくつもりだ。鍵は何か。ここで最近つとに強調しているこれらの御言葉による:

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名の中に集まるところには、わたしもその中にいるのである。-Matt 18:19-20

この御言葉は現在のような混乱した状況においてはきわめて本質的である。誰の名の中に集まるのか?名と本人はひとつ。私たちはイエスの名の中に集まるのだ。その他の名が高く上げられるならば、それは呪われよ。そしてもうひとつ:

神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土は人手によらず実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。-Mark 4:26-29

そう、人の手が一切入らないこと!これは先に書いた真央ちゃんの例とも通じるが、人為的な要素は呪われよ。まさに無為自然。かくして単純に集まり、単純に祈り、単純に賛美し、単純に交わるだけ。動機はただ主のみを求めることのみ。しかし、結果として私たちも実に満たされるのだ。かくして時間の経つのを忘れて、あっと言う間の4時間だった。

ただ、うちにいますキリスト、栄光の望み!(Col 1:27)

*1:しばしば「教会に行く」とか「教会から離れる」とか言われるが、ナンセンスであると分かるだろう。私たち一人ひとりがエクレシアなのだから。「特定の群れに参加する/から離れる」とかいうならば分かるが・・・。
*2:すでにアナウンスしておりますが、"kingdomfellowship.webnode.jp"は「公式サイト」と称しかつ名称の変更がなされておりませんが、Dr.Lukeのミニストリーとは全く関係ありませんのでご注意ください。"Kingdom Fellowship"はDr.Lukeの登録商標でありますので、現在このサイトは違法状態に置かれております。Dr.Lukeのミニストリーは以前からの"www.kingdomfellowship.com"および"www.dr-luke.com"において継続していますが、ウェブサイトは主にアーカイブとして用いる予定です。リアルタイムの活動はこのブログが中心になりますので、よろしくご了承ください。

嗚呼、真央ちゃん・・・

2005年に私はこう書いた

無邪気さの強さ:T-1days

フィギュアの浅田真央ちゃんは実に強い。プレッシャーもなく、伸び伸びと滑っている。勝とうとしていないし、うまく滑ろうともしない。ただ楽しんで滑っているだけ。あの無邪気さにベテランもかなわない。彼女たちもかなり良い成績を出したが、見ている方がハラハラする。特にラストの安藤美姫(18歳には見えない・・・)は緊張感がビンビンと伝わってきた。

ところが二位だった真央ちゃんにはそれがない。単純に演技を楽しんでいる選手を見ると、観客も楽しめる。実は私たちの信仰も同じ。勝とうとしたり、クリスチャンとして失敗しないように、あるいはうまくやろうと構えると、見ている人たちもハラハラ。無邪気さの中で力が抜けた真央ちゃんスタイルで生きたいと感じた。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

いのちのままに飛ぶ鳥。私たちはキリストのいのちを得ているのです!

しかし、いつか来ると心配していた安藤美姫化が今回真央ちゃんにも起きてしまった。得点55.51に、自分でも分からない・・・と呆然とインタビューに答えた彼女が痛々しい。今回は羽生が以前の真央ちゃん状態で滑れていた。何事もそうだが、意識した途端に自由を失ってしまうのだ。美空ひばりも歌っていた、「勝つと思うな、思えば負けよ~」と。ちなみに禅語にこのようにある:

至道(しいどう)は無難なり/唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う
纔(わずか)に憎愛無くんば/洞然として明白(めいばく)

道に至ることは単純である。揀択、すなわち事の善悪や白黒を離れればよい。愛とか憎しみとかの相対世界を超えるとすべては明らかなのだ。善悪を知る知識の木の世界を離れたいのちの木の世界に生きること。これこそがいのちの法則のままに生きる自由をもたらすのだ。真央ちゃんも滑ること自体を楽しめばよいのだ、かつてのように。

参考:意識の扱い方について

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