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トップ > 2014年08月02日

ポスト・ミレか、プレ・ミレか?

ブレズレンのダービーによるディスペンセイション主義ではプレ・ミレ。つまり千年期前にイエスは再臨され、地上に文字通りのご自身の統治による御国を設立する。一方、ラッシュデューニーの再建主義によるとポスト・ミレ。つまり現在が千年期であり、全世界が福音化された後、イエスは再臨する。再建主義の旗手富井健氏によれば、AD70年にイエスはイスラエルを裁き、旧経綸を終わらせるために最初の再臨をされ、千年期後に二回目の再臨をされる。

ポスト・ミレの根拠はマタイ24章(Matt 24:34)でイエスが言う「この時代(genea)」とは70年間を指すものであるから、マタイ25章の終末予言はAD70年のローマのタイタスによるエルサレムの裁きのことであるとするのだ。さらにパウロは「主が再び来られるときまで生き残っている私たち」(1Thess 4:15)と書いているのだから、主の(最初の)再臨はパウロが生きている時代であると(そうでないとパウロは偽預言者となる!)。ゆえに黙示録の19章まではすでにAD70年に成就している。理由は黙示録が書かれたのはネロの時代、つまりAD60年代であるからだ、とする。私たちは通常、ヨハネの晩年であるAD90年代と考えている。*1

ここで私がプレ・ミレに立つ根拠を二つほど述べておきたい:

1.パウロは「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ」と書いている。これはイエスの最初の再臨の時、つまりAD70年に起きたと再建主義者は言うわけだが、実はパウロはAD70年には生きてはいない。彼はAD60年代にネロにより斬首されているのだ。つまり再建主義の立場に立つのであれば、彼の預言は外れたことになるのだ。彼は確かに切迫再臨の感覚を持っていた。が、それは彼においては成就しなかった(再建主義者の立場においてすら!)。

2.千年期については黙示録20章に書かれている(Rev 20:6)。しかし、黙示録16章にはこうある:

第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。」-Rev 16:4-5

ここには「やがて来たる方」とは書かれてない。つまり第三の御使いによる鉢の裁きの前までには、主は来ておられるのだ(Rev 14:14-16)。それはもちろん千年期のである。再建主義によれば、これが最初の再臨ということなのだろうか?すると二回目の再臨は黙示録20章以下のどこに書かれているのだろうか?そもそも再臨が二回あるって???

とりあえず、この二点を指摘するに留めるが、しかし、同じ聖書を読んでいて、これだけ解釈に差が出る論点もめずらしい。そしてこの違いは、まさに「今、ココ」における私たちの生き方そのものに影響するのだ。

*1:この論点についてはすでに論駁している→「666の正体は?」。cf.「黙示録は誰に対して書かれたか

法王フランシス、伝道するな、と!?

いや、これはオドロキ。ついに彼、失われた人々に改心を迫るな、と言い出した。

彼の提示する幸福な生き方の10のヒケツ:

9. Don't proselytize; respect others' beliefs. "We can inspire others through witness so that one grows together in communicating. But the worst thing of all is religious proselytism, which paralyzes: 'I am talking with you in order to persuade you,' No. Each person dialogues, starting with his and her own identity. The church grows by attraction, not proselytizing," the pope said.

一見、他人の信条に敬意を払い、改宗を迫ることばの争いに陥ることなく、魅力によって教会は成長すると、もっともらしいことを言っているようだが、本質は妥協である。彼の、モスレムもクリスチャンも同じ神を拝するとか、すべての人は信仰の有無によらず救われているとか、いわゆるエキュメニズムや万人救済のスタンスからその霊の本質は明らかである。すなわち、十字架と血潮の否定なのだ。なるほど、これならば世と折り合いをつけることができ、ハッピーになれるかもだ。迫害も受けずに・・・。しかしパウロはどうだったか?そもそもイエスはどうだったか?

パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。
するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。
王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。
アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」
するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。
パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」-Acts 26:24-29

この福音のゆえにパウロはネロによってAD60年頃に斬首された。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。-Luke 12:51-53

イエスは神の国をことばとわざにより証したゆえに十字架につけられた。背教の時代、今後共バチカンとカトリックには十分に注意する必要がある。サタンは光の天使にすらマスカレードするのだ。鉄壁の守りを固めていたかのトロイアを滅ぼしたのは、自分たちで城壁の中に運び込んだトロイの木馬だったのだ。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。-Acts 18:9-10

もがかないこと-脱力する者は救われる

なんと爽快な朝。肌をなでるそよ風が実に気持ちいい。軽く汗を流して、熱いシャワーを浴びたところ。

ファイル 4394-1.jpg

で、今朝のニュースによると、伊豆沖で遭難した男性が、仰向けに浮きながら鼻と口だけを水面上に出して、伊豆半島沖を白浜海岸まで流されて救助されたとのこと。面白い。彼は一切手足をばたつかせることなく、ただ浮いていたのだ。ポイントは呼吸していること。よって体力は温存され、季節柄低体温症になることもなく、助かったというわけ。

コレ、信仰生活のヒケツでもある。ニッポンキリスト教には自分を自分で救おうとしてもがき、クルシチャン化する者が多い。しかし、主はこう言われるのだ:

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」-Isa 30:15

何かの事態に追い詰められても、自分ではもがかないこと。言うべきこと、すべきことはした上で、ふっと力を抜いてしまうこと。そして霊の呼吸を維持すること。まさに「脱力する者は救われる」のだ。すると御霊は霊の奥深くから語って下さるのだ。この時、直覚的に、分かる。あ、解決されている、与えられた、満たされた・・・と!これが信仰の瞬間だ。あとは、時の流れの中で実体化されていくのだ。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。-Ps 121:1-8

■参考:信仰と希望

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