春愁-王勃
- 2014/03/18 18:09
- Category: 漢詩
- Tag: 漢詩 王勃
春の淚は倍(ます)ます行を成す
今朝花樹の下
覺えず 年光を戀(こ)うを
Dr.Luke的日々のココロ
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道は万物の究極にあるもの、 善人の宝であるとともに、 不善人の宝でもある。
立派な言葉は、それによって高い地位が買え、立派な行為は、それを他人に施与できるというが、不善の人も道を根源とするのであるから、どうして見棄てることがあろうか。
だから天子を立て三公を置き、統治の機構が整えられたときには、大きな玉を先立てて四頭だての馬車を献上するものがいても、いながらにしてこの道を献上することに及ばないのだ。
古人がこの道を価値ありとしたのはなぜか。
求められればこの道によって得られ、罪があってもこの道によって免れるといっているではないか。
だからこの世のなかで無上の価値をもつのだ。
- 福永光司:『老子―中国古典選』、朝日選書
まことに救いは、道なる方により、不義なる者たちのためにこそ備えられたのだ。
古代中国では三月の最初の巳の日に川や湖水で身を清め、禊ぎをする習わしがあった。下って三国時代の魏では上巳を三日とし、修禊(しゅうけつ)の日となり、流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)の宴を開くようになった。曲がりくねった水の流れに酒を入れた杯を流し、その間に詩を詠むのだ。もっとも有名なのが書道家であった書聖王羲之(おうぎし)の作「蘭亭詩六首」。353年、紹興酒で有名な紹興(浙江省)の蘭亭で開かれた宴で歌ったもの。ちなみにこの曲水の園が平安時代に伝わり、その後「ひな祭り」になったのだ。
春の季節になれば万物が目覚め、
至るところに伸びやかな情を誘うものがある。
仰ぎ見れば碧空の果てを見、
俯して見れば緑の清流の水際に。
無限の天地は果てしなく広がるが、
よく見れば自然の道理が働いていることがわかる。
なんと偉大なるものだろうか、造物主の力は、
万物はみな異なっているが、造物主の力を受けている。
万物の生む物音は、それぞれ異なる響きを発しているが、
みな私の楽しみとなり、親しみを感じないものはないのだ。
まことにパウロの言うがごとし:
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる-Rom 1:20
王羲之がこの蘭亭の宴で酩酊状態で書いた書は、その後彼自身がそれを超えようとしても越えられないほどの出来栄えであり、神品と称された。しかし、彼の書を好み収集した唐の太宗(李世民)が自分の墓に埋蔵してしまい現物は残されていない。後に筆写したものが伝わっている。
この書に見える美、これは何に由来するものだろうか?大脳のどの部分がどのように反応すると「美しい」と感じるのだろうか?詩も音楽も書も、神が埋め込まれた美のスイッチをオンにする契機を与えるのだ。私たちは自分で創作することはなかなかかなわないが、その美を受け取ると、内的にその波動が広がり、それを自ら楽しむことはできる。芸術の不思議さである。
春雪の夢 一石
暖煙 殘雪 春暉(しゅんき)に入る
青帝 餘寒(よかん)に 一酔して歸へる
偏(ひと)へに愛す 陽和の 睡味を添えるも
夢は絶ち 花の著れ 稀なるを知る也
明日はまたも大雪らしい。立春を過ぎて大雪。まあ、一部ではHARRPによる人口雪であるとの説(?)もあるようだが、雪はそれはそれで風情があるものだ。極私的にはあの静けさがたまらなく好きだ。そこでまた雪の詩をひとつ:
注:陰嶺=北の峰;霽色=雨や雪のやんだ後の晴れた風景
わしは僧籍でも、道士でも、儒者でもないわ
浅黒い顔、白いひげの貧しい禿げおやじにすぎぬ
人々はわしが都中に売り歩いていると噂しておるが
なんの、この世界はみなひとつの茶壷にすぎぬのじゃ
今朝の日経紙で紹介されていたのでちょっと調べると、なかなか小生の嗜好にフィットする。人々からは売茶翁(ばいさおう)と呼ばれた禅僧(黄檗宗)、当時の檀家からの揚がり(お布施)で当たり前のように暮らす仏教界を批判し、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なっているのだ」と自らで茶を売って生計を立てつつ、人々との日常生活での交流により禅を説いた。漢詩も詠み、高遊外と号した。1675年生まれ、11歳で出家し、70歳で還俗、1763年没。享年87歳。
明日は20年に一度の大雪らしい。立春を過ぎて大雪。なかなかイイではないか。そこで私の好きな詩を再度。
山々に鳥の飛ぶ姿が消えて、すべての道から人の足跡が消え果てた。
蓑笠をかぶる老人がぽつんと浮かんだ舟に乗り、雪の降りしきる極寒の川で独り釣りをしている。
まことに絵画のような詩。奥行きと広がりの中にさんさんと降り積もる静寂なる雪景色の世界。ふと一人舟に乗り釣りをする孤独の老人に焦点が絞られる。ついこの老人の生活ぶりと人生に思いを巡らしてしまうのだ。
明日は立春。積雪があるようだが・・・。GYMにてワークアウトした日は酒も美味い。わが故郷の真澄あらばしり。実に美味だ。
注:崔敏童=盛唐の詩人、詳細不明;十千酒=高価な酒;沽=買;辞する=言い訳する
また一年が過ぎればまた春が巡ってくる。百歳まで生きる人なぞは、そうはいないのだ。花を前にして酔うことなど、人生で何度できようか。さあ高価な酒を買って楽しもう、貧しさを言い訳にすることなく。ちょっと竹内まりやの『人生の扉』に似ている詩だ。
注:劉十九=劉家の十九番目(排行という)の者、誰かは不明;綠?=緑色の蟻、新しい酒に浮いた緑の泡が蟻のように見えるため;新?=濾していない酒;紅泥=赤い粘土
緑のアリが浮いているように泡立つ、醸造されたばかりの濾してない酒。赤い泥の炉には小さな炎を上げて火が燃えている。夜になって雪が降りそうな空だが、どうだね、一杯やらないかね・・・。
この時白楽天は左遷されて江州にいた。劉十九と呼ばれる人物の素性は不明。こういう境遇、極私的には実にしびれるのだ。今晩もまさに刺し込むような寒気。こんな夜は熱燗がイケる・・・。
注:寒曦=冬の光
追記:昨日の『ぶらり途中下車の旅』でこの公園とわがマンションが登場した。マンションの住人のアメリカ人尺八奏者ブルースさんが出演したのだ。よく挨拶をする方だが、けっこうコンサートなどもやっているようだ。この姿でよくジョッギングもされているのだが、いつ撮影したのだろうか?
白楽天が江州(江西省)に司馬として左遷されていた際に詠ったもの。時に46歳。左遷された地をもって満足と安息の地とする彼の超然ぶりがカッコいい。司馬職は実権のない閑職。給料も当然安い。が、彼はこの地で三泰を得たと友人に手紙を書いているそうだ。泰とは心の安らぎであり、その一は自分や家族や係累が健康であること、その二は江州の風土と食べ物がよく安い給料でも家族を十分養えること、その三は草堂を作って日ごろ好むものはすべて備えられ、「帰るを忘るるのみならず、以って老を終えるべし」と満ち足りた思いを得たことだ。
もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。
なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。-1Tim 6:6-8
老子もいわく-
知足者富(足るを知る者は富む)-第三十三章
当時の詩人はたいてい当時の最高の知性を持ち、進士(国家公務員I種あるいは司法試験)に受かったエリート中のエリートだ。が、彼らは世における栄達を求めていない。むしろ隠棲を願うのだった。高村薫の『レディー・ジョーカー』にあるとおり、組織のトップは自らの心に反して組織を守るためにヤバイことに手を染める。経営者と政治家とやくざと警察は実は紙一重。ツーツーカーカーの阿吽の呼吸でこの世は回る。巨悪は放置するが、逃亡した一人の男を4000人で追跡する警察のあほ臭さは世界の笑いものになっているそうだ。かくしてうかつにこの世のシステムにはまると何かを失うのだ。この小説でも主人公は苦悩した挙句、犯罪者とされ、最後は山に篭り畑仕事を夢見るのだが、それは絶たれてしまう。かの伊丹重三監督の『マルサの女』でも権藤商事の社長が無邪気に遊ぶ子供たちを眺めつつ、ふとつぶやく。「心は安らかな方がいい・・・」と。
満足すること、満ち足りること、YAZAWAも言っている、金は便利がいいが、金だけではハッピーにはなれないと。改めて彼の問いかけの深さを思う次第-