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トップ > 信仰

地はゆるぎにゆるぎ、よろめきによろめく

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こののどかな山が・・・・

地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕えられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。
地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。-Isa 24:17-20

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富士よ、怒るな・・・

新年、おめでとうございます-シェミタの始まり

今日から明日はユダヤ暦のロシュ・ハシャナ。そして最近注目されているのがSHEMITAH。

2012年から注目し、紹介している"HARBINGERS"のJonathan Kahnによる解説。この人は実に傾聴の価値アリだ。

日々キリストのうちに

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ニール・アンダーソンによる黙想


 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。-マタイ6:34

 神に信頼することは私たちの存在価値の問題です。イエスは「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタイ6:26)と言われました。鳥は神の形に創造されてはいません。私はいます!鳥は神の国を相続しません。しかし、私たちはするのです。鳥は永遠の存在ではありません。人類は永遠なのです。神が空の鳥を顧みて下さるのであれば、私たちのことは尚更です。この故に使徒パウロは断言することができました:「私の神はキリスト・イエスにある永遠の富に従って、あなたがたの必要を満たして下さる」と(ピリピ4:19)。
 マタイ6:30,31ではこう言います:「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」。神はご自分の尊厳をここに賭けておられます。私たちが信頼して従えば、神は備えて下さるのです。これは神の峻厳さの問題です。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。・・・だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」。
 神の御旨は私たちが今日という日に責任を持って生きること、そしてあすに関しては神に信頼することです。私たちは小さな信仰の者たちでしょうか?それとも地上の所有物よりも御霊の実の方がはるかに満たして下さることを信じる者でしょうか?私たちが義に対して飢え乾きを覚えるならば、私たちは満たされることを真に信じているでしょうか?神の国を設立することを追求するのであれば、神はご自身の富に従って、栄光の中で私たちのあらゆる必要を満たして下さると真に信じているでしょうか?もしそうならば、まず神の国と義を追い求めしょう。そうすればその他の物はすべて添えて与えられるのです(マタイ6:33)。

 感謝します、主よ、こんなにも私のことを真実に顧みて下さることを。私は喜んで自分の心配事をあなたにお委ね致します。

罪々(sins)と罪(Sin)の問題

ローマ書に啓示されているこの二面性の問題の神による処理。罪々に対しては血潮、罪に対しては十字架。このことを明確に語る人は多くありません。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』ではここをきわめて鮮やかに解き明かしています。

今、Dr.Kさんがこの論点について、ギリシャ語から詳細に調べておられますので、ぜひご一読ください。邦語訳の問題点も指摘されています。

現在、私も血潮についてずっとメッセージしていますが、いずれ十字架に入ります。御言葉をないがしろにするこの混乱したキリスト教の状況を見るとき、私たちは基本の基本に戻る必要があるのです。知るべきことはそれほど多くはありません。イエスの御名、血潮、十字架、御言葉、ここに戻ることです。

あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。-1John 2:24

日々キリストのうちに

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ニール・アンダーソンによる黙想


 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。-ローマ8:14

 気象条件が悪化する中で、もはや引き返せない状況に至ったひとりの若いパイロットがいました。地上には霧が立ち込めて視界は数フィートしかありません。彼にとってコクピットの計器に全面的に頼ることは、これまでにない経験でした。彼はインクの乾く間もないほどの真新しい計器飛行資格証明書を得たところでした。
 着陸がもっとも困難な問題でした。その目的地は、非常に混み合っている上に、まったく慣れていないメトロポリタン空港だったのです。数分間のうちに管制塔とのラジオ・コンタクトが始まります。それまで彼は完全に孤立して、自分の考えに入っていました。かつて彼の指導教官はマニュアルを暗記するように彼に指導していました。その時はそれに気も止めていませんでしたが、今やそのことに感謝していました。
 ついに彼の耳に管制塔からの声が届きました。「これから着陸態勢に入る誘導をします」と管制官は告げました。ありがたい!とパイロットは思いました。しかし、安全な着陸は自分の手にかかっているのです。彼はかつて講義と訓練で覚えた着陸動作を反芻しなくてはなりません。しかも見えない管制官の指示に信頼する必要があるのです。もはやプライドが問われる時ではないことを知り、管制官に「現状、あれこれ論じる間はありません。とにかくあなたの援助を求めます」と伝えました。
 「了解しました」と応答がありました。
 続く45分間、管制官は濃い霧の中で丁寧にパイロットを誘導しました。コースと高度の修正誘導は定期的になされ、障害物を回避し、衝突のないように管制官が誘導してくれていることが分かりました。マニュアルの言葉はしっかりと彼の記憶に刻まれていましたが、管制官の懇ろな声により、ついに安全な着陸に成功しました。
 聖霊はこの管制官と同じように、混乱した人生の中にあって私たちを導いてくださいます。管制官は若いパイロットが飛行マニュアルの指示をしっかり理解していることを前提にしています。彼の誘導はそれに基づいています。それは聖霊においても同じです:御霊は私たちが神の言葉とその御旨を心にしっかりと刻み込んでいることに基づいて導いてくださるのです。

 主よ、新しい年が始まるにあたって、あなたのみ声に繊細になり、あなたの御旨にしっかりと従うことを願います。

TODAY'S CELEBRATION 【Sep 14, 2014】

UPしました。

●タイトル:多く赦された者は多く愛する
●聖書箇所:出エジプト12:13-14;ルカ7:43;マタイ9:2-6

イスラエル、自らをバチカンに売る動き

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大淫婦バチカンにエルサレム管理権を委ねる動きがある一方、ペレス元首相が法王に対して、「宗教的国際連合(UN of Religions)」の創設を提案し、法王も最大限考慮する約束をしている。これらの動きはイスラエル自身が自分を売ることになる。表面的な和平を引換にして・・・。NOR(世界統一宗教)を目論むバチカンにはまさにカモネギ。時代はますます煮詰まっている。

彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。-Dan 9:27

追記:この記事によるとバチカンはイスラムの祈りを同地で行うことを認め、フランシスはモスレム、ユダヤ教徒、クリスチャンの中に、分裂や裁き合いを生むファンダメンタリズムが入り込む余地はないとしている。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。-使徒13:36

 ダビデは一世代だけ仕えました。それは自分自身の時代です。決して二つの世代に仕えることはできなかったのです!今日、私たちは自分自身の仕事を、機関や、共同体や、組織を構成して永続させようとします。しかし、旧約の聖徒たちは自分の時代においてのみ仕え、去っていったのです。これはひとつの重要ないのちの原則です。小麦は撒かれ、成長し、実を結び、成熟し、そしてすべての部分が根に至るまで刈り取られるのです。神のみわざは地的な根を一切持たないほどに霊的なものであり、地とそこにあるものの臭いすら感じさせないのです。人は過ぎ去ります。しかし、主は永遠です。教会がなすべきことは常に今日的であり、今この時に活動し、集まるのです。過ぎ去った時間の必要のためではありません。またそれを地上に静止したまま止めおくこともできません。神ご自身がご自分の働き人を取り除けられ、また他の者を備えるのです。私たちのわざは廃れますが、神のわざは決して廃れません。何者も主に触れることはできません。主は厳然として神であられるのです。

※今回で本書の翻訳はすべて終了となります。毎週一篇づつですから、7年ちょっとかかったことになります。PDFファイルですべて読むことが可能です。右の「ウォッチマン・ニーの黙想」からDLしてください。彼は若き日に「自分は高く挙げられることを望まず、むしろ殉教の道を選ぶ」と語ったとおり、自分のすべて注ぎ出す人生を送りました。彼の人生は真に主へと捧げられたものとして、その生涯と最期を見るときに、私たちの霊的渇きを癒してくれるのです。すでに中国ではクリスチャンが一億を超え、政府も打つ手なしの状態になっています。彼についてはいろいろ言われなき非難・中傷もありますが、かえってそのことにより彼らの霊的本性を露わにしているのです。すべてを主のために捨てた人に勝てる者はありません。ナルドの香油を注いだマリアのように、自分のために何も残そうとしない時、それは永遠に記念されるのです。本書が皆様の祝福となりますように。G.B.Y.

今朝の迷言-背教の時代のことば

私はキリスト教は「ありのままでいい」なるキャッチフレーズに象徴されるセルフ教に堕すると10年以上警鐘を鳴らしてきた*1。そして時代はすでにここまで来ている・・・。

アメリカのメガチャーチ、レイクウッド・チャーチのJoel Osteen夫妻のメッセージ:

“I just want to encourage every one of us to realize when we obey God, we’re not doing it for God—I mean, that’s one way to look at it—we’re doing it for ourselves, because God takes pleasure when we’re happy,” she declared in the undated 36-second clip with her husband standing by her side and nodding. “That’s the thing that gives Him the greatest joy…”

“So, I want you to know this morning: Just do good for your own self. Do good because God wants you to be happy,” Osteen continues. “When you come to church, when you worship Him, you’re not doing it for God really. You’re doing it for yourself, because that’s what makes God happy. Amen?”

礼拝は神のためのものではない、自分のためだ。私たちが幸福になるために、自分のために善をなせ・・・・云々。ま、ここまでハッキリと語られるとご自由にどうぞ、だ。唖然とするだけで、批判もする気も起こらない。

ネクストはこれ、おフランシス様のお言葉:マリアを母と感じないクリスチャンは孤児である、とツイート。

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“In our catecheses, we have often noted that we do not become a Christian on our own, but by being born and nurtured in the faith in the midst of the People of God, that is the Church,” he stated. “She is a true mother who gives us life in Christ, and in the communion of the Holy Spirit, brings us into a common life with our brothers and sisters.”

“The model of motherhood for the Church is the Blessed Virgin Mary, who in the fullness of time conceived through the Holy Spirit and gave birth to the Son of God,” Pope Francis continued. “Her motherhood continues through the Church, who brings forth sons and daughters through baptism, whom she nourishes through the word of God.”

マリアがキリストにあるいのちを私たちに与え、バプテスマを通して息子たちと娘たちを生み出し、神の言葉で養って下さる・・・云々。こちらもただ唖然。バチカンとJoel Osteenらは一致を目指しているが、彼らの霊的本質はセルフ。私は著書の中で結論した:究極の選択は

セルフか、キリストか

だと。まことに

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者・・・神をけがす者・・・になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。-2Tim 3:1

だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。-2Thess 2:3

*1:ありのままでいいニッポンキリスト教徒が何ゆえにウォッチマン・ニーをカルトだとして拒絶したがるのか、理由はセルフの保持のため、セルフが疼くのだ。財前五郎が里見修二について呟いていた、「おれはやつのような人間がいてもらっては困るのだよ」と。

捧げることの祝福

いつもの再建主義の富井氏がこう言われる:

tomi 2014/09/04(木) 09:13

霊的な食べ物を美味しいと思わない俗物

昔、一緒に祈ったり、伝道したりしていた人が、年末年始に贈答品でも持ってこいと言ってきた。
・・・
私は、自腹を切って神学校で学び、高価な本やテープ、様々な資料を集め、自腹を切ってそれらを読み、学び、働きのために英語も猛勉強してきたからだ。
そういった蓄積された知識を自分の頭の中で整理し、苦労して組み立て、聖書的と言える教理を学び、それを分りやすく発表するために努力してきた実績があるので、別に信徒の人々に挨拶する必要はない。
礼儀としてはする必要はあるが、強制されてまでする必要はない。
むしろ、向こうのほうから年末年始何か持ってきて挨拶すべきだ。
膨大な時間とお金を使って得たこれらの知識を無料で提供してきたのだから。
こういう意識は、私はラッシュドゥーニーやゲイリー・ノース、グレッグ・バーンセンなどの私の師に対して抱いている。
だから、生前は定期的に献金をしていた。
まだ約束している額を捧げていないのが心残りである。
私がたとえ献金してそれに対して向こうから返事がなくても、私の側では、これらの偉大な師の労苦を分けていただけるのだから文句はない。
もし私が彼らに返事を求め、挨拶を要求し、しかるべき捧げ物もしなければ、私は彼らに対して「あなたがたから勉強させていただきましたが、感謝はしません」と言っているようなものである。
こんな無礼があるだろうか。
だから、どの世界でも自分の師、自分よりも先に何かを学んだ相手に対しては敬意を払い、生活を支えるのが当然だ。

どうも違和感。捧げること、特にニッポンキリスト教徒が不満を垂れるのがいわゆる什一献金だ。いわく什一献金の教会はカルトだとか、ぼったくりだとか・・・。私たちは献金はまったくの自由。それぞれが心に決めたとおり捧げることを大切にしている。什一でも、什二でも、百分の一でも、千分の一でも・・・。ポイントは惜しみなくだ。

そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。-2Cor 9:5-8

ここでのポイントは額ではない。心の問題。カネは私たちが世で生きるための縁(よすが)。しかし、私たちは、パンのみでなく、神の口から出る一つひとつの言葉で生きる。自分の存在の担保を誰に置くか。マモンか、神か。実はこれが問われているのだ。自分が縁とするものを手放すこと。これは実は、自分の生存の保証を神に置くことの表明なのだ。そしてそもそも捧げることの喜びと解放感を味わうことは祝福。カネの心配、世の思い煩い、人間関係の煩わしさ・・・こういった事柄から解かれることを意味する。もっと言えば、私たちは世にいる者であるが、世の者ではないことを実体化する(John 15:19)。

受けるより与えることは幸いである、と主は言われ、さらにただで受けたのだからただで与えよ、とも(Matt 10:8)。私たちのセレブのファイルは毎回300から400DLされている。そして勝手にどこかの誰かに聞かれている。BuhiさんがYoutubeにも上げてくださっているが、そちらでも多くの人が聞いてくださっている。私はまったく関知しない*1。しかし、捧げて下さる方もいらっしゃる*2。彼らには深く感謝しているが、そのことにより彼らが主ご自身から直接に大いなる祝福を得られることを願っている。もともと捧げ物はすべて、たとえばUNICEFに募金するにしても、心の動機は主ご自身にお捧げするのだから。この時、互いの交わりは実に祝福されたものとなる。しかしこれを一歩間違うと今のニッポンキリスト教の悲惨な様となる。再建主義のいわゆる契約主義から感じる違和感は、どうもこの心の動機の微妙な差に由来するように感じるのだ。祝福される交わり-これが実となるかどうか、要はここにある。

*1:ワーシップも主にお捧げするもの。ゆえにそれがどう用いられるかは、主ご自身にお任せするものなのだ。もしキリストの体にとってのお役に立つのであれば、また私たちにとっての祝福となる。
*2:私たちはセレブレーションにおいてすでに大いなる祝福を得ているので、もうそれで満足している。が、主はさらにプレミアの祝福をくださるお方なのだ。

Cornerstone Church Norwichのヴィジョン

先のRichard Jeorgeたちのヴィジョンと実行について紹介してみたい。実にチャレンジ的であり、ある種の人々にとっては挑発的ですらあるが、極私的には私とまったく同じことを考えている人がいることに驚きつつ、まことに同意する次第なのだ。

about us

It’s time for something radical to move the church out into the world – all week long. We’ve all heard much about ‘going’ for some years, yet we keep ‘coming’… to buildings on Sunday mornings.

We’ve nothing against buildings or Sunday mornings; we just reckon it’s time to break old mindsets in order to actually be the people who are the extension of the ministry of Jesus – all week long.

It’s time things were turned upside down and inside out. Let the people get out there and be Christ in the world and let the leaders equip, encourage and release them to do so.

In Cornerstone (Norwich) we do meet together – and we do everything a more traditional church would do : worship, pray, receive teaching, etc. We just don’t do it all in one meeting or one building, or at one time of the week.

We value our heritage of worship, faith, and radical Kingdom life – and don’t wish to throw any babies out with the bathwater. We seek the Kingdom first, and believe all things will be added to us as we do so. We want to maintain a Kingdom mindset so as not to get bogged down in parochial or protective local-church ways of thinking.

This presents many challenges. We respect all God has done in previous generations, but see a new thing springing up. Do you not perceive it?

わたしたちについて:

今や教会が世の中へと向かって出て行くべきラジカルな行動の時です-一週間を通して。私たちはこれまで「出て行く」ことについて数年間聞いてきましたが、依然として「来る」だけです・・・つまり日曜日の朝毎に、建物に。

私たちは建物や日曜日の朝に何ら反対するものではありません、が、実際的にイエスの務めの延長であるべき者となるために古いマインドセット(思いのあり方)を打ち破るべき時であるとみています。

今や、物事の上下や裏表をひっくり返すべき時なのです。人々が出て行き、世にあってキリストをもたらし、リーダーたちを整え、励まし、そのような業へと解き放つべき時なのです。

コーナーストーン・チャーチ(ノーウィッチ)にあって、私たちは共に集まります。また伝統的教会がしていることも行います。ワーシップ、祈り、教えを聞くことなどを。ただ、わたしたちはそれらをひとつの集会やひとつの建物で、一週間に一度だけ行うといったことはしていません。

私たちは礼拝や信仰、そして活発な御国(The Kingdom)のいのちの資産を大切にしています。私たちは赤子をたらいの水と一緒に流すことはしません。私たちは神の国をまず求めます。そしてそうするときに、他のすべてのものは添えて与えられると信じています。私たちは御国のマインドセットを持ち続けたいのです。それは偏狭にして保守的な地域教会の物の考え方に縛られることのないためです。

このことは多くのチャレンジを提示します。私たちは前の世代において神がなされたあらゆることに敬意を表します。しかし私たちは何か新しいことが湧き上がりつつあるのを見るのです。あなたもそれに気がついているでしょうか?

What do you think about this vision? Do you share this with us?

権勢によらず、能力によらず、わが霊によって

すでに2007年ころから紹介しているが、英国のKFM出身のリチャード・ジョージのノーウィッチのCornerstone Churchでは、いわゆる礼拝堂もなければ、日曜日の礼拝儀式もない。彼らのスタンスはクリスチャンをボックスから解き放つこと。このボックスの意味は建物ももちろんだが、キリスト教の伝統や習慣なども含まれる。ニッポンキリスト教では午前10時からの礼拝こそが正統な礼拝であるとする向きもあるそうだが、まあ、ご苦労様なことだ。

かくして私たちも2007年くらいから事ある毎に訴えてきたことだが、いわゆるキリスト教の伝統と習慣による日曜日の礼拝厳守なるものからエクレシアを解き放つ必要がある。エクレシアとは召し出された者たち、つまり宗教組織でもなければ、教団とか教派でもない。一人ひとりがエクレシアの肢体なのだ。

コリントにある神の教会(エクレシア)へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。-1Cor 1:2

この点、キリスト教なる人工的な宗教がいのちの君を排して、宗教の教義や実行を行い、真理とエクレシアをその中に拘束してしまっている。これは当時のユダヤ教がいのちの君であるイエスに対してなしたことの再現である。ゆえに私はキリスト教からエクソダスせよ、としつこく訴えてきた。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。-John 5:39-40

兄弟姉妹たちが、ただ主イエスの御名の中へと集まるとき、主イエスもそこにいて下さり、それがエクレシアの地上での顕現なのだ。

ふたりでも三人でも、わたしの名へと集まる所には、わたしもその中にいるからです。-Matt 18:20

では、いわゆる宗教組織から離れて二人または三人がイエスの名に集まると宣言していれば、それでOKかというと、これがまたひとつの罠になる。「御名へと集まる」とは、スローガンではない。それはイエスの人格と名はひとつ。つまりその方の中へ集まる霊的リアリティなのだ。具体的には、ただキリストの御霊のみがそこを覆い尽くし、私たちはただその権威の元に服すること。この時、主の臨在に満たされ、包まれ、私たちと主との交わり、さらに肢体同士の交わり(コイノニア)を楽しむことが出来る。お互いに共有するのはただキリストのみ。

この実行において大切なことは動機*1。その純度だ。何のために、何を求めて集まるのか。自分の何かを主張する者が存在するならばその場は汚される。自分を退け、ただ神を賛美礼拝し、主イエスのみを求める者たちが集まる時、それは実に麗しくかつ平安と安息が満ち、3時間半のセレブレーションもあっという間に感じられる。否、むしろもっとそこに留まり、その臨在に浸っていたいと名残り惜しくすら感じられる。そう、時間の感覚を忘れ、同時に自己からも離れ、自分のあれこれをも忘れている。まことに至福のひと時。まことの神の国に生きることは時空間の制限から解かれて、神の中に生きることに他ならない。これが永遠のいのちだ。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。-John 17:3

エクレシアはいつでもどこでも出現する。それは礼拝堂とか、主日礼拝とか、教団や組織とか、キリスト教のあらゆる伝統や儀式などに一切関わりのない霊的実際なのだ。このキリストの復活のいのちを吹き込まれたいのちの有機体であるエクレシアがさらに束縛を解かれ、主イエスの御言葉と御意志のままに活動するならば大いなる神のワザが現れるであろう。それは人手によらず、ただ神の霊による。そしてそのような時はすでに来ている!

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。-John 14:12

これ、現代的知性なるものに汚されたわれわれに対するチャレンジである。あれこれ知的に誤魔化さず、エクレシアがそのままに受け取るべき時が来ているのだ。

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」-Zech 4:6-7

God bless you!

*1:特に人数やリーダシップに対する野心は致命傷となる。

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