時間はイリュージョン
これ、なかなか面白い。道元は、「今でしょ!」の世界をこう言っている―
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。-『正法眼蔵-現成公案』
焚き木が先で灰が後というわけではないと。これは時間感覚のトリック。時間自体が大脳によるイリュージョン、マトリックスなのだ。
沢庵も言う―
前後際断と申す事の候、前の心をすてず、また今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をば、きってのけよと云ふ心なり、是を前後の際を切て放せと云ふ義なり、心をとどめぬ義なり。 『不動智神妙録』第十二節 前後際断
仏教ってね、実は現代物理の最先端を行くのだ。クオリアなども。色はない。それは大脳が創り出したイリュージョン。ゆえに「色即是空」。元々仏教は礼拝対象などはない。認識論のひとつなのだ。今の葬式仏教や偶像を拝むことは釈迦牟尼が禁じていたこと。彼は法による生き方を説いている。で、聖書はその法のルーツ、つまり法源は何かを啓示しているのだ。
ちなみにフェイスはNOW!シックスセンスであり、スーパーナチュラル。永遠が今に切り込む経験なのだ。この映画は4次元超立方体の中ではいつの時点にも自分が存在できる映像をうまく作っていた。
satake
こんにちは。
7次元とか、次元が折り込まれている、いう話を聞いても、よくわからなかったのですが、この動画をみて、何となくイメージできるような、気がします・・・(笑。
聖書と重ね合わせてみると、
霊の世界(時間、空間のない場所)から、
I am (今)として、神のレーマ(ロゴス+フェイス)が、フレーム化して、立ち現れてきた、今、今、今、・・・を、パラパラ漫画として体験しているのが、人生なのかもしれないな、と感じました。
本当の自分は、霊の世界に、観客席として存在していて、
人生という映画を体験しているようなものなのかもしれません。
人生という映画では、いろいろなことはあるかもしれませんが、
私たちの本体である、霊自体は、全く傷つけられることもなく、壊されることもなく、
今も、神の愛と平安の中にいるのだと思います。
・・・といっても、厳しい人生はこりごりなので、
霊にアイデンティティを置いて、その力がマインドに浸透することによって、
この現象世界が奇跡に満ちたものであったらいいな、と祈っています。
フェイスと行動は表裏一体なので、行動を通して、フェイスを表現することが課題です。
いつもありがとうございます。