フェイスと医学
- 2016/02/02 20:23
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:フェイス, 癒し, 医学
今週のメッセを聞かれた方から抗議をいただいた。Dr.Lukeは医学博士のくせして医学を否定するのか、とのご趣旨だ。どうもこの癒しの問題については、こういったエキセントリックな反応が出る傾向があるようだ。私は今回の著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも書いている。フェイスと医学は対立するものではないと。医学はだれもがその恩恵にあずかれる一般恩恵。フェイスは特別恩恵であると。癒しのフェイスがないのであれば、いくらでも医学の恩恵に与ればよろしい。
・・・と、言うと、またキリスト教徒のプライドを刺激するのだ。あなたは私に信仰がないというのか!と。そのとおり。ない。だから癒されない。ならば医学的治療を受ければよろしい。別にそれは罪でも何でもない。一般恩恵であると何度も繰り返している。ただし、カネと時間と労力、時には苦痛を代価として求められるが・・・。
どうも、下にも書いたが、信仰という概念の罠に落ちている。<医者にかかる=不信仰=罪>と自分で勝手に考えているようなのだ。ローマ書14章をよくよく読んで欲しい。
しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。
パウロは明確に言っている、何を食べても良いと。しかし、疑いながら食べれば罪だと。Are you with me? あなた自身が<医者にかかる=不信仰=罪>と信じているから、医者にかかることが良心に咎めるのだ。パウロも私もなんら咎めていない!しばしばこういった主張をする人々は自分の"信仰"にプライドがあるのだ。癒しのフェイスがないことを認められない。そして自分の"ものさし"で自分を裁いている。要するに、鏡を見て、憤っているのだ。
繰り返すが、フェイスは条件ではない。フェイスは願うことのサブスタンス、目に見えないことの立証(Heb 11:1)。それは自分から絞り出すものでもない。自分の何かと勘違いているゆえに、ないと言われると憤慨する。フェイスは生来の私たちにはもとよりない。それはシックスセンス、外来的に聖霊により与えられるもの。自分にはないことを認め、単純に求めればよい。求める者にヘビやサソリを与える親があろうか、と父なる神は言われるのだ。その意味で求めないから与えられないのだ(James 4:2)。プライドのゆえに・・・。
私は癒しのフェイスはまったくなかった。だから親しい友人を何人もガンで失った。癒しに関してはプライドも持ちようがなかった。だから求めた。すると与えられた。単純だ。現代において癒しがあるかないか、すべての人が癒されるのか、病気は神が人格の陶冶のために送られるのか・・・。そんな面倒なことを考える合間に、求めよ!だれだって癒されたいであろう。健康でいたいであろう。長生きしたいであろう。フェイスは願うことのサブスタンス、目に見えないその立証なのだから。まことに神の国は幼子のものである!
追記:これもある種の人々を刺激するであろうが、あえて。要するに二心だから与えられないのだ(James 1:6-8)。
じゃりん子
癒されても癒されなくても、私たちキリスト者はニュークリーチャー!
Lukeさんは、癒されないのは「信仰が足りない。」ではなく「信仰がない。」とおっしゃっているのですよね。
コリント人第一12:9またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
12:11すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。