啐啄同時-フェイス・オーラに生きること
これ、禅の言葉。卵から雛が孵るとき、殻を内側から突く雛と、外から突く親のタイミングが一致するとき、無事に雛が現れることだ。機を得て両者相応じる得難い好機のこと。『碧巌録』にある鏡清禅師の逸話。
すでに何度も書いている末期ガンのご婦人も私が語ったから癒されたのではない。認知症のご婦人は私ではなく、その親族の姉妹が祝福を語っていた。いわゆる"癒しの器"と称する人々をありがたがるニッポンキリスト教の傾向はもうそろそろ卒業しろよと言いたいが、人は金の仔牛を求めてしまうものなのだ。
末期ガンの姉妹はすでにフェイスによって抗がん剤をご自分でやめていた。こんなので体力を消耗して寝たきりになるより、残された時間をすべて主のために捧げたいと。たとえ自分は死んでも良いと・・・。まことに主の御手の中に自分を投げ出されていたのだ。ペテロのようにコンフォートゾーンから波の上に一歩足を踏み出していた。主は彼女のその行いを伴ったフェイスをすでに受け入れて下さっていたのだ。そこに私が関わっただけ。認知症のご婦人は私自身はまったく関わっていない。
イエスご自身も故郷では不信仰のゆえにほとんどみわざを成し得なかったとある(Matt 13:58)。鍵は何か?もちろんフェイスだ。イエスの元にフェイスによって来た者はみな癒された。時に主は、相手の不信仰にも関わらず癒すと言われることがある。それはまことに神の一方的憐れみとパワーの証、ご自身の証である。しかし、一般的には互いにフェイス空間、あるいはフェイス・オーラの中におれば、なお一層容易に神のわざは現れる。
フェイスってなに?終わりの時代、今、ここで改めてそれを再確認する必要があろう。