老子第五十三章
- 2016/06/05 20:22
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:漢詩, 信仰
- Tag:老子
使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好徑。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸。非道也哉。-老子第五十三章
我をして介然として知有らしめば、大道を行くに、ただ施(ななめ)なるをこれ畏れん。大道は甚だ夷(たい)らかなるも、而も民は径(こみち)を好む。朝 は甚だ除(きよ)められ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵(ぶんさい)を服し、利剣を帯び、飲食に厭(あ)き、財貨は余り有り。これを盗の夸 (おご)りと謂う。道に非ざるかな。
大道を行けば安らかに生きることができるのに、民は小賢しい脇道を行きたがるもの。こうして世は道を外れ、卑しくなるのだ・・・が、大意。
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。-イザヤ書
老子の説く道(タオ)の実体(サブスタンス)はジーザス。
わたしは道である。羊はわたしを通して出入りし、牧草にありつく。-ヨハネ福音書