聖書と曹操
三国志のヒール役。「治世の能臣、乱世の奸雄」と称され、劉備や孫権に比すると完全に悪役。彼は自分の悪行を隠蔽するために叔父を切り、野を彷徨うが、その時に共に逃亡したかつての盟友、今は呂布の軍師公台に言う―
「わしはこの世の道徳観念などはとっくに捨てたのじゃ。わしは奸雄と言われる。正論を吐く者は殺され、君子となった者は侮辱され、殺されることすらある。わしが目指すのは志を実現する奸雄じゃ。古より、大奸は忠に似て、大偽は真に似るとある。忠義も奸悪もうわべでだけで区別がつくものではないのじゃ。そなたたちはわしを見誤った。わしはわしであり、どう思されようとかまわんのじゃ」と。
そして公台に翻意を促し、自分に恭順するように促すのだが、彼は拒絶する。その時、処刑人の刀が宙に舞うのだった。その瞬間、なんと曹操は涙を流すのだ。このコントラストが曹操の魅力。自分が悪党であることを知っている。むしろあえて悪党を演じている。しかしその心根の深い部分には熱き心が脈打っている。
彼は言う、「敵に怒ってはならん。見方が曇る。敵を憎んではならん。判断が狂うからじゃ」。彼は徹底してニンゲンを知悉していた。ゆえに、「我は人に背くとも、我に人を背かさず」と言い放った。対する劉備は「人、我に背くとも、我、人に背かじ」。自己の忠義の価値観によるマイワールドに生きていた。見かけは高尚、だが実際には荊州を孫権から卑劣な方法で騙し取り、居座ってしまう。確かに彼の周囲には秀逸な人材が集まった。が、彼らは劉備の理想論的かつ空論的マトリックスの中で消耗品とされたのだ。しばしば善人は自分のもっとも近しい家族や友人の犠牲の上に成り立つのだ。その劉備も最期は錯乱状態に陥り果てる。彼は、ついに自分を含めたニンゲンを知らなかったのだ。
さて、聖書はなんと言うか。「義人はいない、ひとりもいない。みな神の栄光から外れて、無益なものとなっている」。要するに徹底した性悪説である。フェイスのスタートはここから。このことを徹底して認めない、あるいは認めたくない者たちは、自分を聖化するとか、純粋な集会を保つとか、真実な交わりに与るとか、純粋な聖書の御言葉を守るとか・・・・。様々な、もとよりあり得ないことを追いかける。それは逃げ水のようなもの。こうして何度も自分や他人につまづき、挫折する。それは劉備的なマイワールドを勝手に投影しているに過ぎない。
かくして歴史は曹操を選ぶ。司馬懿の下で曹丕は漢の献帝から禅譲されて魏の初代皇帝となる。司馬懿も曹丕もニンゲンを知っていた。同様に徹底的に自分を知り、悪人とされた者は神の小羊の血と十字架の価値を見出すのだ。それによってのみ我々もジーザスから全権を禅譲され霊的領域を制覇することができるのだから。
まことに神はエサウを憎み、ヤコブを愛したとあるとおりだ。