刺青―聖霊に意図的に反することを行う結果は重大
- 2016/07/28 16:46
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:律法, いのちの御霊の法則, 油塗り
今回の相模原事件の犯人の刺青は事件の本質の象徴である感じだ。ニッポンキリスト教なる業界においてもあえて刺青を入れて自己アピールを図る人がいる。件のアーサー・ホーランドさまなど。それは大したことではない。本人は真剣に伝道しているではないか、と擁護する向きもあるが、はっきり言っておく。それは闇の侵入の兆候。すでにアーサーも以前のような純粋な御言葉を語るというより、自分の人生観や仏教だの、東洋思想だのを前面に出したスタイルに落ちている。そしてオーラが暗い、というより、濁っている。ちなみに彼の盟友松沢牧師についても懸念を書いたことがあるが、あのような末路を辿ってしまった。彼と同じオーラを感じるのだ。
10年ほど前に私は、アーサーは果たしてどのように自分の人生の締めくくりをするのだろうかと書いたことがある。その後、御茶ノ水駅で疲れた顔をした彼にも遭遇したが、すごろくで言えば、彼の「上がり」に対して、極私的にはきわめて危ういものを感じている。アメリカ十字架横断を終えたら、今度は台湾だそうだが、すでにタコの糸が切れている感がある。まあ、彼には意見する者もいないであろうし、また意見しても彼は耳を貸そうとはしないであろう。オレはオレの道を行くぜ、ベイビー。それは実に哀しい状態、マイワールドを彷徨う状態だから。
律法は生きているのだ。それは聖なるもの、神の基準を明文化したものであり、それは天地が過ぎるとも一点一画たりとも滅びない(Matt 5:17-18)。ただ、律法は人を救えない。いのちを与えないからだ(Gal 3:21)。しかもそれはアブラハムに対する約束、すなわちキリストの地上への介入後、430年経って付加的に与えられたものであり(Gal 3:17-19)、それはキリストが現れるまでの養育篝なのだ(Gal 3:24)。
ゆえに、それはキリストが現れた今、レビ系祭司制度からメルキゼデク祭司制度に変わり(Heb 7:11-12)、その役割をすでに終えたが、消滅したわけではない。代わって、いのちの御霊の法則が導入され(Rom 8:1-2)、その法則に従うとき、われわれは石の律法をも満たすのである(Rom 8:4)。キリストの復活のいのちによってはじめて律法は成し得ることができ、ゆえに御霊は決して律法に反する導きはなさらない。
死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。わたしは主である。-Lev 19:28
はっきりという、あえてこの御言葉に反することを行うことは御霊に反するのだ。それは闇の敵の霊の侵入を許すことを意味する。自ら敵を招き入れることになるのだ。必ず体・魂・霊のいずれかの領域を侵食されるであろう。なぜ?神の霊に反すること、それはすなわちアンチ・キリスト=反アノインティング(油塗り)であり、うちなるキリストの油の教えに意図的に背くことだからだ。
しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれたいただいた塗り油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。-1John 2:27
反キリストとは特定の個人だけを言うのではない。この油塗りに反することを意図的に行う者はみな反キリストである。その代償は大きいものとなる。小さな兆候はきわめて重大な結果を生む。律法に抵触することをあえて行うならば、自らにサタンの侵入を自ら許可するのである。これは同性愛問題なども同じである。
相模原事件を契機として、警告をしておく次第だ。
追記:刺青はタロットカードやオイジャボードと同じ程度の霊的危険性がある事をあえて指摘しておく。これらのものに関わるならば、そのうち「声」を聴くようになる。
■参考: