キリストは私をオーバーライト(上書き)した

霊的真理は日本語で理解してはならないと何度も指摘している。日本語のマトリックスにハマると元々の豊かな意味が削られてしまうのだ。かくしてニッポンキリスト教でよく言われる;「イエス様は私の身代わりとして死んでくださったから、私は罪を赦された哀れな罪人として地上の人生を神さまに聞きしたがって、きよく・ただしく・まずしく生きたら、死んでも天国に行ける」という「福音」に落ち込む。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 -1ペテロ3:18

この邦語訳、とんでもなく訳者の解釈が入ってしまっている。原語には「身代わり」などの単語はない。ここは新共同訳の方がまだ正確だ。

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

ここの「ために」という単語を「身代わり」と解釈したのだ。ギリシャ語は”huper”(英語の”hyper”)、その意味はStrongによると-

A primary preposition; “over”, that is, (with the genitive case) of place, above, beyond, across, or causal, for the sake of, instead, regarding; with the accusative case superior to, more than. In compounds it retains many of the listed applications: – (+ exceeding abundantly) above, in (on) behalf of, beyond, by, + very chiefest, concerning, exceeding (above, -ly), for, + very highly, more (than), of, over, on the part of, for sake of, in stead, than, to (-ward), very. In compounds it retains many of the above applications.

つまり、「超えて、上書きして、余りある」の意味だ。アダム系に生まれた私はキリストと完全に結ばれて(Rom 6:5)、死んだ;そして復活し、新しい創造として新しい私が生み出された。これは新生命体、ニュークリーチャー、ネオ・ホモ・サピエンス、すなわちエクレシアだ。

この「結ばれて」の意味も深い。原語は”sumphutos”。Strongによると-

grown along with (connate), that is, (figuratively) closely united to: – planted together.

Thayerによると-

hayer Definition:
1) born together with, of joint origin
1a) connate, congenital, innate, implanted by birth or nature
2) grown together, united with
3) kindred

KJVでは”planted together”と訳されている。つまり、インプラントされ、共に生み出され、源が結合されているの意味だ(☞包括の原理について)。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。-コロサイ1:18

御子は死者の中から最初に生まれたお方。つまり最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活し、新創造を生み出されたのだ(1Cor 15:45)。その一連の過程においてわれわれも共にあずかり、共に生み出されたのである。もっと言えば、キリストの運命が私の運命であり、キリストは古い私をオーバーライトされた。見よ、すべてが新しくなったのだ(2Cor 5:17)。

繰り返すが、ジーザスの死とは、単なる身代わりではない。確かに身代わりの側面もあるが、それだけでは冤罪である。そこに私も包括され、共に処刑されたのだ。だから二度と裁かれることはない(一事不再理の原理 cf. Rom 8:1)!キリストは旧創造にあった私のすべて(良いものも悪いものも)を包括され、それを終わらせたのだ。

さらにキリストは罪を知らない方であったが、罪(Sin)とさえされた(Rom 8:3)。罪と言う時、日本語では単複の区別がないが、明確にSinとsinsは分けて使われている(☞罪とは)。Sinはいわゆる原罪と言えるが、私たちの体に宿っており(Rom 7:17)、罪と死の法則によって罪の体を支配している(Rom 7:21-23)。しかし、キリストはそのSinそものとされ、十字架につかれたとき、実はご自分の体にあってそのSinを処断されたのだ。それはSinを主人の座から引き下ろしたことを意味する(Vincent)。

さらにさらに、キリストは呪いとされた(Gal 3:13)。それは私たちをアブラハムの祝福へともたらすためであった(Gal 3:14)。つまりキリストはアダム系を支配した罪(Sin)とされ、呪いとされることにより、それらを十字架で完全に終わらせ、それを余りあるほどに義と祝福によってオーバーライトされたのだ!

しかも、その十字架は創造の時にすでに存在していた(Rev 13:8)。神のわざは天地創造の時以来すでに完成されている(Heb 4:3)。神のわざは時空間を超える。その永遠の領域は常にNOWであり、そのサブスタンスを時系列に生きる私の経験として現出させるパワーがフェイスである。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質)、観察されていないことのエヴェデンス(現出・暴露)である。-ヘブル11:1(私訳)

フェイスは安息である。このすでに完成された神のわざを見るならば、自分の力であれこれ何とか努力しようとするもがきから解かれるであろう。ニッポンキリスト教徒よ、クルシチャン症候群から解放されよ!

信じた私たちは自分のわざをやめ、安息に入る(Heb 4:1-13)。

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