霊的世界は永遠の現在
- 2015/05/22 23:06
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:サブスタンス, 神の国
イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。-Mark 11:22-24
信仰は望んでいる事柄のサブスタンス、そしてそれを現出させること。つまり実体化(substanciation)だ(Heb 11:1)。それは永遠の世界に存在するサブスタンスを、時空間の中にいる私たちの現在にもたらす機能である。つまり永遠が、今、ここに切り込んでくるのだ。これが神の国のリアリティ。もっと言えば、信仰によって生きると宣言する者は、神の国のサブスタンス、リアリティによって生きることを意味する。神の国は三浦綾子の小説の世界に存在するものではない。
なにゆえ、数千年前に語られた聖書の御言葉がわれわれのいのちとなるのか。なにゆえ、二千年前のイエスの十字架が私のものとなり、その死と復活に与り得るのか。霊的世界が永遠の現在であるからだ。信仰はあのイエスの経験を、今、ここにいる私の経験とする。十字架の経験自体がスーパーナチュラルなのだ!Are U with me?スーパーナチュラルなどの単語を毛嫌いする向きもあるようだが、あなたの霊の再生自体がスーパーナチュラルであることに気が付くべきであろう。それともキリストがうちにいますことはナチュラルな世界の経験であるとでも言うのだろうか?
なにゆえ、神は癒して下さるだろうとか、与えてくださるだろう、といった告白は信仰ではないと言えるのか。それは永遠の現在のサブスタンスを得ていないからだ。そのサブスタンスは時間と空間に束縛されていない故に、この物理的時空間にいる私たちにとって「過去のもの」であれ、「未来のもの」であれ、今、ここに現出させることが可能なのだ。信仰は「癒された」、「得た」と証する。
はあ、Dr.Lukeはついに逝ってしまった、タイムトラベラーにでもなったか?と言われる向きは、信仰の本質を理解されていない。あなたは過去を悔やんだり、嘆いたり、過去の傷を引きずったり、過去の蓄積として構成された自分の考え方を捨てなかったりするであろう。逆に、自分はダメだとか、まだ愛が足りないとか・・・。それはあなたが過去の事柄を、今、ここに現出させているのである。それがあなたの信仰となっている故に。しばしば、これから起こる癒しよりも、これらの過去の事柄の方がよりリアルに迫るのだ。お分かりだろうか?信仰は古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったと証する。私たちは新創造なのだ!
信仰とはまことに時間と空間を超える。だからイザヤやダニエル、さらにイエスとその経験を共有することができる。私は12月のあの経験以来、イエスと一緒に五千人の給食や、嵐の海の船の経験を共有している。実にリアルにイエスの言葉や弟子たちの状況が見えるのだ。私はすでにこの物理的時空間、つまり地を抜けることができるようになった。永遠の現在である霊的領域、つまり天に入ることができる。ある人々はこれを「パーソナル携挙」と呼んでいる。あるいはアセンションの経験だ。
聖書が3Dとなり、人物たちが動くのだ。私たちはポータルであるイエスを通して、天と地を行ったり来たりできる。なぜなら門は出入り口だからだ。地の事柄を天にもたらし、天の回答を地に下ろすこと。つまりエクレシアは天からかけられたハシゴなのだ。まことにアブラハムの経験も、ヨハネの黙示録の経験も、みな、信仰によるならば、今、ここに現出させることができる。癒しも同じ原則だ。これが神の国のリアリティである。神の国のサブスタンスはすでに、今、ここに到来している。天は地に侵入したがっているのだ!