フェイスは自転車に乗ることと同じ-霊的法則をつかむ

自転車の乗り始めは補助輪をつける。しかし走ると補助輪は浮く。つまり二輪だけで走っているのだが、本人は気がついていな い。そこで補助輪を外すと、途端に走れなくなる。なぜ?マインドに去来する恐れのゆえだ。実際は補助輪があっても、それは役をなしていなかったのに、いざ外すと走れない。こ れがマインドのなせるわざ。つまり補助輪に頼り、補助輪があるから安心と思っているから。彼のフェイスは補助輪に置かれている。そのマインドのマトリックスにはまっているわけ。が、事実はすで にそのマトリックスを逸脱している。お判りでしょうか、その人にとってのパーソナル・リアリティーと真のリアリティーは異なるのだ。

自転車が走るのは目に見えない物理の法則による。それをつかむこと、あるいはそれに乗ること。ここでマインドのリニューアルが要る。目に見える補助輪で走 るのではなく、目に見えない法則にのること。これがフェイス。が、これまで頼ってきた目に見える補助輪がないと怖いのだ。恐れ。それは幻想であるとわかる。なぜ?すでに補助輪は不要になっているのだ。しかしマインドが補助輪に置かれているゆえに、それがないと恐れを覚える。

フェイスによる歩みもかくのごとし。目に見える何か、これまで頼りとしてきた対象、自分のアイデンティティーや生存を担保してくれる何か、それがなくなる ことを人は恐れる。が、私たちは目に見えるところによらないで生きる(2Cor 5:7)。それはフェイスの法則だ(Rom 3:27;8:2)。何もないようであるが、物理的法則は働いている。霊的法則 も同様。それは見えないが、現に存在する。フェイスを使うこと、フェイスに任せること。フェイスを働かせること。

補助輪を外した当初は1m進んでは倒れ、また起きては倒れだ。が、あきらめたらそこで終わる。傷つきながら、何度も繰り返すと、ボディが法則をつかみ覚え る。するとあとは自動的。何の力みもなく軽く走れる。手放しすら可能。ただこぎ出せばよいのだ。まことにフェイスによる歩みもかくのごとし。なんと安楽なものだろうか。何の労苦も要らない。フェイスを働かせるだけで何でも得られる。神の用意された資源(サブスタンス)はすべて使うことができるのだから。そのためには―

フェイスの覚醒!

Glory to God!!!

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