ニーズドリブンからフェイスドリブンへ-時空間を超える生き方-

世の諸事で苦労してるクリたちは目先の対応に追われ、常に後追い状態に陥っている。つまりニーズドリブン。対してフェイスドリブンは常に生起した未来を現在化して経験する[1]私の著書『真理はあなたを自由する-ファクターXの再発見』でも、「信は完成した未来を現在に霊的に逆算する」と書いた。。フェイスの法則(Rom 3:27)を掴めば実に簡単なのだが、ともすれば人はソレを単なる理想論、理屈に過ぎないとしてマジで捉えない。実にもったいないことだと思う。

そしていざ問題が生じるや、カウンセラーやボクシや人生コーチなどを巡り歩く。これで商売している輩もいるから、持ちつ持たれつではあるが、果てしないモグラ叩きの人生になるだろう。

聖書はこう啓示する:

もっとも神のわざは天地創世のときにすでに完成していた。-Heb 4:13

その完成したスピリチュアル・マトリックスに生きることがフェイスである。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた御子信のうちにあってです。-Gal 2:20(改)

御子の信(フェイス)は時空間を超える

イエシュアがラザロを復活させたとき、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」と宣言された(John 11:41)。時空間を超えてすでに結果を得ていたのだ。

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。-Eccl 3:11

ここは永遠を思う思いではなく、永遠そのものを置いたのである。そもそも時間はしつこい幻想であるとアインシュタインも喝破したが、物理法則に束縛されていると時間がリアルに感じられる。私たち、ニュークリーチャーは物理法則を超える領域にあって生きるのだ。

最新の物理学では時間とは何かが問われている。時間という当たり前と考えていたことが必ずしも自明ではないことが明らかになってきたのだ。この時間の中で祈り求め、いつかなえられるか、いついつ・・・と待ちくたびれ症候群に陥るのがクルシチャンたち。こんなに熱心に祈ったのに神はかなえてくれない、なぜだ~と叫ぶ。これがポセイドンアドベンチャー・メンタリティー、神を有責とするのだ。

また一方で、自分の時空間の中における功績を誇る輩もいるが、彼らの運命は次のとおりである:

かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども[2]この意味は、いわゆる悪さをすることではなく、法則に則らないことである。つまりフェイスの法則によらない者たちである。、わたしから離れ去れ。』」-Matt 7:22-23

ニッポンキ業界のボクシの悲願である、「高い塔のある大きな会堂を建て、有名になって、散らされないよ言うにしよう」はバベルの塔の動機であることは何度も指摘しているが、この野心は時空間に束縛されていることの証明である。だから、自分のわざによってそれを達成しようとする。その達成を主の前に持ち出すならば、上記の聖句のとおりである。

お分かりであろうか? フェイスは時空間を超える。それはすなわちこの五感の領域にいる私の何かによらないのだ。御国の中においては、私のボディ・ソウル・コンプレックス(パウロの言う肉)は一切役に立たない。ボディ(体)とソウル(魂)はスピリット(霊)によってドライブされる時にこそ用いられる。ゆえにパウロはこう証言する:

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10

恵みとは何か? 内にあってキリストご自身が活動されることである。ニューマティック・クライストが私のボディとソウルを通して働き出て下さる、これが恵みである。

キリストがわたしを通して異邦人たちの従順のために働かれたこと以外、私は敢えて何も話そうとは思わないからである。〔すなわちキリストが〕言葉とわざにおいて、徴や奇跡の力において、〔神の〕霊の力において〔働かれたことのみを語ろうと思う〕。-Rom 15:18-19(岩波訳)

お分かりだろうか、主語は私ではなく、キリストである! 私のボディとソウルを通してキリストが働き出て下さること、これがエウセベイアの奥義である(1Tim 3:16)。

このときに大切なのは、中動態的生き方である。大脳科学的にはデフォルトネットワークモードと言われる。

道元のことばをクリスチャン的に翻訳するならば、こう言えるであろう:

ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督となる。(正法眼蔵現成公案改)

フェイスは常に時空間における完成された未来を先取りしている。だから問題や欠乏や病に追いかけられる人生から解かれる。なんと安楽な生き方であろうか。このとき、私たちは生活感を醸さなくなる。ニュークリーチャーにはこの世における生活感ではなく、永遠の世界に生きるキリストの香りが漂うのだ。よって老けることもない。常に。プリプリ・ピカピカ・ツヤツヤ・キラキラである✨

マジ受けした人は幸いである。キ業界も含めた世はそんなに甘いものでないと、世に飲み込まれる向きはご自由にどうぞである[3]キリスト教はすでにこの世に組み込まれて、ソドム・エジプト化している。いずれバビロンの主要な構成要素になるであろう。

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1 私の著書『真理はあなたを自由する-ファクターXの再発見』でも、「信は完成した未来を現在に霊的に逆算する」と書いた。
2 この意味は、いわゆる悪さをすることではなく、法則に則らないことである。つまりフェイスの法則によらない者たちである。
3 キリスト教はすでにこの世に組み込まれて、ソドム・エジプト化している。いずれバビロンの主要な構成要素になるであろう。

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