ラウレンシオ修士の『神の現存の体験』の示すマインドのパワー

カトリックの東京女子跣足カルメル会訳、『神の現存の体験』(ドン・ボスコ社)。これ、2004年に購入。ラウレンシオ修士はフランス読みだ。プロテスタントではブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』(CLC暮らしの光社)として知られている。私も救いを受けた頃、この本に没頭したものだ。実にスウィート。読んでいるだけで臨在に入ることができる。今回、カルメル会訳で改めて読み直している。それが実に面白い。彼は知っていたのだ、マインドのパワーを。

絶え間なく神と語る習慣をつくり、自分のするいっさいを神に帰するようになるには、始めのうちは、少し努力が必要であった。しかし、しばらくこれに心を用いているうちに、なんの苦労もせずに、神の愛によって目覚められるのを感じるようになった。

思念がすべてを悪くする。悪はそこから始まる。何か思念の起こった時、それが、自分の今していること、あるいはたすかりのために必要でないと気づいたならば、ただちに捨て去り、平和と満足を味わっていた神との語らいに、またもどるように心すべきである。

悟性の働きと意志の働きとを大いに区別しなければならない。前者はたいしたものではないが、後者はすべてである。神を愛し、神とともに楽しむこといがいになすべきことはない。

彼にとっては苦痛も安楽も同じものだった。ただひとつ彼が求めたことは、神の臨在にとどまること。「臨在」、”presence”と訳された単語の原義は”paniym”、つまり「顔」。「ペニエル(神の顔)」もそこからだ。ラウレンシオは、「生きながら皮をはがれても、神の臨在にあれば苦ではない」とまで証している。それほどに彼にとっては神の顔はリアルだったのだ。

その妨げになるものが思念。thoughtsだ。私たちのマインドに飛来する、あるいは湧き上がるもろもろの思い。一日どれほどの思いが飛来したり、湧き上がったりするものであろうか。悩みなどはこれらのあるもの絡まれることから生じる。思いが乱されると感情が乱れ、意思決定が乱れ、ついには身体が乱れる(☞霊と魂の相互作用)。意志を用いてこれを管理すること。これが神との単純な語らいにとっての鍵であるというのだ。聖書には明確にこう書いてある:

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。-Rom 8:6-7

このマインドの時々刻々展開する思いを管理すること。これこそが神のスーパーナチュラルを経験する鍵である。

わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ・・・-2Cor 10:4-5

カトリックなる組織は大いなる問題があるが、一人ひとりの兄弟姉妹は確かにキリストの体の肢体なのだ。極私的にもブラザー・ローレンスやマダム・ガイオン(ギュイオン)に大いに霊的助けを受けてきた。

また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。-Rev 2:24-25

■参考:教会歴史について

 

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