仁和寺の和尚現代版であるニッポンキリスト教

どうも、ニッポンキ業界の”信仰者”なる人々、特にリバイバルを求めて熱心な面々を見ていると、真剣に的外れを演じているケースが多い。そもそもジーザスが言ってもいないことや邦訳聖書の誤訳を間に受けて、自分 は自分の信仰に忠実に生きているのだ!と懸命に主張している姿はかなり滑稽。自分のオツムの中での空転、要するに自作自演なのだ。カプセル化したマイ ワールドに生きているわけ。今のボクシの説教をジーザスが聞かれたら、オレ、そんなことを言ったか?であろう。

今回のメッセでも語ったが、「わたしの信仰」、「あなたの信仰」なる表現がすでに的外れ。フェイスをとんでもなく勘違いしている。が、わが道を行く彼らはなぜか聞く耳を持たない。徒然草の仁和寺の和尚の話は他人ごとではない。

徒然草:仁和寺の和尚

仁和寺にある法師、年寄るまで、
石清水を拝まざりければ、
心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、
ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。
極楽寺・高良などを拝みて、
かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、
「年頃思ひつること、果し侍りぬ。
聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。
そも参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん。
ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、
山までは見ず」とぞ言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。

繰り返すが、罪(ハマルティア)とは的外れ。人は純粋また真剣であればあるほど、それに気がつかない・・・。それを指摘するとかえって頑なになったり、怒り出す。タテノリガチャガチャ音楽と共に「聖霊様充満~」とか「聖霊様油注ぎ~」とかのヒステリックな叫びや、一方の「靖国反対~」とか「憲法九条改悪反対~」とかのスピーカー越しのがなり声にもすでに辟易だが、彼らはモロ真剣。彼らはしばしば”善人”であるゆえに、こちらが不当とされて憐れみを受ける。まことに親鸞ではないが”善人”は救われない、”悪人”であることは幸いなのだ。

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、<聞く者は>更にたくさん与えられる。持っている人 は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」-Mark 4:24-25(<>は邦訳では削除されている)

聞く耳のある者は聞くがよい。-Mark 4:9

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