スピリチュアル・エンタングルメント-地におりかつ天にいること
キリスト教はしょせん五感の領域の事象に過ぎない。この中でニッポンキリスト教、カンコクキリスト教、アメリカキリスト教・・・なる現象が生じている。これは単なる宗教だ。そのマトリックスの中でいわゆるリバイバルを求め、タテノリガチャガチャの種々のイベントを企画するが、主ご自身がどこかに行っている[1] … Continue reading。まことにラオデキアの有様が展開している(☞教会歴史について)。
さて、ここではiPAIの覚醒を訴えている(☞iPAIの覚醒)。すなわち、アイデンティティー、ポジション、アビリティー、インヘリタンスだ。自分が何者であり、どこにおり、何をなし得て、何を得ているか。これが地上におけるわれわれのあり方を定義する。この御言葉は実に不思議。
And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. –John 3:13
これを訳すると[2]邦語訳では「天にいる」がカットされている。
誰も天に昇った者はいない。天から下ってきた者、天にいる人の子以外には。
はあ? 天から下ってきて、しかも天にいる、しかも人の子が? 一方でエペソにはこうある:
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6
はあ? 私たちは地上にいる者だが、天の王座にキリストと共に座している? 主ご自身が
わたしが世のものではないようにあなたがたも世のものではない。-John 17:14
ここの「ように」はjust sameにだ。キリストのうちに置かれたわれわれはその死と復活に共有し、さらにキリストと運命を共有している。これを霊的エンタングルメントという[3]今回の英国のFaith CampにてColin … Continue reading。さらにパウロはこうも言っている:
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、人として歩んでいる[4]邦語訳では「単なる人」とされているが、「単なる」はない。、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3
はあ? 「人として歩んでいるということになる」とは、私たちの本来のアイデンティティーは人ではないということ? そう、私たちは世の人と同じ種ではなく、キリストにある新種(ニュー・スピーシーズ)、新創造(ニュー・クリエイション)、すなわち新人類(ネオ・ホモサピエンス)なのだ。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新創造(KJV:a new creature)なのです。-2Cor 5:17
これらはたとえ話ではない。そのとおりに受け止めるのだ。われわれは天に座しかつ地にもいる。つまり天と地の接点にある新しい創造物なのだ。人の子であるイエスがそうであったように(John 1:58)。神の国(ザ・キングダム)は、今・ここに現存する! イエス様を信じれば死んだら天国に行けるといった幼稚園レベルを卒業せよ。神の国はわれわれの内にある。神の国は領域・主権・パワーを有する。そのサブスタンスをわれわれを通して五感の領域に現出させること-これが地上に置かれたエクレシアの任務なのだ[5]この意味でエクレシアは地上において神の統治を執行する出先機関あるいは派出所と言えるのだ。。繰り返すが聖書はマジでとらえるとやばいのだ。
References
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