再建主義者はなぜAD70にこだわるのであろうか2

富井氏による先の記事の続編が出ている。

新しい主張は何もないが、AD70の主の「空中来臨」により当時のクリスチャンが全員ではないが携挙され、霊の体に変えられて天に生きている、ということのようだ。根拠はパウロが「生きている私たち」と言っているからだと。携挙が未来のことであるとパウロがウソをついたことになると言うわけだ。ところがそのパウロ自身はAD70には生きていないのだ。

ここですでに指摘した通り、二度の「再臨」とはおかしいだろうとの私の指摘を、おそらく受けて、「来臨」と言い換えている。原語は「パロシーア」だ。それは必ずしも地上に降り立つものではないとも。

かくして「世の終わり」とはAD70のエルサレムの陥落であり、旧約世界が滅ぼされ、現在新しい千年期時代に入っており、全世界が福音化されたのち、イエスは再臨されると言うシェーマである。なにゆえここまでAD70をもって区切りたがるのか。新旧の致命的区切り、あるいは相転換は十字架による死と復活によるのだが・・・。

富井氏と私のシェーマを再掲しておく。

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